250年も私たちは色恋沙汰を続けて

ピエール・ショデルロ・ド・ラクロによる『危険な関係』を友人に勧められて読んだ。本裏表紙のあらすじによれば、「十八世紀、頽廃のパリ。名うてのプレイボーイの子爵が、貞淑な夫人に仕掛けたのは、巧妙な愛と性の遊戯。一途な想いか、一夜の愉悦かーー。子爵を慕う清純な美少女と妖艶な貴婦人、幾つもの思惑と密約が潜み、幾重にもからまった運命の糸が、やがてすべてを悲劇の結末へと導いていく。」とのこと。もう少し詳しく紹介すると、ヴァルモン子爵(独身)と貴婦人・メルトイユ夫人(未亡人)は恋人関係にあるのだが、お互いの情事を自慢するような間柄で、そこには嫉妬や駆け引きは存在していなかった。ある日、自分の悪評を立てるヴォランジュ夫人という女に腹を立てた貴婦人のほうはその娘であり結婚の相手も決まっているセシルを手籠にせよと子爵に告げる。しかし子爵は子爵のほうで別の人妻であるツールヴェール夫人(上記あらすじの"貞淑な夫人")に心を奪われつつある。貴婦人の描く計画と、子爵、人妻、娘、また貴婦人自身の激情が、書簡形式で語られていくなかで物語は進行する。この書簡形式というのが、人間の心理とそのすれ違いやまやかしをより際立たせており、小説の構造としてはおもしろかったのだが、あらすじにもあった「悲劇の結末」というのがなんともまあゴシップ的な安い三文小説めいた終わり方で読了感はいまいち。途中の書簡に出てくる人間同士の色恋と言い訳も時折うっとうしさを感じさえする。

おそらく私はこの人生においてこの本を読み返すことはきっとないのだろうが、はあしかし、この本に登場する恋愛描写は二百五十年経ったいまの時代を生きる人々の恋愛とそう大して変わらないものであることよ。

本当に恥ずかしいんだけど、いま私にも十八世紀な言葉でいう"""恋人"""がおり、しかしはじまって3ヶ月くらいのときには思わず膣が病んだ(なのでそういうブログ記事も書いた)。こういう恋人ができるのは本当に百回目くらいなのに(嘘、まあでも五回目くらい)、どうして何度も何度も私は病んでしまうのか。

「男の方が女を征服するのに、女が身を守ったり身を任せたりするのとおなじくらいの巧妙さを必要とすると、かりに仮定してもよろしいですわ。それでも、成功してしまえばもうそれも必要としなくなることは、少なくともお認めになるでしょう。男の方は自分の新しい好みにもっぱら心をもちい、心配も遠慮もなしにそれに身をうちこむのであって、長続きをすることなどはあなた方にはどうでもよろしいわけです。

 お互いにあたえたり受けたりすること恋の絆を、思いのままに締めたり緩めたりできるのも、ほんとに男の方だけです。…」(p257、メルトイユ公爵夫人からヴァルモン子爵宛て)

とどのつまり、小難しいことを考えても、私はいつまで経っても男性器と恋心を取り違えてしまい、やんになってしまうよ。この愚かさについてはすでにメルトイユ夫人も語っているというのに。まあ。

「あなたのご忠告やご心配は、すぐに夢中になるような女、すぐに情にほだされるような女たちのために取っておいてやってください。空想にすぐに火がついてしまうのを見ると、まるで生まれつき感覚が頭へあがっているとしか思えないような女たち、反省がないのでたえず恋と恋人とをとりちがえてしまうような女たち、ともに快楽を求めた相手の男だけが恋をあずかっているのだとというたわけた夢を信じているような女たち、まったくの迷信家で、神のみに捧げるべき尊敬と信仰とを司祭に対していだいているような女たち、そういう女たちのために取っておいてやってください。」(p259、メルトイユ公爵夫人からヴァルモン子爵宛て)

「快楽はたしかに両性を結合させる唯一の動機ではありますけれど、それだけでは両者のあいだの関係を作りあげるにはたりないということ、また、快楽には両者をひきつける欲情が先立つものですが、やはりそのあとには両者を反撥させる嫌悪感がつづくものだということを、あなたはまだお気づきにはならなかったのですか。これは自然の掟で、恋のみがこれ変え得るんです。しかし、その恋というものは、しようと思えばいつでもできるものなのでしょうか。そうではないのに、やはり常に恋は必要なのです。とすれば、うまいことに恋というものは一方にだけあればそれでじゅうぶんなのだということに気づかないかぎり、ほんとに厄介なことになりますわね。そのお陰で、困難は半分になり、失うところも大きくはないわけです。一方は愛するという幸福を味わい、他方は好かれるという幸福を受ける、なるほど後者の幸福はいささか弱いものですけれど、相手をだますという楽しみをそれにくわえれば、双方はつり合いがとれて、万事はうまくはこぶわけです。」(p468、メルトイユ公爵夫人からヴァルモン子爵宛て)

こう語っていたメルトイユ夫人が、「悲劇の結末」という織布の中のどの部分を彩るかはここでは触れない。ここで冒頭に書いた通り、話の終わり方自体は安い三文小説じみていて、つまり、話の筋を知っていても何度読んでも刺激と発見を与えてくれる"古典”とは異なり、話の展開のみに麻薬的面白さのほとんどを依ってしまっている小説なので、ネタバレは厳禁であると思う。しかしこの小説がそうした典型的な物語であるとしても、恋愛における心や肉体、目線の揺れ動きの描写が大変優れている場面も多い。ヴァルモン子爵が恋文をセックス中に書くシーンなんかはおぞましさにげらげらと笑いそうになるのだが、しかし、

「二人の視線はぶつかることに慣れてきて、少しずつ長く見つめ合うようになり、ついには離れなくなりました。私はあの人のまなざしの中に、恋と欲情のさいさきのよい合図であるあの物思わしげな影をみとめたのです。」(p234)

このような繊細な描写もあり、上記のような男女の関係におけるせちがらい恋愛心理と併せ、訳者の竹村猛が「いかなる時代の人間にも着せかえることができるというある意味の弱点」(p594)と評するような描写に満ちた本であることには間違いない。というわけでなんだかんだいつかこの本のことを読み返すときが来るかもしれないね。