2月(幼少期の第六感と現在の日曜日の夜)

 いままでいろいろとこのブログでも労働についての文句を垂れてきたがそれでも労働は手を変え品を変え不愉快を私に与え続けてくるのだから凄まじい。そのあたりの話はまた別の機会に行うとして、そうして労働で血ののぼった頭を冷やすための読書、観劇の記録を先に。労働はあと。


ナボコフ文学講義 上(河出文庫)
 『ボヴァリー夫人』を読んだのでその理解を深めるためとして、序章の部分と該当の講義録の部分だけ読んだ。テキスト分析の文章を読むのは久しぶりだったわけだが、ボヴァリーが用いた対位法、構造的移行の説明は刺激的だった。これら二つは特に私が文章を書く際にも気にしていたことであり、すなわち物語内で発生する「視線の移り変わり」(視線というのは、物語という巨視的な意味でも、文字通り語り手の「めせん」という微視的な意味でもある)をいかに処理するか?また読者としていかに読むか?に対する答えの一つだった。このあとに読んだミン・ジン・リー『パチンコ』はかなりそれが下手なように思えたが(翻訳の問題かもしれないが)、いま読んでいるウルフ『灯台へ』は見事である。やはりフローベールの小説は文体から構造、物語までガチガチに作り込まれており私はその隙の無さが好きだ。ナボコフが連綿を指摘するプルースト、ジョイス、(+チェーホフ)も読もうと思うが(チェーホフは読んだことがある)、人生が足りないのが恐ろしい。


桜の園・三人姉妹(新潮文庫)
 恐ろしいことにこれは大学時代に文庫を買って、確か三人姉妹のほうだけを読んでそのまま積んでいたような。私の本棚にはこうした、大学時代(しかも上京したてて鼻息の荒かった大学一年生〜二年生時代)に買ってそのまま積んだままの本が多すぎて、「私は大学時代一体何を読んでいたのだ?」(なぜならこの本のように、ある程度の年代までに読んでいて当然、というような本も積まれた本の中に含まれているから)と目眩、頭痛がするのだが…。1月に読んでいた『ダブル』(小学館)で取り上げられていたので懐かしい気持ちになって半身浴中にちまちまと読んでいた。「桜の園」も「三人姉妹」も喜劇的な要素を含んだ悲劇、とは解説(池田健太郎)で指摘されているが、どちらもやはり根底には生きることに関する、可笑しいくらいの暗さがあり、その暗さが魅力的な物語だった。どちらかといえば「桜の園」が自分の好みで、桜の美しいイメージが最後に切り倒されていくさまなども巧みだった。
 またこれはいつもの私のしょうもない感想なのだが、「労働」は生活とは切り離せないものであるから生活の暗さについて書くチェーホフが労働についても徹底的に視線を投げかけていることが心にしみた。「ああ、不仕合せなあたし……。あたし働けないの、もう働くのは御免だわ。沢山だわ、もう沢山!電信係もしたし、今は市役所に勤めているけれど、回ってくる仕事が片っぱしから憎らしいの、ばかばかしいの。……あたしはもう二十四で、働きに出てからだいぶになるわ。おかげで、脳みそがカサカサになって、痩せるし、器量は落ちるし、老けてしまうし、それでいてなんにも、何ひとつ、心の満足というものがないの。時はどんどんたってゆく、そしてますます、ほんとうの美しい生活から、離れて行くような気がする。だんだん離れて行って、何か深い淵へでも沈んで行くような気がする。あたしはもう絶望だ。どうしてまだ生きてるのか、どうして自殺しなかったのか、われながらわからない……」(p230)。人間は何年経ってもこんなことばかり言っている。


眠り展/男性彫刻展(国立近代美術館)
 「眠り」にまつわる表現をあつめた展示。「眠り」というものに色々と仮託しすぎなのでは?と斜に構えないこともなかったが(「眠る人、目を閉じる人を描いた絵を前にすることは、私たちにこれまでの行動を振り返らせ、『新しい日常』をいかに構築し、その中でいかに生きることが可能かを考えるためのヒントをもたらすに違いない。」)。というわけで「眠り」という文脈自体に感心することはなかったが、出展作品はいくつか好きなものも見つけられ良いトレーニングになった。
・オディロン・ルドン「若き日のブッダ」(1905)
・海老原喜之助「姉妹ねむる」(1927)
・楢橋朝子「half awake and half asleep in the water」(2004)
 同時に開催していた男性彫刻もついでに見た。展示は、強い男/賢い男/弱い男とセクションが分かれており、それぞれの彫刻や絵画表現がまとめられていた。強い男という表象は労働が称賛された時代の理想形を知らしめるために作られた背景もあったようで、男性という肉体もまた、もちろん女性のそれほどではないにしろ、誰かにとっての抑圧として機能していた(いる)のだろう。またこれは私の告白だが、強い男セクションの肉体造形美は現代的基準に照らし合わせてもかなり美しく、あけすけに言ってしまえば性的に興奮するものであり、女性のヌード絵画が、古典的絵画と現代では位置づけられるものでさえもポルノ的機能を果たしていたのではないか、と指摘される昨今に思いを馳せると、やはり人間は自分の加害性については看過しがちなものだと反省しもした。
・和田三造
・白井雨山
・北村西望
・萩原守衛
・石井鶴三

 あとは、二月の歌舞伎座に行き、ミン・ジン・リーの『パチンコ』を読んだが、感想を書くほうが追いつかなかったので三月に書こうと思う。1日30分英語の勉強と文章を書く練習をしようと思っていたのだが仕事がめちゃめちゃであまり出来なかった。

 かつて『エースをねらえ』という漫画でお蝶夫人が「完璧な条件でプレイできることなど一度もないのに」というような趣旨のことを主人公・ひろみに諭していたことがあって、仕事もその通りだなと感じる。人が最悪、案件の内容が好きじゃない、労働時間が長すぎる、などなど。お蝶夫人がそれでもプレイするのは彼女が「テニスを愛する者」であるからで、一方私がそれでも仕事をするのは生活を愛する者であるからだ。生活への愛を実現できる労働量は常に吟味されるべきで、そのバランスがいびつになればどこかで精神が摩耗していくだろう。もしくは銀行口座の預金残高が。
 そんなことばかりを考えている日曜日の夜はいつもものかなしい。これは直接的には労働のせいではあるけど根本的には労働のせいではなく、つまり労働やら生活やら人生への感情が「不安」という感覚になって私を満たす。
 思えば、小さい頃はなんでもかんでも不安に感じていた。必ず自分に当たる雷、必ず家族を皆殺しにする地震、誰かも知らないのに私を殺そうとする幽霊、胸をベッドに押し付けたときだけに聴こえる恐竜の足音。そういう不安を感じるとき私は母がいる階下のリビングにまで降りておそろしい気持ちを吐露する。私の母はあまり母性的感情が無い人で(もちろん母性はあった)、そういう話はほとんど聞き流されていたものの、時折は自動車に私を乗せて、夜の田舎道をドライブしてくれた。夜の田舎道と言っても、私の田舎は工場で栄えた場所だったからそれなりの店があって、コンビニ、スーパー、チェーン店が光って立ち並ぶ中を車窓から眺めていると次第に疲労を感じ、それで寝られるようになるのだった。この幼少期の第六感と日曜日の夜の不安は感情として同じボックスに入っているようで、日曜日の不安を感じるととっさに、第六感をなだめてくれた母が会える距離にいないことを切なく思うなどもする。
 母はいないが、大人になるごとにわかったのは、不安という防衛本能はほとんど意味をなさない。雷は自分には当たらないし、地震は起こるときには起こるものだし、私には霊感は全く無いようだし、恐竜は何千年も前に死んだ。仕事もいつかは終わるし、別に失敗したって世界も社会も自分も終わらない。大人になるというのは不安に慣れることだし、まだその不安に慣れぬ幼い人たちをなだめられるようになることだ。それなのにこの日曜日の夜の不安に関してはいつまでも誰かに心臓を握られたかのように感情が暗くにじむばかりで、私はまだ十分大人であるわけでもないらしい。