混雑というのはなぜ生まれるのだろうか。東京は名所はもとより喫茶店もレストランも買い物施設も、いたるところが観光地化している。美術館もまたそのようで。「観光地化」の対義語を作るとするならば「生活化」だと私は考えていて、とどのつまり、そうしたそれぞれの行為がひとつなぎの生活の中にあるものというよりは特別な行事としてしか我々の中に受容されなかった(日本)社会を思う。
うざったい冒頭だけど言いたかったのは「東京の美術館混みすぎ」ってことくらいで、美術館に行くには有給を取るほかない。有給を取って行った「重要文化財の秘密展」について、記憶に残った作品をいくつか書き留めておく。
横山大観、1923、生々流転
水の流れ、水の一生を絵巻であらわした作品。技法もモチーフも凄まじかった。三部屋くらいにわたる絵巻なので画像は略。
下村観山、1915、弱法師
盲目の法師が落日に向け手を合わせ極楽浄土を観想する姿を描いた作品。引用した画像には写っていないが左隻に赤々とした日が描かれている。能面を参考にしたという法師の表情や手つき、桜と落日の構図が静かだが荘厳な祈りの場面を心に残している。最初はなんかエモーショナルすぎて嫌だなあという印象だったが近づいて細部に見るにつれ人間の祈りの有様が真に迫っていることに心を奪われた。
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東京国立博物館 - コレクション コレクション一覧 名品ギャラリー 館蔵品一覧 弱法師(よろぼし) 拡大して表示
鏑木清方、1930、三遊亭円朝像
「優れた肖像画は被写の内面もあらわすものである」とはよく言うものだがそれが真に伝わる一作品。またこういう肖像画が重文として残る三遊亭圓朝そのものも立派だったんだろうな。
(歌丸。)
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歌丸さんが円朝像と対面/六本木「日展100年」展 | 全国ニュース | 四国新聞社
あとは有名どころで高橋由一の鮭(1877)、黒田清輝の湖畔(1897)、和田三造の南風(1907)、高村光雲の老猿(1893)、朝倉文夫の墓守(1910)など。
日本画はやはり西洋絵画と違ってかなり心のプリミティブな部分でも理解できるなと感じたが、しかし私自身は日本美術史に疎く西洋美術史のほうの知見のほうがまだ蓄えられている。西洋絵画のほうは三浦篤史『まなざしのレッスン』や高階秀爾『西洋美術史』など基礎の基礎の本は読んでおりおおよその流れは把握しているものの、日本画はまったく手をつけていないからだろうな。しかし他に学びたいこと、学ぶべきことも今世では多く…。また来世で。
国立近代美術館で5月14日まで。