膣は病み、女はセフレに恋をする(末に逢うことはないのだが…)

人並みに性交をするようになってから、なぜ私たちはセフレに恋してしまうんだろうかと考えている。連絡頻度やら連絡の文体が過剰に気になりそれらを眺め、考えるときのつんとした感情、恋のはじめと終わりに起こる”克己心”的振る舞い(スキンケア用品の買い漁りと、ちょっとしたカロリー管理、そして断捨離)も嫌いではないのだが(なぜならそれは「精神的向上心」に該当しそうな潔癖さがあるので)、やはり揺さぶられる感情があってしまう。私自身、この半年ほど、そのようなごだごだに自らを巻き込んでしまっていて、冒頭の疑問を考えることばかりに時間を使ってしまう。

この書き物は、この時点での覚書にすぎない。この半年の色恋沙汰と並行していろいろな小説や映画も読んでいたがどちらも時代のせいあってか私の感情を正しく書いていない印象を受けていて、それらに異を唱える意味もあって、とりいそぎこの文章を書いている。

 

1. 膣は先天的な快楽器官ではない

私たちがセフレに恋をする一つの大きな理由は、膣は先天的な快楽器官ではないということに依る。陰核や男性器に比べて(私は男性器を持たないので男性器に関しては想像でしかないが)、膣から快楽を伝えさせるためには何回かの訓練が要ることを知っている。私は保健体育の授業ではじめて膣の存在を知ったその日のうちに指をそこに突っ込んでみたのだが、そこには指の感触しかなく、快楽は事実というより解釈に近い現象だった。そういうところからはじまり、その後の処女喪失からの絶え間なく続く挿入と、メディア(アダルトビデオなどの、挿入=嬌声をあげるほどに気持ちがよいもの、という表象)によって、ようやく快楽は事実に近づき、快楽器官として育て上げられる。膣にとって快楽はトレーニングによってはじめて獲得されるものなのである。「トレーニング」とは表現していたものの、獲得された快楽はもちろんうっとりするほど気持ちいいし、いつのまにかその感情を自分の欲求そのものと同一視するようにまでなる。ここまで快楽が育てば、そのトレーニングに付き合ってくれた男性器に対して、それは信頼に足るコーチを見つけた選手のように、何かしらの執着心を寄せざるを得なくなる。現代でもはびこっている「処女は面倒だ」という通説はこういった膣の仕組みに起因している。

しかし、これは処女だけに起こるものでもない。それは処女だけでなく、絶え間なく挿入を繰り返される膣をもつ人間すべてに起こりうるもので、それはその人間がどれだけ性交に慣れてこようが、ヤリマンになろうが、新しい男性器による挿入がはじまれば必ず起こる。その快楽は男性器が変わるごとにリセットされるためである。リセットされる理由は単純で、男性器の形が個々であまりにも違うためである。私たちは男性器のことを容易に棒だ竿だと、まるでつるっとした一本棒かのように表現するが、単一の言葉で表現するにしてはその器官はあまりにもバラエティに富んでおり、それが触れる部分、こする部分、えぐる部分、すべてが異なっている。「おっきいから奥にあたるよう」とかそんななまめかしい話ですらなく、おっきかろうが小さかろうが、太かろうが細かろうが、あたる部分に対して膣はトレーニングを重ね、「そこが快楽を感じるべき部分なのだ」と覚えこんでいく。こうして膣は快楽を教えてくれた男性器たちに執着する。その男性器が触れる箇所以外では快楽を感じ取れないからだ。繰り返すが、「快楽堕ち」のようなわかりやすいエロ話ではなく、単純に膣の仕組みとして、過敏になる部分/そうでない部分が男性器によって定められてしまうのである。ウェルベックが「無条件で純粋な女性の意図を許容する、ヴァギナへの頻繁な、可能なら毎日の挿入が女によって要求される」(ウェルベック、『セロトニン』、p56、河出書房新社)と書く時、「毎日の挿入が女によって要求される」という状況は一見経験則に反しているように思われるものの、特定の男性器による膣の快楽を知ると事実、私含め、そうなりがちなんであろう。そして、男性器と、それをもつ人物は一対一対応であり、膣と私たちも一対一対応であって、理性は把握ができる程度には賢いが、言動一致できるほど堅固でもないので、結局私たちはその男性器を持つ人物に対し執着する。この執着が「恋」と呼ばれている。

以下、恋をした相手について排他的かつ長期的な関係が見込めない場合の話。(別に包括的で短期的な関係だって良いとは思うのだが、上記の膣の仕組みにより、膣は排他的かつ長期的な関係を望んでしまう、という説に立っている。)

 

2. セフレに恋する気持ちは母性的な感情に似ているのではないか

私たちはこういった人物にすがりはじめる。連絡が来る、来ない、来たと思っても内容が自分の期待するものではない、会える、会えない、会えると思っても自分の感情を乗り越えてくれるほどに向こうは熱心でも湿っぽくもないしさっさと帰りよる。こうしてメンヘラが出来上がるわけだが、私自身はこうした人物にすがってしまう感情は一種母性のようなものと思い始めている。

メンヘラ的感情は恋愛関係における病的な恋慕として現れるのであるが、その飽くなき執着に、私が思い出すのは仔猫を産んだばかりの母猫のことだ。母猫は(というより動物一般であるかもしれないが)仔を産んだあと人間にその仔を触れられるのを激しく嫌い、極端な場合だと触られた仔を喰ってしまうことまであると聞く。そういった極大の独占欲のもと、乳をやり、毛繕いを施す。私たちの恋愛関係におけるメンヘラ的感情は、「この人は私でなければだめであり、私自身がこの人の世話をするのであり、手を出すのならもろとも食ってやる」という動物的母性的感情なのではないのだろうか?そういった母性を持った状態で、そこから”子”が逃れようとしてしまうのであればーーたとえば思春期における子の自立が親に少しのせつなさを与えるのと同じようにーー”母”は自分の心に穴が開くのを感じざるを得ないだろう。どんな人間であれ、私たちは自分たちの膣を”くぐり抜けてきた”存在をどうでもよいものとして扱うことはできない。方向は逆であるが、という下ネタはさておき。

私たちの恋慕は、恋ではなく、母性の予行練習なのである。

セフレへのメンヘラ的感情=母性的感情、というのは私の仮説に過ぎないのだが、仮説でも文章としてしたためている理由は、自分の感情の認知的転換を図ってのことである。要するに、私たちがセフレに対して抱えてしまう感情というのは、二人の人間同士の交信、すなわち成人同士であって、年が離れておらず保護-非保護の関係にない、理性ある者同士における付き合い、ではなく、膣を起因とした、庇護的な、お節介な、感情のあらわれに過ぎないのではないか。そう思うことができれば、相手が自分の行動に対し十分な応答を示してくれないのだとしても、私がブスだからだとか人中が長いからだとかデブだからとか貧乳だからだとか頭が悪いからとか怠惰であるからだとか、そういったみじめな自責の念を持たずに済む。確かに親からの過剰な干渉は鬱陶しいものであると身をもって私たちは知っており、しかし干渉が過剰と感じるか否かは、親の顔、体型、性格、センスとはなんら関係がないのであるから。

私たちは膣を取り去ることも、膣が覚えてきたこと/今後覚えうることを忘れ去ることもできない。だから私たちと私たちの膣はまた誰かの男性器とその持ち主に恋をし続け、沼っていく。しかしその沼の中で私たちが自分たちに向けてしまう「なぜ私の執着が報われないのか」という問いに対し、自分自身を理由として差し出す必要はもはや無い。もちろん、同時に「なぜ私はこの人に執着してしまうのか」という問いに対し、彼の美や善ではなく、「私に膣があるからだ」と答え切る勇気もまた持っていなければならないが。

以上が私の備忘であり、かつセフレ沼にいる全ての人間へのメッセージでもある。

 

ちなみに、この状況に対する解決策を考えていたが、やはり膣の仕組み/トレーニングを崩壊させることが必要であり、そのためには複数の男性器を挿入するほかないように思う。つまり、膣が特定の男性器を覚え込まないようにすること。私の経験からすると、複数の人間と関係があるときは沼る確率は低かったように思う。なーんて、このように割り切れてしまったら苦労はしないもんで、実のところはやはり一人の人に愛し愛されというようなロマンティック・ラブへの憧れは(たとえそれが膣のトレーニング作用によって生まれる現象なのだとわかってはいても)捨てきれず、結局本命の男性器を作ってしまって何回やっても人生ゲームが振り出しに戻っているわけなのであるが。

 

追記:

自分の文章を読み返していて、「快楽器官としての膣は男性器によってのみ規定される」というような物言いに、なんだか古ぼけた二十世紀的発想で嫌だなあと自分自身でも感じた。ではマスターベーションを繰り返すことで膣は性器として自立することができるのだろうか?とここで考えてみるけれど、膣を快楽器官として育て上げるほどにマスターベーションをするのは正直腕がだるすぎる。また、「自分でくすぐられても別にくすぐったくない」というのと同じ現象が起こるかもしれない。陰核はそうでないけれど。

 

追記②:

ラディカルフェミニストであるアン・コート(アメリカ)が1970年代に著した『膣オーガズムの神話』が今回の意識に関連するのかなと思ったので、気が向いたら読むかもしれない。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%A3%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1