子宮型恋愛(脳の右側でやれ)

一昨年くらいから恋とか愛とかにうつつを抜かしています。

私ももう実はあっというまに三十路を超えたので、恋とか愛とかはしかじゃねんだし、一瞬かかっても風邪界でいうところの「鼻水ちょっと出るわ」くらいで済んでいた。喉も痛くない程度の。「済んでいた」という過去形というよりかはいまのところ「済んでいる」。別に「鼻水で済んでいた私が一世一代の大恋愛をいたしました」という話をするわけではない。

あっというまに三十路を超えたので、もちろん、これまでにしてきた恋愛経験の中では嫌なことや寂しいことももちろんあり、というかむしろそちらのほうが多く、そうこうしているうちに心の傷と面の皮は厚くなり、多少色恋沙汰が発生したところで恋愛感情と理性はきちんと分断されて、しかるべきときがくれば特定の人に対する恋愛感情は死に絶えるのだった。

一昨年からうつつを抜かしている今回の恋とか愛とかも結局この通りで、そして二年という時が流れることによってやはり感情はフェードアウトしかかっており、そして私たちの間に婚姻関係や子はないので恋愛感情に変わる何かを充てる努力を行う必要もない。よっておそらくこのままバイバイなのである。

ひらたくいってしまえばこの「飽き」という現象に前ほど悲しまなくなった。かつては性行為を重ねるごとに疎遠になっていく男性に対して、「私が巨乳のアンジェリーナジョリーだったらつなぎとめられたのかな」とめそめそと思い悩んでいたものだが、結局アンジーだってブラピと別れているわけで、飽きも自然現象の一つで、それに対して人間が美人だったり巨乳だったりで変えられるわけではないことに心から気づいてしまった。

もちろん一応、三十路とは言ってもまだ三十路なので、別れを告げる際にはすこしの寂寞が頬を撫でることもある。具体的には、好きだ!と思った人に対してもう何も感じなくなってしまうことの寂しさが。もう私にとっての恋愛感情や恋愛関係は数十回の性行為を意味するだけになってしまっている。

三十路だから、と何度も繰り返しているが、しかしこれは年齢そのものというよりも私の左脳の問題なのだと思う。世の中には左脳でなく子宮や陰茎で恋愛をする人間だって多い。彼らはいくつになっても恋愛ひとつで激情を煮えたぎらせ、自らもろともその激情の中に沈んでいく。

私はそもそもあまり激しい恋心みたいなものがない人間なのでそうした感情とは距離があったのだが、しかし私の恋愛関係がすべて、数十回の性行為だけで終わってしまうような、記憶にも記録にも残らないものであったならば、これからはもっと子宮型恋愛(もしくは陰茎型恋愛)に移行しても良いのではないかと、いまのこの恋愛を見送りながら思っている。記憶とか記録に残りたいというよりは、いまの私の恋愛は結局性行為の反復でしかなく、反復によって得られる伸び代は、走るところが増えるわけではないシャトルランみたいにもうほとんどなくなっており、それにつまらなさを覚えているのだ。もちろん本来的には性に関する技巧が上がりますよとかあるんだろうけど(あれも反復練習だと思うので)、上がっているかといえばかなり微妙。つまり私にとってシャトルランではなく伸び代がある部分はもはや感情の部分ということになるので、感情を煮えたぎらせることによって私の人間の幅ももう少し出るんじゃねえかって思い始めている。

最近友人に『脳の右側で描け』という本を薦められている。アマゾンの紹介文から引用すると「描くのに必要なのは、才能ではなく適切な指導です。絵が描けない人にこそ読んで欲しい一冊。」とのことで、デッサン?というかいわゆる「図画工作」的なものの基本書なのだが、タイトルの通りで、「脳の右側」を使うことの重要性が書かれている本らしい。実際にイラストのエクササイズもあるらしいので、2024年はこの本と付き合いながら過ごしていこうと思っている。晴れて脳の右側が活性化された暁には脳の右側で恋愛して脳の右側でヤれ!