子宮型恋愛(脳の右側でやれ)

一昨年くらいから恋とか愛とかにうつつを抜かしています。

私ももう実はあっというまに三十路を超えたので、恋とか愛とかはしかじゃねんだし、一瞬かかっても風邪界でいうところの「鼻水ちょっと出るわ」くらいで済んでいた。喉も痛くない程度の。「済んでいた」という過去形というよりかはいまのところ「済んでいる」。別に「鼻水で済んでいた私が一世一代の大恋愛をいたしました」という話をするわけではない。

あっというまに三十路を超えたので、もちろん、これまでにしてきた恋愛経験の中では嫌なことや寂しいことももちろんあり、というかむしろそちらのほうが多く、そうこうしているうちに心の傷と面の皮は厚くなり、多少色恋沙汰が発生したところで恋愛感情と理性はきちんと分断されて、しかるべきときがくれば特定の人に対する恋愛感情は死に絶えるのだった。

一昨年からうつつを抜かしている今回の恋とか愛とかも結局この通りで、そして二年という時が流れることによってやはり感情はフェードアウトしかかっており、そして私たちの間に婚姻関係や子はないので恋愛感情に変わる何かを充てる努力を行う必要もない。よっておそらくこのままバイバイなのである。

ひらたくいってしまえばこの「飽き」という現象に前ほど悲しまなくなった。かつては性行為を重ねるごとに疎遠になっていく男性に対して、「私が巨乳のアンジェリーナジョリーだったらつなぎとめられたのかな」とめそめそと思い悩んでいたものだが、結局アンジーだってブラピと別れているわけで、飽きも自然現象の一つで、それに対して人間が美人だったり巨乳だったりで変えられるわけではないことに心から気づいてしまった。

もちろん一応、三十路とは言ってもまだ三十路なので、別れを告げる際にはすこしの寂寞が頬を撫でることもある。具体的には、好きだ!と思った人に対してもう何も感じなくなってしまうことの寂しさが。もう私にとっての恋愛感情や恋愛関係は数十回の性行為を意味するだけになってしまっている。

三十路だから、と何度も繰り返しているが、しかしこれは年齢そのものというよりも私の左脳の問題なのだと思う。世の中には左脳でなく子宮や陰茎で恋愛をする人間だって多い。彼らはいくつになっても恋愛ひとつで激情を煮えたぎらせ、自らもろともその激情の中に沈んでいく。

私はそもそもあまり激しい恋心みたいなものがない人間なのでそうした感情とは距離があったのだが、しかし私の恋愛関係がすべて、数十回の性行為だけで終わってしまうような、記憶にも記録にも残らないものであったならば、これからはもっと子宮型恋愛(もしくは陰茎型恋愛)に移行しても良いのではないかと、いまのこの恋愛を見送りながら思っている。記憶とか記録に残りたいというよりは、いまの私の恋愛は結局性行為の反復でしかなく、反復によって得られる伸び代は、走るところが増えるわけではないシャトルランみたいにもうほとんどなくなっており、それにつまらなさを覚えているのだ。もちろん本来的には性に関する技巧が上がりますよとかあるんだろうけど(あれも反復練習だと思うので)、上がっているかといえばかなり微妙。つまり私にとってシャトルランではなく伸び代がある部分はもはや感情の部分ということになるので、感情を煮えたぎらせることによって私の人間の幅ももう少し出るんじゃねえかって思い始めている。

最近友人に『脳の右側で描け』という本を薦められている。アマゾンの紹介文から引用すると「描くのに必要なのは、才能ではなく適切な指導です。絵が描けない人にこそ読んで欲しい一冊。」とのことで、デッサン?というかいわゆる「図画工作」的なものの基本書なのだが、タイトルの通りで、「脳の右側」を使うことの重要性が書かれている本らしい。実際にイラストのエクササイズもあるらしいので、2024年はこの本と付き合いながら過ごしていこうと思っている。晴れて脳の右側が活性化された暁には脳の右側で恋愛して脳の右側でヤれ!

 

怖いよ!『哀れなる者たち』

『哀れなるものたち』見た。見たあとは結構ムカムカしていたのだがいろいろ話したり読んだりしているうちに怒りも冷め、スルメのような映画だなと思わないでもないので、そのスルメ性について書く。(私はスルメのような映画が必ずしも良い映画とは思わない立場ではあるのだが…)

観る前に「ウーマンリブ映画、って感じでしたよ。」と友人に言われていた。薄目で確認したツイッターでのレビューも、「女性の性欲についての話でした!」というようなコメントがいくつかあって、私はそういうことに興味がないでもないので、へえ、と思いながら観に行ったのだった。
結論、ウーマンの話かというとかなり微妙な話で、観るとしても一人の人間の成長譚くらいのような話に見えるし、観ようによっては男性に対してかなり強いメッセージがあるような映画に思える。

ただし私のなかでもまだぐっちゃりとしているので以下感想を書き連ねる。そもそもこの映画に関して、女だ男だと言うこと自体ナンセンスなのかもしれない。

そもそも、これは女性の話ではなく、「女の身体を持った人間」の話
「胎児の脳を移植された若い女性の話」という筋書きなのだが、いきなりネタバレするとしかし胎児の性別って別に言及されていない(はず)。つまり男児の脳を移植された話かもしれないのだ。いや、移植された胎児の脳が男児のものか女児のものかは果たしてもはや問題ではなく、つまりこの話はそもそもが女性(ジェンダー)の話というよりは女性という体を持った人間の話、という構成になっているように思う。

ボーヴォワールが二十世紀にそう触れてから、女性(ジェンダー)に関する問題はすべて体の問題というよりは社会の問題になったのだと思っている。私も職場で女性蔑視にあうたびに、「ちんちんついてるのがそんなに偉いのかよ」と言い返しているが、つまり反語的に身体はもはやさほど重要ではなく、身体という器を「女性」にしている社会なるものがある、という認識は私自身にある。

この話の中でベラは女の身体は持っているが、しかし女性というジェンダーは持っていない。最終的にも多分獲得しないで終わっている。「ウーマンリブ」という言葉を使うとき、それが体が女性であることではなく、社会的に女性というジェンダーを与えてくるものからの解放、ということを意味するのならば、この話は全く「ウーマンリブ」とか「女性の解放」というような話ではないように思う。なぜなら、「第二の性」を持っていないという意味でベラは「女性」になることは結局なかったのだから。

「第二の性」を与えられないためには、結局強烈な家父長制が必要なのか?
「第二の性」をそもそも与えられていない、というのは、女性差別が残る現代を生きる女性たちにとって魅力的なものに思えるのかもしれない。ただしこの映画を振り返ると、結局ベラが「第二の性」を獲得しなかったのは、彼女がその”幼少期”に圧倒的な家父長制によって守られていたからのように私には読めてしまう。物語序盤は、街に出ることを許さない父親によって。その後も、自分を置いて街に出ることを許さない夫によって。こうした圧倒的な家父長制に守られて、ベラは結局「女性たるものかくあるべし」を習得しない。ベラは家父長制による無菌状態にいることで、いわゆる「空気を読む力」のようなものを身につけずに人生を送るのだが、空気を読む力を狭義の「社会性」だとするなら、社会性を身につける過程で吸い込みがちな女性性も身につけることはない。ウーマンリブ映画だと思って観ると嫌な気持ちになるのは、結局、ベラは女性(ジェンダー)でもないし、最終的にベラが解放されるのは幼少期の家父長制のおかげ、ということにもなりかねない設定だったためのように思う。もちろんこの点は変な前情報を得て観ていた私が悪いのだが…

性の自己決定権の話
映画を振り返るといろいろと味わい深さは残るのだが、一方で映画の序盤のセックスシーン未満(耳を齧るシーン)についてはかなり強烈な気持ち悪さがあった。それ、女性の身体ではあるが脳は胎児なのであって…特にフィアンセにとっては明らかな小児性愛なのである。同行者にこの点を指摘すると、「まあ女性は成熟してようとしていなかろうと性的な目で見られるということでしょう」と解釈してくれ、それは確かにもっともで私の読みが浅く沸点が低いことを一瞬反省したが、しかし気に掛かるのは、ベラの”幼少期”の豊かな性体験によっておそらくベラは、自立を知るきっかけとなる娼館での労働を行うことが出来た点だ。つまり、うがった見方なのかもしれないが、性の自己決定権のなさ→豊かな性体験→自立という線も引けてしまっている。「性の自己決定権があることが人間の権利として当たり前のことなのである」という通説の逆張りをいっていて、鑑賞しながらかなり人生的足元が揺らぐような気がしたし、小児性愛的な危うさに基づいた上でのベラの「女性および性的束縛からの解放」を手放しで褒めるわけには、二十一世紀観点からでは、いかないと思う。

あとこの点は自分でも書き残すか迷ったのだが、この映画の危うさは小児性愛的な危うさに加え、発達障害の人の性トラブルを看過しているところもある。以下、私の発想自体も差別的な記述を含んでいるかもしれないのだが、冒頭の”小児”のベラについては子供というよりも発達障害的な描写のように感じた。(発達障害らしさを子供っぽさに結びつける私の解釈にもかなり問題はある。)物語の後半ではそのベラの性体験が成熟し、最終的には性交をむしろ手段とし自分からコントロールするようになり、その点において「よかったね」というようなエンディングにはなっているが、私がここで強烈に思い出したのは片山慎三の『岬の兄弟』(2019)だった。

岬の兄妹

岬の兄妹

  • 松浦祐也
Amazon

『岬の兄弟』は兄と妹の二人で暮らす兄弟の話なのだが、妹は自閉症である。ある日妹が売春をしていたことが発覚し、兄はそれをしかりながらも売春斡旋をするようになる。この映画のワンシーンでいまでも強烈に覚えてるのは、幼少だったころの妹の性のめざめの場面で、おそらく幼稚園児〜小学校低学年くらいの妹がブランコに股間をこすりつけて自慰行為をするのである。私だったらこの妹の自慰行為に対して、なんと叱るのか、もしくは教え諭すのか、全然想像はつかないのだが、しかしこの場面を見ていると、「性について正しく教えられないまま自分の快楽だけに従っていると、結局は自分の体の選択肢を失うだけなのではないだろうか」と感じたのだった(体の選択肢どうこうは『岬の兄弟』の脚本にも関わる部分なのでぜひ見てほしい)。『哀れなるものたち』でベラが得られた自立は「フィクション」を越え、「ホラ話」なのであって、そのホラ話度合いは罪深ささえあるのではないか。

セックス=ロマンティックラブから自由だったベラ
最後に、性にまつわる描写でよかったところに触れておく。一度娼館のシーンで、ベラはセックスをする前の客に「あなたの幼少期の話をして。私はジョークを話すから。」とお願いをするシーンがある。客は自身の子供の頃の思い出を話し、ベラもジョークを飛ばす。その後やっと二人はセックスに移る。ここでのやりとりはキャッチボールとしては成り立っていない会話なのだが、唐突なベラからの問いかけは「お互い分かり合っているもの同士で性交渉しましょう」というような規範、期待を感じられる。ただしこのやりとりは毎回続くわけではなくプレイの一環として回収される。結局、その後一度もベラは「この人とセックスしたい」という思慕・執着を見せない。肉体を超えて「この人とセックスしたい」と思うこと自体が、ロマンティックラブイデオロギーと密接に関わっているし、ロマンティックラブは「愛していればなんでも許される」というような、ドメスティックバイオレンスも導くものだと個人的には考えているのだが、ベラは最後までこの2つを切り離しており、よってそのおかげで最後のシーンのDV夫から逃れられた。セックス=恋愛関係=ロマンティックラブを切り離していたのは『バービー』(2023)も同じくなわけで、このイコールの切断は世界標準のものになっていくんだろう。

 

以上、つらつらと書いたが、まとめるとこの映画は「女性」の話にしても「性」の話にしても「成長」にしても、その話に乗り切れないもやっとしたところが残る映画だった。まあでもランティモス作品って大体そんなものか…。男性、女性、もしくはそれ以外の性の立場から、もしくは人間というものについて、近くで見たり、遠くで見たりすることによって生まれる感情を眺める映画だった。

英国映画協会「史上最高の映画100」配信サービスまとめ

気づけば2024年に年が改まっていて、また人類は「新年の抱負」を更新なんかしているが、私は何方かと言えば「新年の抱負」派ではなく「新しい年齢の抱負」派で、なぜならば20XX年になることというよりも自分がXX歳になることのほうがより直感的で、ゆえによりプレッシャーが増すためだ。それに1月1日という日は自分にとってなんの意味もないが、誕生年月日というのは世界がその前後、自分という人間を含んでいなかった/含むようになったという決定的な違いがあるからやはり特別なんだよね。…とか突っ張ってはいるものの、なんだかんだ新年の透き通った空気に決意が新たになることは否定できず、私自身も「年も改まったことだし頑張るか」という気持ちにはうっすらとなっており、しこしことやりたいことリストを書いてなんかいる(一応「XX歳になるまでやりたいことリスト」と題してはいるけど)。

その中の一つに「観たい映画を見る」というのがあって、このブログでもちょこちょこ映画の感想を書いている通り、いわゆる名作と呼ばれる映画をなんとか次の年齢までにある程度は見てみたいと考えている。

名作と呼ばれる映画リストは複数のものがあるが、2022年に英国映画協会(BFI)が作った「史上最高の映画100」というのがあるので、ひとまずはそれを参考に、配信状況までまとまっているサイトはなかったので私のほうで配信状況を追加で書き添えた。こういうはChatGPTにやってほしいと思ったけど「具体的なURLは提供していない」と言われてしまった。ちなみにもともとの邦題も含めたリストはこちらのサイトから借用している。また、配信サービスは私が使っているAmazon PrimeとNetflix、Disney+のいずれかを挙げている(全部あるかどうかは面倒だったので見てない)。U-NEXTは貴族のサブスクなので鼻から見てません。

 

とりあえず手間がかかったのどえ50本まで。後半50分はまた時間が空いたときにでも…。

 

英国映画協会(BFI)「史上最高の映画100」2022年版

※配信状況は2024年1月8日時点、日本国内からのアクセスによる。

ジャンヌ・ディエルマン(1975年)Amazon 有料チャンネル

めまい(1958年)Amazon有料レンタル
市民ケーン(1941年)Amazon Prime
東京物語(1953年) Amazon Prime
花様年華(2000年) 配信なし(よく4K上映をしている)
2001年宇宙の旅(1968年) Amazon Prime
美しき仕事(1998年) 配信なし(アンスティチュ・フランセで2017年にやってたらしい)
マルホランド・ドライブ(2001年) Amazon有料レンタル
これがロシヤだ(1929年) 配信なし(ニコ動で違法アップロードみたいなのはあるw)
雨に唄えば(1951年) Amazon Prime
サンライズ(1927年) 配信なし
ゴッドファーザー(1972年) Amazon Prime
ゲームの規則(1939年) 配信なし(U-NEXTにならある)
5時から7時までのクレオ(1962年)Amazon Prime 90分
捜索者(1956年) 配信なし(U-NEXTにならある)
午後の網目(1943年) 配信なし
クローズ・アップ(1989年) 配信なし
仮面/ペルソナ(1966年) 配信なし
地獄の黙示録(1979年) Amazon有料レンタル 2時間27分
七人の侍(1954年) Amazon有料チャンネル 3時間26分
裁かるるジャンヌ(1927年) 配信なし(U-NEXTにならある)
晩春(1949年) Amazon Prime 1時間47分
プレイタイム(1967年) Amazon有料レンタル 2時間3分
ドゥ・ザ・ライト・シング(1989年) Amazon有料レンタル
バルタザールどこへ行く(1966年) 配信なし
狩人の夜(1955年) 配信なし(U-NEXTにならある)
SHOAHショア(1985年) 配信なし
ひなぎく(1966年) 配信なし
タクシードライバー(1976年) Netflix
燃ゆる女の肖像(2019年) Amazon有料レンタル 2時間1分
8 1/2(1963年) Amazon有料チャンネル
鏡(1975年) 配信なし
サイコ(1960年) Amazon Prime 1時間48分
アタラント号(1934年) 配信なし
大地のうた(1955年) 配信なし
街の灯(1931年) Amazon有料チャンネル
M(1931年) Amazon Prime 1時間49分
勝手にしやがれ(1960年) 配信なし(U-NEXTにならある)
お熱いのがお好き(1959年) Amazon Prime 1時間56分
裏窓(1954年) Amazon有料レンタル
自転車泥棒(1948年) Amazon Prime 1時間26分
羅生門(1950年) Netflix
ストーカー(1979年) Disney+ 1時間36分
キラー・オブ・シープ(1977年) 配信なし
バリー・リンドン(1975年) Amazon有料レンタル 3時間5分
アルジェの戦い(1966年) 配信なし
北北西に進路を取れ(1959年) Amazon有料レンタル 2時間16分
奇跡(1955年) 配信なし
WANDA/ワンダ(1970年) Amazon有料レンタル
大人は判ってくれない(1959年) Amazon有料チャンネル 1時間39分
ピアノ・レッスン(1992年)
不安は魂を食いつくす(1974年)
家からの手紙(1976年)
軽蔑(1963年)
ブレードランナー(1982年)
戦艦ポチョムキン(1925年)
アパートの鍵貸します(1960年)
キートンの探偵学入門(1924年)
サン・ソレイユ(1982年)
甘い生活(1960年)
ムーンライト(2016年)
自由への旅立ち(1991年)
グッドフェローズ(1990年)
第三の男(1949年)
カサブランカ(1942年)
トゥキ・ブゥキ/ハイエナの旅(1973年)
アンドレイ・ルブリョフ(1966年)
ラ・ジュテ(1962年)
赤い靴(1948年)
落穂拾い(2000年)
メトロポリス(1927年)
情事(1960年)
イタリア旅行(1954年)
となりのトトロ(1988年)
千と千尋の神隠し(2001年)
悲しみは空の彼方に(1959年)
山椒大夫(1954年)
サンセット大通り(1950年)
サタンタンゴ(1994年)
牯嶺街少年殺人事件(1991年)
モダン・タイムス(1936年)
天国への階段(1946年)
セリーヌとジュリーは舟でゆく(1974年)
ブルーベルベット(1986年)
ミツバチのささやき(1973年)
気狂いピエロ(1965年)
ゴダールの映画史(1988年)
シャイニング(1980年)
恋する惑星(1994年)
パラサイト(2019年)
ヤンヤン夏の想い出(1999年)
雨月物語(1953年)
山猫(1963年)
たそがれの女心(1953年)
抵抗(レジスタンス)-死刑囚の手記より-(1956年)
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト(1968年)
トロピカル・マラディ(2004年)
黒人女(1965年)
キートン将軍(1926年)
ゲット・アウト(2017年)

平成生まれの開き直り『ヒート』

現在でいう「プロフェッショナル」という言葉は、専門家や職業人といった意味ではなく、「対象に対する妄執的な献身を行うこと」を意味することが多いと思うのだが、まさに本作の刑事(アルパチーノ)と犯罪組織のボス(ロバートデニーロ)はその意味での「プロフェッショナル」であり、彼らの邂逅は互いのプロフェッショナル性を感じ取ることで波長の奇妙な一致を見る。相手に自分と同じものを感じ取りながらも、悪を制する者と悪を成す者が最終的に行き着く先はどこにあるのか。というような話。もうこういった話に対して、「ボーイズクラブかよ〜」とどうしようもなく思ってしまうリテラシーと悪癖がついてしまった自身を感じる。案の定、刑事も犯罪組織のボスも、家族や愛する者との関係を脇に置き、自身の「仕事」(つうか、夢中になれるもの)に打ち込んでいるだけで他はポイー。「そこで通じ合う二人」と言われても最早私が生きる時代がそれにのめり込むことを許してくれない。スコセッシは本作を「1990年代のベスト映画の1本」と評したらしいが(wikipedia)、それだったらボーイズクラブ性も描きつつそれに対する批判的な視線も逃していない「アイリッシュマン」(2019)や「キラーズオブザフラワームーン」(2023)のほうが優れた話のように思えてしまうのだな。一つの映画が一つの視線しか持ち得ていないことに関してうんざりしてしまうのは平成以降生まれの本質的に悪い癖で、もう平成以降生まれは2010年以前の映画の脚本にはついていけないのだろうかとも思ってしまう。

ただしここまで私自身夢中になって批判できるのも映画の撮り方として優れていたからとも言える。銃撃戦は街中でどんぱちやりすぎだろと思うのだが実際の音を収録して撮ったらしい音響(wikipedia)や、ヴァルキルマー(の役)の手際の良さを示すカメラワークで映し出される犯罪シーンは息を呑む。脚本それ自体の構成も、アルパチーノの話、デニーロの話、アルパチーノの家族の話、デニーロの愛の話、と折り重なりなが進むことで長尺を感じさせず話にのめり込むことができる。アルパチーノとデニーロの実質的なツーショットが長い時間映し出されないのは(多分初めて顔を合わせるのは映画前半の2/3を過ぎたところであった)、二人の関係性に緊張感を与えることに成功している(シネフィリー、ステディー、ゴー 2022そうした装置があった上での私の冒頭の感想なので、まあ優れた映画なのだろうな〜、とは白旗。そこまでわかっていてもやっぱりそういう感想なの?と聞かれたらまあそういう感想にさせていただきます、だってせっかく長生きしてるんだし次の世代の次の物語を生むためにも新しい区画を耕させていただきます。(という開き直り)

Feminism has been solvedな世界で思う人間の描き方

映画バービー見ました。

 

完璧な世界であるバービーランドで過ごしていたはずのバービーがある日突然扁平足になる。リアルワールドに干渉元を探しにいくのだが、バービーランドとリアルワールドの交差を恐れた男性CxOたちはバービーを捕まえようとする。からがら、リアルワールドの母娘の助けによってそれを逃れバービーランドに舞い戻るが、すでにバービーランドにはKenが持ち込んだロマンティックラブとPatriarchy(家父長制だ!男社会と訳すな)が蔓延しておりバービーランドのバービーたちは”洗脳”済みの状態だった。その洗脳を解いていくのはリアルワールドから訪れた母による女性自立の演説であり、バービーの洗脳が解かれるにつれケン同士の争いが勃発するもなんやかやで収束する。バービーはケンとのロマンスを選ばず、ケンは「バービーの恋人」ではもはやなくなり、バービーは人間になる道を選ぶ。

前半は絵もかわいいし音楽もage、私は映画を見る前にワインを6杯くらい煽ってたのでかなりずっと爆笑していたのだが、全編見た感想としては60点という気持ち。なんかでもけっこうそもそも話の構造がけっこう難しかったなあというのが正直なところなので、わからないなりの60点ですというエクスキューズをつけつつ。①家父長制の発見とその打倒の話?=よって往々にして男女の対立っぽい話に見える筋と、上記にまとめたような②属性や全体よりも「個」へ・ロマンティックラブよりもフレンドシップへ、という2つの筋があって、どっちの話なの?と頭の整理が追いつかなかった。もちろん家父長制が②を強く用意してきたことはわかるんだけど、思想史にあんまり追いついていない一般市民の私としてはむしろ①がすごく弱く映った。最終的なオチ自体(戦争終結後に訪れるKenとBarbieの告白と、Barbieによる拒絶)も②の話だったわけだし、そうしたストーリーのオチから言ってストーリー中盤に出てくる男(Ken)女(Barbie)の対立がむやみやたらに男女の対立を煽っている印象を受けた。Kenパートはやたらと圧縮されており、Barbieパートでは家父長制の”洗脳”をリアルワールドの女性の演説によって解かれるというシンプルさがなんとも。ちなみになんなら私は最初の5分でこの映画は”Ken”にフォーカスした話なのかなと思ったくらいだった、冒頭で明確に”Feminism has been solved”とナレーターが言っていたので。Feminismを乗り越えたあとの世界…でも起こるどうしようもない話を描くのかなと思っていたが、そもそもそんな世界は序盤のバービーランドに一度も訪れていなかったのだよね。つまりいまある世界を繰り返して描いただけだったので、Feminism的にもあまり新しさはなかったかもというのが正直なところ。

私としてはTwitterで男性性の人があまりこの映画をよろしく思っていないという話は逆によくわかったかも。Kenについても救いを仄めかすような冒頭ではあったけど、中盤はむしろ家父長制に染まったKenたちの愚かさを利用し女性がそれから離れていくシーンがあり(ゴッドファーザーが好きだからそれを利用しろだとか、ギターで歌を歌わせつつ他の男のところに行って嫉妬心を煽れとか)、別に家父長制からの脱却は男性disでしか行われないわけではないし、リアル・リアルワールドであったらクソみてえな男とクソみてえな女とそれ以外のクソみてえな人とがなんとかわかり合いながらやっていくしかないし。おちょくり全開の描写を嫌だと思う人もきっといたんだろう。

ただ、まあ嫌がる気持ちはわかるなあという譲歩はありつつ、しかしそういった露骨な男性disに触れられる機会がリアル・リアルワールドに極端に少ないのはよくわかるし映画表象を借りて提供できるのならどんどん見せていったらいいと思う。私はそういう男性の見栄と見栄による男性同士の諍いのことをちんちんチャンバラって愛情を込めて呼んでるんだけど、まさに中盤のKen同士の戦争描写はちんちんチャンバラだと思ったもんな。結局なあなあに戦争(っぽかったもの)が終結することも含めて。ちなみにちんちんチャンバラをもう少し詳しく描写すると、それは要するに本質的な真剣のバトルではなく、結局は相手の見栄と自分の見栄を保つものでしかない、ホモソーシャル的な馴れ合いのことを指している。このちんちんチャンバラの話はわりといろんな人間に笑ってもらえるのだが、ちんちんチャンバラ自体の話はもちろん古今東西溢れているものの、それを「それちんちんチャンバラですよ」と指摘してくれる人はまだあまりいないので、そういう意味ではKenにとっても新しく、少しひねくれてはいるけれど、最終的には家父長制から解き放たれる一歩となる映画なのかもしれない。私もどはまりな映画ではなかったが、なんだかんだ観たほうが社会の見方も変わってくる良い映画だったなと書きながら思い始めてきた。やはり基本路線としては家父長制の発見、打倒と解放という話で、その解放と同時にロマンティックラブイデオロギーも力を失う、という話だったのだ。ロマンティックラブの終焉は副産物。むしろここを主眼に据えるならそれこそノア・バームバックのフランシス・ハやマリッジ・ストーリーがあるわけだし。そこを見たいんならそういう映画を見るとしよう。

ここからは余談と備忘なのだが、最近ロマンティックラブイデオロギーについてよく考えている。典型的な物の見方をすると恋愛って女性が主に好きなものと思われているけど(少女漫画とかね)、むしろそこから脱却しようとしているのは女性で、ロマンティックラブに縛り付けようとしているのは男性側なのかな?と思い始めている。なんかすでに論考はありそうだけど…。恋愛を重視し身体的なつながりを情緒的なそれと合致させようとする感情を女性が抜け出てしまえば男性器ってもはや必要ないしそれはちんちんチャンバラの世界にとって非常に困った事態なのだろうな。まあもちろん実際問題男性器は気持ちがいいし、ディルドを自分で動かすと腱鞘炎になるから自律して動く男性器はありがたいなと思うし、そういうあけすけな話も含めて人間たちがどうわかりあって生きていくかをFeminism has been solvedな世界では考えていきたいけどね。

だいたいの怒りは自分のせい

大衆への怒りというかストレスが凄まじい。InstagramはブスばかりだしTwitterはフェイクツイートばかりである。脳の癖だけで開いてしまって自己嫌悪に陥る。この前書いた記事もそういった大衆による括弧付きの「クリエイティビティ」に辟易していたのであるがしかし大衆への怒りをぶつけたところで自分の人生が豊かになるわけではないのは当たり前で、打ち克つ方法はただ一つ自分がすぐれた人間になるほかない。といって積み上げられた本を眺める。

 

『少女ファイト』という漫画に最近はまっている。きっかけはマガポケという少年マガジンの漫画アプリで無料配信されていたからであるが、もっと先のきっかけは好きだった同人作家がこの漫画を好きだと言っていたことが記憶として蘇ってきたからだった。

それぞれにトラウマを抱える女子高生たちがバレーを通じて乗り越え、また他者の心の理解には時間と誠意を尽くす必要がある、というようなことがテーマの漫画で(おそらく)、登場人物も含めた話の「めんどくささ」が気に入っている。

漫画の本題はそういったところにあるので以下は細部の話でしかないのだが、登場人物たちがそれぞれ自分の困難を乗り越えるために描かれる行いが単純にも心に刺さる。むしろ私にとっての本題はこちらのほうだ。

一つはいわゆる「断捨離」を行う場面。綺麗好きの監督にしたがってそれぞれ部員が部室や自室を清掃するシーンがあるのだが(11巻)、それはこのようなセリフで締め括られる。

「これからは常に必要か不要かの取捨選択を迅速に処理する習慣をつければ問題を先送りする悪癖もなくなる/いいかいつでも行き詰まったら整理整頓に励め/そうすればおのずと心も安定してくる」

これを読んだあとに服の断捨離をしたことは言うまでもなかろうもん。

また、依存症の生徒を集めその症状を治していく高校における指導の場面(15巻)。「基本は規則正しい生活習慣と身の回りの整理整頓掃除を徹底してもらう」ことからはじまるわけだが、「朝起きたらこのように必ずベッドメイクと掃除をしてください/そして就寝までベッドに横たわることは禁止です」とまあ怠惰な人間の気持ちをよくわかっている。私は昼過ぎにベッドに横たわりながら携帯をいじって、見たくもないSNSを見て大衆ガーと騒いでそのまま夜まで眠りに落ち、自己嫌悪に陥る、というような自傷的でしょうもない人間なのである。惰眠と自己嫌悪で織られたような私の半生はもうここから死に向かって一瞬で通り過ぎるだけなのだろうが、それでも「すぐれた人間」にずっと夢見ていて、しかしそのためには自分がしたいと思っている努力を一つ一つ重ねていくほかない。こうした当為は案外誰も言葉にしてくれるものではない。

「いいですか/何かに依存する隙がないほど「今やること」を意識してください/その為には必要な行動がすぐとれるよう常に整理整頓しておくのです/「あとで」じゃなくて「今すぐに」です」

「大きな何かを成し遂げる必要はないのです/後ろめたくない日々を淡々と重ねてゆく/失った自尊心を回復させるには/そうするしかないんです」

 

MOMATの「重要文化財の秘密」展に行った記録

混雑というのはなぜ生まれるのだろうか。東京は名所はもとより喫茶店もレストランも買い物施設も、いたるところが観光地化している。美術館もまたそのようで。「観光地化」の対義語を作るとするならば「生活化」だと私は考えていて、とどのつまり、そうしたそれぞれの行為がひとつなぎの生活の中にあるものというよりは特別な行事としてしか我々の中に受容されなかった(日本)社会を思う。

 

うざったい冒頭だけど言いたかったのは「東京の美術館混みすぎ」ってことくらいで、美術館に行くには有給を取るほかない。有給を取って行った「重要文化財の秘密展」について、記憶に残った作品をいくつか書き留めておく。

横山大観、1923、生々流転

水の流れ、水の一生を絵巻であらわした作品。技法もモチーフも凄まじかった。三部屋くらいにわたる絵巻なので画像は略。

下村観山、1915、弱法師

盲目の法師が落日に向け手を合わせ極楽浄土を観想する姿を描いた作品。引用した画像には写っていないが左隻に赤々とした日が描かれている。能面を参考にしたという法師の表情や手つき、桜と落日の構図が静かだが荘厳な祈りの場面を心に残している。最初はなんかエモーショナルすぎて嫌だなあという印象だったが近づいて細部に見るにつれ人間の祈りの有様が真に迫っていることに心を奪われた。

画像:

東京国立博物館 - コレクション コレクション一覧 名品ギャラリー 館蔵品一覧 弱法師(よろぼし)  拡大して表示

鏑木清方、1930、三遊亭円朝像

「優れた肖像画は被写の内面もあらわすものである」とはよく言うものだがそれが真に伝わる一作品。またこういう肖像画が重文として残る三遊亭圓朝そのものも立派だったんだろうな。

(歌丸。)

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歌丸さんが円朝像と対面/六本木「日展100年」展 | 全国ニュース | 四国新聞社

 

あとは有名どころで高橋由一の鮭(1877)、黒田清輝の湖畔(1897)、和田三造の南風(1907)、高村光雲の老猿(1893)、朝倉文夫の墓守(1910)など。

 

日本画はやはり西洋絵画と違ってかなり心のプリミティブな部分でも理解できるなと感じたが、しかし私自身は日本美術史に疎く西洋美術史のほうの知見のほうがまだ蓄えられている。西洋絵画のほうは三浦篤史『まなざしのレッスン』や高階秀爾『西洋美術史』など基礎の基礎の本は読んでおりおおよその流れは把握しているものの、日本画はまったく手をつけていないからだろうな。しかし他に学びたいこと、学ぶべきことも今世では多く…。また来世で。

 

国立近代美術館で5月14日まで。