怖いよ!『哀れなる者たち』

『哀れなるものたち』見た。見たあとは結構ムカムカしていたのだがいろいろ話したり読んだりしているうちに怒りも冷め、スルメのような映画だなと思わないでもないので、そのスルメ性について書く。(私はスルメのような映画が必ずしも良い映画とは思わない立場ではあるのだが…)

観る前に「ウーマンリブ映画、って感じでしたよ。」と友人に言われていた。薄目で確認したツイッターでのレビューも、「女性の性欲についての話でした!」というようなコメントがいくつかあって、私はそういうことに興味がないでもないので、へえ、と思いながら観に行ったのだった。
結論、ウーマンの話かというとかなり微妙な話で、観るとしても一人の人間の成長譚くらいのような話に見えるし、観ようによっては男性に対してかなり強いメッセージがあるような映画に思える。

ただし私のなかでもまだぐっちゃりとしているので以下感想を書き連ねる。そもそもこの映画に関して、女だ男だと言うこと自体ナンセンスなのかもしれない。

そもそも、これは女性の話ではなく、「女の身体を持った人間」の話
「胎児の脳を移植された若い女性の話」という筋書きなのだが、いきなりネタバレするとしかし胎児の性別って別に言及されていない(はず)。つまり男児の脳を移植された話かもしれないのだ。いや、移植された胎児の脳が男児のものか女児のものかは果たしてもはや問題ではなく、つまりこの話はそもそもが女性(ジェンダー)の話というよりは女性という体を持った人間の話、という構成になっているように思う。

ボーヴォワールが二十世紀にそう触れてから、女性(ジェンダー)に関する問題はすべて体の問題というよりは社会の問題になったのだと思っている。私も職場で女性蔑視にあうたびに、「ちんちんついてるのがそんなに偉いのかよ」と言い返しているが、つまり反語的に身体はもはやさほど重要ではなく、身体という器を「女性」にしている社会なるものがある、という認識は私自身にある。

この話の中でベラは女の身体は持っているが、しかし女性というジェンダーは持っていない。最終的にも多分獲得しないで終わっている。「ウーマンリブ」という言葉を使うとき、それが体が女性であることではなく、社会的に女性というジェンダーを与えてくるものからの解放、ということを意味するのならば、この話は全く「ウーマンリブ」とか「女性の解放」というような話ではないように思う。なぜなら、「第二の性」を持っていないという意味でベラは「女性」になることは結局なかったのだから。

「第二の性」を与えられないためには、結局強烈な家父長制が必要なのか?
「第二の性」をそもそも与えられていない、というのは、女性差別が残る現代を生きる女性たちにとって魅力的なものに思えるのかもしれない。ただしこの映画を振り返ると、結局ベラが「第二の性」を獲得しなかったのは、彼女がその”幼少期”に圧倒的な家父長制によって守られていたからのように私には読めてしまう。物語序盤は、街に出ることを許さない父親によって。その後も、自分を置いて街に出ることを許さない夫によって。こうした圧倒的な家父長制に守られて、ベラは結局「女性たるものかくあるべし」を習得しない。ベラは家父長制による無菌状態にいることで、いわゆる「空気を読む力」のようなものを身につけずに人生を送るのだが、空気を読む力を狭義の「社会性」だとするなら、社会性を身につける過程で吸い込みがちな女性性も身につけることはない。ウーマンリブ映画だと思って観ると嫌な気持ちになるのは、結局、ベラは女性(ジェンダー)でもないし、最終的にベラが解放されるのは幼少期の家父長制のおかげ、ということにもなりかねない設定だったためのように思う。もちろんこの点は変な前情報を得て観ていた私が悪いのだが…

性の自己決定権の話
映画を振り返るといろいろと味わい深さは残るのだが、一方で映画の序盤のセックスシーン未満(耳を齧るシーン)についてはかなり強烈な気持ち悪さがあった。それ、女性の身体ではあるが脳は胎児なのであって…特にフィアンセにとっては明らかな小児性愛なのである。同行者にこの点を指摘すると、「まあ女性は成熟してようとしていなかろうと性的な目で見られるということでしょう」と解釈してくれ、それは確かにもっともで私の読みが浅く沸点が低いことを一瞬反省したが、しかし気に掛かるのは、ベラの”幼少期”の豊かな性体験によっておそらくベラは、自立を知るきっかけとなる娼館での労働を行うことが出来た点だ。つまり、うがった見方なのかもしれないが、性の自己決定権のなさ→豊かな性体験→自立という線も引けてしまっている。「性の自己決定権があることが人間の権利として当たり前のことなのである」という通説の逆張りをいっていて、鑑賞しながらかなり人生的足元が揺らぐような気がしたし、小児性愛的な危うさに基づいた上でのベラの「女性および性的束縛からの解放」を手放しで褒めるわけには、二十一世紀観点からでは、いかないと思う。

あとこの点は自分でも書き残すか迷ったのだが、この映画の危うさは小児性愛的な危うさに加え、発達障害の人の性トラブルを看過しているところもある。以下、私の発想自体も差別的な記述を含んでいるかもしれないのだが、冒頭の”小児”のベラについては子供というよりも発達障害的な描写のように感じた。(発達障害らしさを子供っぽさに結びつける私の解釈にもかなり問題はある。)物語の後半ではそのベラの性体験が成熟し、最終的には性交をむしろ手段とし自分からコントロールするようになり、その点において「よかったね」というようなエンディングにはなっているが、私がここで強烈に思い出したのは片山慎三の『岬の兄弟』(2019)だった。

岬の兄妹

岬の兄妹

  • 松浦祐也
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『岬の兄弟』は兄と妹の二人で暮らす兄弟の話なのだが、妹は自閉症である。ある日妹が売春をしていたことが発覚し、兄はそれをしかりながらも売春斡旋をするようになる。この映画のワンシーンでいまでも強烈に覚えてるのは、幼少だったころの妹の性のめざめの場面で、おそらく幼稚園児〜小学校低学年くらいの妹がブランコに股間をこすりつけて自慰行為をするのである。私だったらこの妹の自慰行為に対して、なんと叱るのか、もしくは教え諭すのか、全然想像はつかないのだが、しかしこの場面を見ていると、「性について正しく教えられないまま自分の快楽だけに従っていると、結局は自分の体の選択肢を失うだけなのではないだろうか」と感じたのだった(体の選択肢どうこうは『岬の兄弟』の脚本にも関わる部分なのでぜひ見てほしい)。『哀れなるものたち』でベラが得られた自立は「フィクション」を越え、「ホラ話」なのであって、そのホラ話度合いは罪深ささえあるのではないか。

セックス=ロマンティックラブから自由だったベラ
最後に、性にまつわる描写でよかったところに触れておく。一度娼館のシーンで、ベラはセックスをする前の客に「あなたの幼少期の話をして。私はジョークを話すから。」とお願いをするシーンがある。客は自身の子供の頃の思い出を話し、ベラもジョークを飛ばす。その後やっと二人はセックスに移る。ここでのやりとりはキャッチボールとしては成り立っていない会話なのだが、唐突なベラからの問いかけは「お互い分かり合っているもの同士で性交渉しましょう」というような規範、期待を感じられる。ただしこのやりとりは毎回続くわけではなくプレイの一環として回収される。結局、その後一度もベラは「この人とセックスしたい」という思慕・執着を見せない。肉体を超えて「この人とセックスしたい」と思うこと自体が、ロマンティックラブイデオロギーと密接に関わっているし、ロマンティックラブは「愛していればなんでも許される」というような、ドメスティックバイオレンスも導くものだと個人的には考えているのだが、ベラは最後までこの2つを切り離しており、よってそのおかげで最後のシーンのDV夫から逃れられた。セックス=恋愛関係=ロマンティックラブを切り離していたのは『バービー』(2023)も同じくなわけで、このイコールの切断は世界標準のものになっていくんだろう。

 

以上、つらつらと書いたが、まとめるとこの映画は「女性」の話にしても「性」の話にしても「成長」にしても、その話に乗り切れないもやっとしたところが残る映画だった。まあでもランティモス作品って大体そんなものか…。男性、女性、もしくはそれ以外の性の立場から、もしくは人間というものについて、近くで見たり、遠くで見たりすることによって生まれる感情を眺める映画だった。