十一月 - 文体の問題

秋口頃からこのブログをきちんと書こうと、やわらかく決意はしていたものの11月は完全に筆が止まった(タイピングが止まった)。書名は出さないが、新聞の書評欄に載っていたエッセイ本を買って読んだ。小説に出てくる土地を訪れながらそこでその小説を読んだ記録、という内容に惹かれたのだが、その立て付けのユニークさは別として、この人の書く文体に「なんだかなあ」という気持ちが残った。「なんだかなあ」というのは、どこが悪いと指差しで言うことはできないが自分との相性がとにかく悪い、としか言いようがない。しかし「自分との相性が悪い」とは言ったけれど実はこの人の文体と私の文体はかなり似ているなとも思い、そしてその文体は「私の文体」というよりも、90年代以降生まれの、ほどほどに本を読み、そしてインターネットカルチャーに身をおいていた人の文体…なのだ(多分)。文章自体はやわらかく、自分の感情に鋭敏で、それを素直に吐露し…それ以上の言語化はなかなか私には難しいのだが。そういったナイーブさと、その世代に身をおいていないとわからなそうな、ひとりよがりな「機微」に私自身はうんざりしてしまって、しかし私もこのような形で自分の考えを披露しているのかもしれない、と思って自分で文章を書くのが恐ろしくなっていた。

重ねて、エッセイが持ち得ない魅力についても考えていて、それは小説の魅力のことであり、『パムクの文学講義: 直感の作家と自意識の作家』を読んでのことである。小説を読むということ、書くということは、それが持つ「中心」に向かって読み進まれ、また書き進められていく営みであることが語られている。ある場所を歩く人にとってはどこが「中心」だがわからないものだが、一通り歩き通してみてその中心がついにわかる。小説を読む/書く心の動きとは、そういったもどかしくも達成感のあるものなのだ。「(小説が持つ)中心」というのは小説のテーマとか主題だとかとおそらく言い換えられ、その点ではこの本の主張自体に新規性はないのかもしれないが、「中心」という言い方をすることによって、小説を読むこと(そして裏返して、書くこと)の運動性について改めて認識した。小説を読むのは(特に中心もなにもわからない物語の前半は)疲れるものであるが、その疲れは至極まっとうなものであり、また最後にはどこかにはたどり着いていることを教えられ、小説を読むときの地図を渡されたような気持ちになった。そして、エッセイ/ブログ記事ではそういった地図を使う必要はないし、また地図を使うからこその力を持ち得ない、という「隣の芝は青い」現象もしっかり私の心に残ることになった。かといってブログを読んでくれている人に小説を読むときのような長いハイキングをさせたいわけでもないのだが。どうにかしてその要素を自分が書くものに取り入れられないか、という足掻き。

日々頭でっかちになっていく読み手としての自分に、書き手としての自分がついていけなくなっている感じは否めない。最近は『着眼と考え方 現代文解釈の基礎〔新訂版〕 (ちくま学芸文庫)』も読み始めちゃってますます読み手としての自分側に知識が募っている。たとえば同書の冒頭には「解釈の基本」が書かれていて、小説の描写からいかに人物や人間関係を読み解くかという手引が示されているわけだが、その手引に応えてくれないような粗い描写で満ちた小説を見ると怒りが増してくる(自分の解釈の力が弱いだけかもということについては一旦棚に上げておいて…)。これは映画でも同様で、その物語が作られるのはどのような人物によってなのか?ということが伝わらない映画はつまらない。11月の最後に見た映画はそういうものが多く名前を挙げるまでもない。まあマキマさんも10本に1本くらいしかおもしろい映画はないよと言っていたしそんなもんなのか。

チェンソーマン 5 (ジャンプコミックスDIGITAL)

漫画といえば『ザ・ファブル(1) (ヤングマガジンコミックス)』を一気読みした。Twitterで見た、ヨウコの「アルコールに包まれて爆笑したい」にめちゃくちゃ共感して読み始めたのだがとにかくいい話が多い。ウツボ編の「祈りではなくイメージ」の言葉は人生の教訓のような気さえした。漫画は中心とか気にしなくていいから読んでいてもマラソンのような息苦しさはないから気楽だ。それでもファブルのようにいい話や心に残るシーンをそっと残していってくれるし。あと私は漫画が絶対に書けないのでむやみやたらに隣の芝を眺めることもないし。そういう11月だった。