平成生まれの開き直り『ヒート』

現在でいう「プロフェッショナル」という言葉は、専門家や職業人といった意味ではなく、「対象に対する妄執的な献身を行うこと」を意味することが多いと思うのだが、まさに本作の刑事(アルパチーノ)と犯罪組織のボス(ロバートデニーロ)はその意味での「プロフェッショナル」であり、彼らの邂逅は互いのプロフェッショナル性を感じ取ることで波長の奇妙な一致を見る。相手に自分と同じものを感じ取りながらも、悪を制する者と悪を成す者が最終的に行き着く先はどこにあるのか。というような話。もうこういった話に対して、「ボーイズクラブかよ〜」とどうしようもなく思ってしまうリテラシーと悪癖がついてしまった自身を感じる。案の定、刑事も犯罪組織のボスも、家族や愛する者との関係を脇に置き、自身の「仕事」(つうか、夢中になれるもの)に打ち込んでいるだけで他はポイー。「そこで通じ合う二人」と言われても最早私が生きる時代がそれにのめり込むことを許してくれない。スコセッシは本作を「1990年代のベスト映画の1本」と評したらしいが(wikipedia)、それだったらボーイズクラブ性も描きつつそれに対する批判的な視線も逃していない「アイリッシュマン」(2019)や「キラーズオブザフラワームーン」(2023)のほうが優れた話のように思えてしまうのだな。一つの映画が一つの視線しか持ち得ていないことに関してうんざりしてしまうのは平成以降生まれの本質的に悪い癖で、もう平成以降生まれは2010年以前の映画の脚本にはついていけないのだろうかとも思ってしまう。

ただしここまで私自身夢中になって批判できるのも映画の撮り方として優れていたからとも言える。銃撃戦は街中でどんぱちやりすぎだろと思うのだが実際の音を収録して撮ったらしい音響(wikipedia)や、ヴァルキルマー(の役)の手際の良さを示すカメラワークで映し出される犯罪シーンは息を呑む。脚本それ自体の構成も、アルパチーノの話、デニーロの話、アルパチーノの家族の話、デニーロの愛の話、と折り重なりなが進むことで長尺を感じさせず話にのめり込むことができる。アルパチーノとデニーロの実質的なツーショットが長い時間映し出されないのは(多分初めて顔を合わせるのは映画前半の2/3を過ぎたところであった)、二人の関係性に緊張感を与えることに成功している(シネフィリー、ステディー、ゴー 2022そうした装置があった上での私の冒頭の感想なので、まあ優れた映画なのだろうな〜、とは白旗。そこまでわかっていてもやっぱりそういう感想なの?と聞かれたらまあそういう感想にさせていただきます、だってせっかく長生きしてるんだし次の世代の次の物語を生むためにも新しい区画を耕させていただきます。(という開き直り)