物語を読むことと人の心を読むこと

生理前のジュンク堂書店はすごく気が滅入る。自分が読んでこなかった本、知らない本、知ったって読もうとしない本、そういうものがすべて襲いかかってくる。それらの本を読んでこなかったのは、知らないのは、読もうとしないのは、ひとえに私と私の怠惰が悪く、そういう怠惰な人間である私がジュンク堂書店にいさせてもらってることすら申し訳なく惨めに思えてくる。最近は北村紗衣『批評の教室』を読んで丁寧に読むことの難しさを噛みしめる。丁寧に読む、というのは自分の萎縮する前頭葉と戦いながら文字を追うことだ。萎縮する前頭葉に任せてこれは嫌いだ好きだとキレ散らかさずに物語を追うことだ(なお、おもしろいおもしろくないの価値判断を北村紗衣は否定していない)。私はどうも物語に浸りすぎる癖があって、いやとどのつまりは正しく筋を追えてさえいればそういう浸りすぎも悪くないのだと思ってはいるが、若干誤読が激しいようにも思えて軌道修正をしたいというのがこの本からの得た感情。

最近はそういう自分の知的怠惰におどおどとし始めたのであるが、同時にまた人に思いを寄せ寄せられをやり始めている。私は性交ばかりをやって恋愛をしてこなかった人間だから性交関係にひとたび感情が芽生えると本当に麻疹を悪くしたみたいになり、間違ったことを言っていないか気持ちいいことを言ってやれているかおどおどとし始めてしまう。世間の人間はこんな面倒なやりとりをやり続けているんだろうか?しかも男性器を女性器にいれながら?

私は大学を出たのに大学院まで修めたのにもう三十歳もとっくに過ぎたのに相変わらず「正しく読む」ということがうまくできていないような気がしてしまってそれはすべて自分の知的・人間関係的怠惰にあるんだなと突きつけられて本当に気が滅入るし衝動的に頭を強く打ち付けたい気持ちにもなる。勿論、いま打ち付けるべきはもしかすると頭というより子宮のほうかもしれないけど。ホルモン剤を飲んでいたって毎月毎月気が狂う。