感傷的に五月を終える

 こうして自分の感情と文章に向き合うのも久しぶりだ。気づけば三月からブログを書くことをしていない。しかし三月以降いろいろなことは起きている。仕事のどうしようもなさ、人間関係(恋愛・異性関係)のどうしようもなさ。こういうことを考えるのは誇張抜きに人生で300回目のような気がして、要するにもう答えはわかっているはずなのに(答え=いまとは違うことをしよう)、だらだらとどうしようもなさを考える「『居心地の悪さ』の良さ」の中毒から抜け出せない。
 ブログを振り返ると、こういう「愚痴のイントロダクション」みたいな文章をいつも書いて終わってしまっているのでそろそろ本腰入れて上記事項のどうしようもなさについてきちんと書きたいなと思うんだけど。(が、今日も書かずに終わるだろう。)

 

 最近は読書趣味もだらだらとしていて、直近で読んだのは松浦理英子『ヒカリ文集』と『最愛の子ども』のみ。しかしどちらも幾分少女趣味にはまった人が書くような設定と描写のような気がして居心地が悪かった。「ファム・ファタール」(前者)や「家族」(後者)という概念のあり方について解体を試みた話であることには違いないのだろうが、女子学生の妄想っぽい物語や筋書きがなんとも。
 映画趣味もだらだらとしていて、色々観はしたのだが、直近ではジュリア・ドゥクルノー監督の『TITAN』を観た。いろいろな人に私の感想も踏まえて話すと「まあガールズムービー以上でも以下でもないね」と言われ、確かにそうなのだが、ガールズムービーをああいう表象で描くって画期的なことなのだと言いたい。要するに私はけっこう好きだった。監督の前作RAWが思春期の女性の心と身体の変化を描いていたのだとすれば、本作は妊娠期の女性の心と身体の変化、さらには、妊娠期前後の女性が体感する男性社会への参入とそこからの排除、というものも描ききっていて、「ああ私が言いたかったことを表現してくれている」という感情を持った。という点で「私はけっこう好きだった」。(私は、私がまだ「世界に暴露されていない」と思われる感情や思想、文体、表現を世界に対してあらわにする作品が好きな傾向にあるので。)

 

 四月どころか、ゴールデンウィークが終わろうとしていて、あとこれが一番でかいけど生理前で、「五月病」というのっぺりとした言葉では表しようもないほどに感傷的だ。「ああ誰かがいてくれたら」と独身三十代女性なみのことを思うが、結局それは他人に感情の拠り所を求めているだけで、もちろんそれ自体はよくも悪くもないことに違いないのだが、しかし他人にとっては別に私の感情などどうでもいいこともまた違いないので、自立した個人として自身の感情を支えられるようにいつかなったら、五月のなまぬるい気温の日の夜に都合よく男を呼び出したりしてみたい。