あなたが祈ったから2021年が終わる

働きはじめてからというものの季節の流れがとにかく早い。1ヶ月が早い。1年が早い。今年は特に10月中旬からの記憶がない。クリスマスのことは好きだがその日が実際に来てしまう日のことやその日の自分のことを想像すると頭が狂う。友人とそういう話をしたら「月-金でとにかく早く週末が来いと思いながら仕事をしているからそりゃ早いよね」と。2021年の終焉を望んだのは私だった。終焉は繰り返されいつか自分の人生の終わりと一致するのだが。

いろいろなことを考える。しかし「考える」と「悩む」は異なり、答えのでないこと/もしくはわかりきっていることをネチネチ考えているという意味で私は「悩む」の状態にいつまで経ってもいる。「平日が終わらないでいてほしい!」と(いい意味で)心から願えるような仕事に就けたら幸せなのか?と問われても、私がそもそも労働があまり好きでない以上、そんなことを願う仕事はそもそも存在しないのだ。というわかりきっていること。

別の友人にインゲボルク・バッハマンの『三十歳』を勧められる。まだ真剣に読んでいないが、冒頭が「人生で三十番目の年を迎えても、人々は彼を若者と見なし続けるだろう。しかし彼自身は、何か自分に変化を見いだすわけではないにせよ、確信が持てなくなってくる。」と初手で王手を放り込んでくるような話である…。…いや、少なくとも数ページ読んだ範囲では、もちろん「三十という歳」という役割を演ずる人にとっては王手なのだろうが、これは私という実体の人間にとっては王手ではない。たしかに三十は諸々の可能性がなくなることに気づく歳である。私ももちろんそうなのだがしかし、心のどこかではまだまだ「いやまだ何か可能性はあるはずだ」と恥ずかしげもなく(そして一定程度真剣に)考えている。私は幸せな豚だろうか?いや、恐ろしいのはここからで、私は「何か何者かにはなれるはずだ」と自分の可能性・能力・運をまだまだ信じきれているものの、しかし私は気づき始めている。「私は何者かにはなれるかもしれないが、しかし自分はそうまでして何者かになりたいのだろうか?」という自身の怠慢さに。言葉にしてしまうと絶望的に自己暗示がかかりかねないのでこれ以上真剣には考えない(なんならこの記事はこっそり消すかもしれない)。考えないけれど、私はまた明日から、明日からの一週間が早く終わることを祈り続ける。実際に一週間は早く終わる。2021年も、そして自分の人生も。