十月 - あなたは争いが好き

 川の流れは絶えずして、今月もNetflixを漂う。「アイリッシュマン」を観る。去年くらいの作品だったっけと思ったら2019年の作品で、Netflixに浮かぶ新作はかつ消えかつ結びて。スコセッシ監督の作品は「シャッターアイランド」と「ウルフ・オブ・ウォールストリート」を観ていて、特に前者は話の筋が読めるようでしかししっかりと心が割れるような情緒を持っていて好みだった。後者はチャンネーのおっぱいしか覚えてない。「アイリッシュマン」は3時間の大作で、良いと聞いてはいたがその長さに及び腰になっていたのだが…破滅的に面白かった。それに音楽がいい。デ・ニーロが演じた男の、忠誠心を隠れ蓑にした主体性のなさが皮肉っぽく、その主体性のなさが最後にはクリスマス前の夜に部屋に独り残されるという人生の結末につながっていくことに寂寞を覚えた。

 本作に対する宇野維正の解説があったが、そこでは本作の後味についての話、また自己批判についての話という2点を語っている(Movie Walker 2019)。とりわけ女性の目線を(男性に対して)自己批判をもたらすものとして読み解いている点を興味深く読んだ。もはや現代において、誰かが起こす争いとそれに対する批判について、わざわざジェンダーを持ち出すほどそれぞれは一つの性に起因するものでも無いと思いはするものの、先日『ゴールデンカムイ』を、そりゃもうヤンジャンの無料開放でですね全部読みまして、そこでインカラマッの出産の最中に繰り広げられる鯉登および月島・谷垣の銃撃肉弾戦がオソマの母によって一種コメディ的に中断されるシーンがあるのだが、それを読んだときに「女にとって男の争いなどどうでもよいのだな」というような変な納得をしたことを思い出した。繰り返しにはなるが、現代における女はもはや争いに参入する側の人間かもしれず、「争う男、そしてそれを冷ややかに批評または無視する女」という図式はもう描写できないのかもしれないが、そういった時代性も含めて「アイリッシュマン」や『ゴールデンカムイ』という作品は深いリアリティを描いていた。
話は全く変わるが「アイリッシュマン」でもう一つ良かったのはそこに描かれる自動車の変遷である。作中ずっと車がいちいちかっこよくて、ジミー・ホッファの車がリンカーンであることが収監時に話されていたが、出所後は高齢者施設のカローラが映る。カローラの致命的なダサさ。悲壮。
 しかし「アイリッシュマン」みたいな話が日本でも映画化されればいいのにと思う。上記の記事で宇野維正も言っていたが本作はアメリカ近代史をまるごと飲み込んでいて(勉強不足でわからない部分も多かったくらい)、映画はここまで踏み込んで描けるものなのだなあという感嘆と、日本でもぜひ、というような憧憬がある。これまた勉強不足だけど日本の政治史はやはりおもしろいものと思うし、清濁濁濁併せ呑む、というような人間の生き様は映像作品になってもどでかいスクリーンに負けはしないだろう。まあ昨今の文書の取り扱い等を見るとそういう表象を許す政治ではなくなってしまったのかもしれないし、それを作る製作者側の力量も霧消しているのかもしれないし…。(ハゲタカとか倍返しだとか、そういうんが近いのかもしれないが、それらを見ていないのでなんとも判断しきれない。)
 あと今月に観た有名監督作品はリドリー・スコットのもので、「最後の決闘裁判」と「ロビンフッド」を観た。「ロビン・フッド」は前者を観てからNetflixで観たのだが先にこちらの感想を書くと、こちらは対立の描写が少し単純にすぎるしシンプルなヒーロー物という感じで好みではない。もちろん英仏の間にはそれくらい典型的に書かれても仕方がない歴史が染み付いているのかもしれないが。しかしケイト・ブランシェットは美しい女だな。横顔がたまにボッティチェリの描いた女のように見えるときがある。
 一方で「最後の決闘裁判」は映画館で観たのだが、三者から語られる「真実」と、しかし「語り」を重ね合わせても否定しきれない事実のおぞましさが徹底的に描かれており感嘆する。本作が描こうとしたものは女の私からすると上映中であっても叫びだしそうで、正直なところ件のレイプシーンでは私が見聞きしてきた女の身体の蹂躙についてのすべてが表現されていてかなり辛かった。ただこれも振り返れば迫真かつ歴史的に画期的な描写であったと思っていて、つまり女のレイプを描くときに、女の悲鳴、布が切り裂かれる音、女の乳房、乳首、太もも、局部、といったものは装置として必要はなかったということを説得させられたのだ。女が蹂躙されるとき、それは苦しく不気味なほどに無音の中で行われるのだ。押し付けられ衣服の必要な箇所だけ捲し上げられうめき声はベッドに吸収されるだけなのだった。
 彼女にとっての救いは最後の草原のシーンなわけだが、それもほんとうにささやかなものであって、彼女の身体も精神も蹂躙され尽くしたあとに観てもこちらとしてはやすらぎを見出せないのであった。結局、草原のシーンにおける彼女の生み出した存在以外に、彼女が「関与できるもの」と誰かが保証してくれるものはその当時には無かったということがあまりにも浮き彫りになっていて。
 「最後の決闘裁判」も「ロビン・フッド」も、リドリー・スコットの描く戦争・戦闘描写は勇ましいばかりでなく情けない悲鳴や醜い血しぶきがよく飛び交う。「アイリッシュマン」や『ゴールデンカムイ』における「女性の目線」を私自身も意識しすぎたのか、そういう人間関係のなれのはてを観ているうちに「男の子はほんとうに戦争が好きね」という気持ちになる。こういう気持ちでいろいろ感想をインターネットで漁っていたら「片手袋研究家」の石井公二氏が似たような問題提議をしていて
「ちなみに『燃えよ剣』公開中の原田監督のブログに書かれた『最後の決闘裁判』評が悪い意味で話題になっている。『燃えよ剣』は秀作だったので見ていない人まで批判してるのは残念。ただ、私は偶然『最後の決闘裁判』の後、同じ日に見た影響からか「“幕末の志士達の信念”とか言うけど、暴れられた料亭の女将や花魁とか、妻達とか、女性の目からはどう見えてたんだろうな?」と考えてしまったのだった。」
 と、まさに男の子同士の「プライドをかけた争い」に巻き込まれる側の呆れた視線について触れていた。「アイリッシュマン」も「最後の決闘裁判」も『ゴールデンカムイ』も男性の手によって描かれた作品群で、自分が本来持ち得ないかもしれない視線を内包し作品を完成させるのは骨が折れる仕事であろうし、彼らの天才的な思いつきや世界に対する丁寧な観察がなければ生まれない偉大な仕事であろう。二千年以上に亘る人間の表象の歴史の中で語られてこなかった側の思想が今後作品に含まれていくのならば、今後のそれらはどのような変化を遂げ、それらを見た私はどう感じて生きていくのだろう。