エモーショナル別れ

セフレという呼び方はそれほど好きじゃ無いが、まあそういう関係にあると世間一般で言われるだろう人物と、この間、もうあんまり会わないことにしましょうね、という話になった。ぶっちゃけ、セフレと呼ばれる関係にある人間同士はこれからも梅の花がほころぶたびに連絡を取り合うもの、というのは人生のことわりなのでこんなことをいくらしたためてもしょうがないのかもしれないが、一旦はそういうことで。つって。
(追記、ウイルス関係ないです。)

ついでに、こういう関係にある人間と別れなくたっていいのではないか、というのもまたよく言われる話だとは思うが、なんか結局、優しくなかったんだよな。私にしてはめずらしく随分、その人物と話し込んだが、私のことを大事にしない割に、大事にしたいという感情を伝えてくる態度に飽きてしまった(お、セフレという存在は往々にしてそういうものですね)。もちろん、私という人間はかなり自己批判性の強い人間でもあるので、「優しいとは何か?大事にするとはなにか?」「大事にしろ、という私の感情は我侭なのではないか?」とひとしきり悩んだが、ばっさり切り捨ててしまえばこんな感情は三十路近い人間が持っていい悩みではない。たいがいの人間はもっと前に、だいたいの自分の行動範囲の人間たちと、優しさのあり方に関する基本的な合意を取り付けているものだ。

いまはもう結婚した友人の話だが、私ととある男との痴情のもつれについて、彼女が相談に乗ってくれたことがあった。私がその人物から受けて来た扱いを話し切って、友人が頷きながら聞くだけで時間が過ぎた。その帰り道に私が礼儀半分で友人が当時交際していた男性とうまくいっているのか聞いてみたところ、彼女はうまくいっている、と言ったあとに「優しいよ、あの人は」と自分の恋人のことを評するのだ。私がふざけて、「えー、具体的にはどういうところが?」と吹っかけてみたら、「バイト先まで迎えに来てくれるところとか、いつも車道側を歩いてくれるところとか」と言うのだった。非常にナイーブな「優しさ」だと判断すると同時に、しかし彼女の中に、瓶詰めされた金平糖のように光る、彼女の恋人の優しさとやらが本能的にすさまじく羨ましかった。(彼女はその男性と数年後結婚した。)

ある人に対し、もう感情を持つのはこれきりやめよう、と感じた瞬間そのときの、空気感とか自分の居心地の悪さだとかはいつまで経っても覚えてるものだ。これまでに二人に対して感じたことがある。一度目は、何回かドタキャンされたあとの性交が済んで、ベッドでぼーっとその人物の顔を見つめていた時間で、かなりの補正も入っているのだろうが、その人物の、まつげとか、額から目のくぼみまでの線、目のくぼみから鼻の先(鼻の先、という表現が似合うくらい尖った鼻だった。でも丸みもあって。)までの線、目線の向かうほう。など。これはもう五年くらい前の話だ。二度目が今回の人物で、その人物がベッドで昼寝をしているときに私はそばの椅子に座り、膝を立て、立てた膝に顎を乗せていた。これは一ヶ月前の話。
「感情を持つのはこれきりやめよう」という言葉が頭を巡るわけではなく、むしろ静謐な、おだやかな時間でさえあるのだが、彼らを前にしてそういうおだやかな気持ちになることがすでに、私と彼らの関係からして異常なのであって、そういうおだやかさを知ったとき、私の人生にその人物はもう存在しないし、その人物の人生のなかに私ももう存在しない。

最近、私は周囲の恋愛相談にわりと平気で「優しい人がいいよ」と言い回っているのだが、それは本当に金平糖などという毒にも薬にも肥満にも栄養にもならんただの甘味を勧めているだけのようで、真理に触れているはずなのにどこかみじめだ。私の頭の中では、椅子に座って膝を立て、食べもしない金平糖の入った瓶をころころと音を鳴らして遊んでいる、そういう私自身の姿がほんのりとにじんだままだ。