下着をまとう

 かつて、自分のなかでヨーロッパの下着を買うことに夢中になった時期があって、その頃はまだ私も学生で、親のすねを髄までかじり残ったところは煮込んでブイヨンにするような性格をしていたので、その勢いで決して安くはないその品々を銀座三越にて買い漁っていた。まあ「買い漁る」と言えるほどのめり込んでいなかったはずではあるが、それでも分不相応の買い物には違いない。それから少し頭を冷やし、親のすねブイヨンも飲み干してしまったので、セールのときに気に入ったものがあれば買う、くらいの気持ちの収まりは見せたが、そういう経緯もあって私が身につける下着はヨーロッパの下着か、やる気のないときはユニクロの下着か、という選択が常。
 暴露するものでもないが、私はずっとブラジャーというものをまともに着けたことがなかった。もちろん胸のふくらみが出てきた段階で母親と一緒に買いに行った記憶はあるし高校生のときには田舎のジャスコにあるなりにまともなものをつけていた気がするのだが、例えば上下で揃いで、とか、(高校生なりの)勝負下着で、とかいう発想はあまり無かった。そのまま大学生になって上京してもほとんどユニクロのブラトップを着ていた記憶がある。大学生後半になると少々感覚が世間に追いついて、ユニクロでなんとなく上下がマッチするような組み合わせで買い揃えていた。バイトを始めるとここでようやくトリンプやらピーチジョンといった日本のブランドのものを上下揃いで少しずつ買うようになった。バイトで懐に余裕ができたのもあるだろうが、ラブい人間ができたのでそれなりに身なり(というか見せるもの)に気をつけようとも考えたんだろう。世間の思春期と呼ばれるものに比べて五、六年位の周回遅れだった。ただそのラブい人間にプリンセスタムタムの下着なども見せつけた生々しい記憶もあるので、日本のブランドのものを着け始めてからかなり早い段階でヨーロッパ下着に移行していたと思い返す。
 私がブラジャーを自分の皮膚の一部として受け入れるまでに時間がかかった理由については、ただただ私の怠惰とプライドのなさ、女性的表象への照れといったものに起因するだけで、身近にあったであろう日本のブランドのブラジャーに嫌味を言えるわけではない。が、そういった自分の越し方とは別に、いわゆる日本のブランドのブラジャーがあまり得意でないのはそうだ。日本のブラジャーはロケット型の甲冑のようでよろしくない。中世の女騎士の鎧、と思い浮かべたときに大多数の人間が考えつく形がそのまま日本のブラジャーの形式だと思う。モールドは不自然に固く盛り上がっていて、アンダーワイヤーはみぞおちを押し(もしかしたらサイズが合ってないのかもしれないが、合っているブラジャーに出会えたことがない。私の胸のサイズは平均より若干小さいくらいで標準の範囲だ)、脇の下のワイヤーが肋骨の形を正そうとするかのように皮膚にめり込む。そのまま服を着ると服のシワが不自然に胸の先端に向かって走り、また下着を脱いだときも、生クリームの絞り袋を絞り尽くしたときのような萎れた体になっている。
 比べてヨーロッパの下着はまず肌触りがいい。繊細な織りがされているけれども見た目の複雑さとは真逆の柔らかさがある。アンダーワイヤーはあくまで胸のふくらみを下から掬い上げるように添えられるだけで、どういう仕組かわからないがアンダー部分の布地で清楚に上半身が支えられる。そういう支えがあってから、アンダーワイヤーから上に続くレース地が胸の丸みを包み、これもどういう仕組かわからないが肩紐が胸を覆っているレース地を軽く上に引張りあげることでやわらかな胸が自立する。モールドがあるタイプについても、モールドの形はあくまでも胸の擬態として設計されており、ちゅるんとしたみずみずしい張りのある胸を再現してくれるにとどめている。自立した胸にともなってデコルテは少しだけなだらかに角度がつき、しかしそれはあくまでも自分の胸のふくらみを持ち上げただけでできる角度であるから暗すぎる影が両方の胸の間にくっきり刻まれることはなく、自分の肌の皮膚とやや暗い影の色とのあたたかなグラデーションが浮かび上がるだけだ。
 よく日欧の下着を比較して、「日本のものは服を着たときにうつくしく見えるよう、ヨーロッパのものは下着姿のときにうつくしく見えるよう」などと言われているが、ヨーロッパの下着の本領はそれを脱いだときだ。下着を脱いだ後の生身の私の体であるはずなのに、ほんのすこしの圧から紅くなる下着の痕によって私の体はよりいっそう彩色される。下着が支えていた胸のふくらみは名残を覚えて引き続きそこに存在し、紅い痕はそのやわらかい胸のふくらみの影と混ざり合い、疲労ではない、気怠げな色を呈する。私は一枚の布も身につけていないので、まぎれもなくそれは私の色なのだ。脱いだ服から漂う自分の皮脂のにおいもあいまって満ちる私自身の色香によって私は照れくささのないまっとうな自尊を全身に吸い込むことができる。ある種、ヨーロッパの下着はそれ自体が香水と似たものかもしれないとさえ思う。身につけることで自分の香りや色、皮膚と混ざり、そして他者には模倣できない自分だけのそれぞれを発することができる、という。冒頭の通り、こうした下着は大変な高級品であるのだが、そこから享受できるたおやかな心持ちは、「高級な下着」というフレーズの鼻持ちならさはどこ吹く風の、素朴で自らを慈しむ気持ちに気づかせてくれる。