女の決意の左向き顔

この前誕生日で、私もいやおうなくアラサーになりました。四捨五入で〜とかそんな小細工しなくてもアラサーになる年齢にめでたくなりました。
しかし誕生日前日付近からな〜〜〜んとなく体調ならぬ心情が悪く、わかりやすく言えばずっと生理前!みたいなあのつーんと虚しく悲しく切ない感情が秋の低気圧と相まってぎゅ〜と私を締め付けるので前日はケーキを買って帰ったのにケーキの入ったビニル袋がしゃりしゃりと鳴るのがなんとなくうら寂しく東京のど真ん中で泣いちゃうかと思ったよ。
家に帰ってから、あっと思ってNetflixで「この世界の片隅に」を見た。

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いわずとしれた戦争映画なんだけど、そこも好きなんだけど私がその日にこの映画を見ようと思ったのはすずが広島から呉へと旅立つシーンを思い出したからだ。すずが、広島の街を、「原爆ドーム」といまは呼ばれる建物を描きながら、「さようなら、広島」と心で言う。すずはそこで泣くわけじゃなかったが、(表向きは)最後になる広島の街を淡々と描き、描くためにまっすぐ見つめる。主体もなにもなく、好きな人のことを心に抱えたままお嫁にゆくすずのその言葉は決意の言葉でもあったのだ。

決意みたいな諦めみたいな、でもがんばるでーみたいな複雑な女の心情を同様に思い出すのは魔女の宅急便のラストシーンで、キキは最後に「落ち込むこともあるけれど私は元気です」と母に手紙を出す。ご存知のように、キキの独り立ちはうまいことばかりではなくどちらかといえばまずいことばかりであったのだ。それでもキキはなんとかたち直って一人で暮らして行く心を決める。落ち込むこともあるけれど落ち込んでなんからんなくってそういう意味では諦めだけどやっぱり決意なんだよな。

二人の決意の裏側には、故郷を捨てるイニシエーションがある。私が切ない気持ちのときにこれらの女たちを思い出すのは、決意の裏っかわにある、失ってしまった故郷、もう二度と前と同じ関係性を持つことはできない故郷、その周辺の人々を懐かしく感じるからなんだろうな。

前回の記事といい、昔をやたらに思い出していないのは現状に満足していないためのような、よくない傾向よなあ。

まあしかしもっとあけっぴろげに言ってしまえばこれは私なりのオナニーなんだろうなと思う。だって昔を手に入れたいわけじゃ全然ない。私は少なからず前進しているし、昔にいまを前進させる力はない。もう手に入らないものを、あー手に入んねえっすねえって悲しむふりをしながら心のどっかをこすりあげて「エモーショナル」を感じたいだけの自分に、十分自覚的だ。

隙あらば入り込むエモーショナルに、わたくしも、さようなら故郷、落ち込むこともあるけれど私は元気で、故郷は二度と手には戻らずそれでもなんとか前進してゆきてえよ、と浸り込んでみるけれどあまりにすずやキキの顔を思い出すことが多いので、もしかすると世間一般ではこれはオナニーではなく孤独って呼ばれるのかもしれない。

 

ピエールボナールのもったりと色彩豊かな世界に浸ってもろもろの創造力を回復する

国立新美術館の喫茶店は北欧ぽいの椅子(誰の作品だっけ?)が置いてあってかわいいね。黒革のチェアシートもモダンに調和的でいい感じ。つまらん人生なんて送っている暇はないのだよなあと痛感する。
ピエールボナールは1867年生まれ、だいたいは「ナビ派」と呼ばれる流派にぞくしていたらしく(しかし「ナビ派」というのは堅苦しい流儀というよりも人の出入りがけっこうあった、サークルみたいなものだったらしい)、昨年に三菱一号館美術館でもナビ派の展示がありましたわな。三菱一号館美術館の展示でも言われていたようにナビ派に属するピエールボナールもまた、はちゃめちゃに色彩を操り見えるものを切り取る。展示でも言われるが、彼の描写のスタイルは見たものを記憶してアトリエに戻り、記憶の中の現実と記憶の中の理想を行き来しながら描くものであったらしい。そうして生まれるピエールボナールの絵画は常に現実でありながら同時に理想であり、理想でありながら同時に現実である。ピエールボナールは誰もが経験しているが故に想起するノスタルジアを刺激しながら、誰もが経験し得なかったが故に想起するノスタルジアを提示する。日本画から学んだ、立体の都合の良い平面化・余白の活用といった描き方、そして自由に色彩を組み合わせ整えることから生まれる画面全体の快さは、相反する二種のノスタルジアをまとめて、見るものに染み付かせる。最後の「花咲くアーモンドの木」なんてエモすぎて、ちょっと泣きそうになったわな…。

全然ピエールボナールにもナビ派にも関係なくって今回の展示でなんとなく考えただけだったんだけど、「世界にはこんなにもいろいろなものがいろいろあるのにお前がただただ気づいてへんかっただけ!」ということを気づかせてくれたものに宮崎夏次系の漫画があるんだよな。彼女の漫画はストーリーの目線が向けられていない部分に対しても等しい熱量の筆致で描かれる。あー私の知らないところでこんなんなってたんですね、という。ピエールボナールの描く、昼食の様子、人の集まり、窓からの風景は、知っていたようで知らなかった/知らなかったようで知っていた景色が、けして退屈で惓んだものではなくもったりと居心地の良いところであったことを口を酸っぱくして告げているのだよ。

くーしかし美術の評ってのは難しいものですなあ、私の使う言葉の薄っぺらいことよ、、、私に美術の素養がないっつうか、「素養」などという言葉で逃げられないほど勉強してないからなんでしょうけど。美術館を回るたびに、「学ばねば」みたいな、教養に対するコンプレックスが炸裂することは炸裂自体が恥ずかしいわけですが、しかしよい絵を伸び伸びと見ることは心身ともに凝り固まったいらだちや屈折感をほぐす行いだと思いますので、週末はオシャレして美術館に行こっ。

ここは退屈なので、誰かが迎えに来るのを乞うよりとっとと飛び出してしまいたいとおもうことが多々ある

そういう感情をよくよく精査してみるとそうおもうのはたいていが生理前でまあ落ち着いて黒蜜でも舐めましょうやという話ではあるんだけど。人は自分でしてきた以上のものにめったな限りなりえないものだしいま自分が抱えるそういう感情でさえ自分がどうしようもなく築いてきたものであるのだからしょうがない。

わたくしのいま現在の日常はだいたい下記のような感じである。
まず朝起きる。アラームで設定していた時間よりたいてい早く起きる。シャワーを浴びる。朝シャン派だ。ルベルの、頭皮がすっきりするシャンプーを使って髪の毛を洗い、マジックソープで身体を清潔に洗い、古い角質を落とすためにコンランショップで買ったボディブラシも使う。仕上げに菊正宗の化粧水ホホバオイルでお肌をすべすべにする。朝ごはんには玄米とキヌアとわかめを炊き込んだものに納豆と卵を。
以下略。

こうやって書くと冗談かってくらいうざったい感じがむんむんと立ち込めるわけだけど実は仕事から帰ってきてからの時間はけっこう自堕落なのでいわゆるていねいな暮しとも言い切れないんだけど、まあそれはいいとして、こういう、なんとか自分の心とかを落ち着かせようと思ってなんとなくルーティンにしてきたものがけっきょくのところなんの効能も持たないときがある。
ていねいなんか忘れさって私は暮しにドーピングが欲しい。といってもむやみやたらに浪費する生活にも、そういうのにいちいち後ろめたさを感じて、とどのつまりは金が必要になる行く末を考え直してしまう自分の思考の癖にも嫌気がさして、そこで私がだいたい走るのは断捨離である。断捨離。こちらもまた、かっこわらい、とも思わんでもないんだけど、「お金を使う」わけではないその行為にやっぱり恍惚を覚えたりすることもある。最近は、生活の退屈レベルが上がってきたためかそれともただ知的に怠惰になっただけかはわからないけど断捨離の対象に、いままでならなかった書籍も上がるようになってきて、まあKindleのUXの向上と比例してどんどん自炊していこう!という気持ちで本をさばいていっている。
書籍持ちはお金持ち、それはもともと書籍が高価ということもあるんだけど、書籍は所蔵するスペースが必要になるし、スペースには土地代・家賃がかかる。引っ越しするとなると本のためにダンボールを10箱もよけいに頼まなくてはならないのはざらである。要するに、所有者が動くにしろ動かないにしろ、本を持つことには金がかかることなのだ。
私は本が好きだし、本を持つのも並べるのも、それに自分の自尊心を投影するのも好きだ。でもけっきょく、金を持たない人が本/モノを持つのならその人はその地に縛られるほかない。なにかを捨てるという行為は、私はけっきょくここにいなくたって生きていけると思い込ませることができる、最高のドーピングなのである。(いまは)ここにいたくないんだ!私は。だってここは退屈なんだし。誰かに迎えにきてほしいなんて甘っちょろいこといってらんないし、いつかここでないどこかに行くために私は粛々と本の背を切り開いている。

家族旅行みたいな、「幼児(期)は遠くなりにけり」みたいな感情

別にブログにするほどのことでもないんだけど、家族旅行をした。関東近郊を父母姉+姉の子ども(姪)で五人旅。姪が生まれてからはじめての旅行で二歳になってぜっさんイヤイヤ期の姪は行く先々でごねにごねてゴネゴネ、残暑もあいまって年齢もあいまって姪一人以外は全員げっそり。ま、「もう二度とむりー」とみんなが言いながらもけっこう楽しんだんだけどね。
姪はわたしの子じゃないけれど、彼女を見ると自分が「こうだったかもしれない」とおもうには十分だ。わたしの母いわくわたしはもーちょっとおとなしいというか幼稚園に入るくらいまで口がきけなかったらしくそのぶん楽であったらしいけれども、散らかす食事、おむつに炸裂するうんこ、ちなみにうんこはおむつにしたところでそのまま捨てると臭いので、うんこはトイレに流すんですよ!そりゃそうなんだけどね、えんえんに泣いて夜中もぶすぶす言ってる姿はまあ「子ども叱るな来た道だ」ともおもうってなもんで。
姪という新メンバーの加入で、まあ一応これも家族旅行だったわけだけれども私の四人家族とはまた違った様相で、我々四人は全員、父母姉含め全員大人に、老人になり、お互いにムキになったりもまあしながらも、ある程度の距離を、お互いにしっかりと定規を置くかのように、取りながら旅行をこなしていく。「全員が楽しめているかしら」と思いながら歩くディズニーランドは少し気配が違って見えて、私も老けたものだと、自分の昔をはるか遠くに思った。
父母姉は同じところに住んでいるので私が新幹線まで見送った。彼らに着いていきたいようなそうでもないような、マジでとっととマンションに帰ってしまいたいような、なんか手土産でも用意してやればよかったと、入場券を買って入り口まで着いていってやればよかったと、いうような。なんかね、生理前みたいな感情よ。無闇矢鱈滅多にせつないみたいな、せつないの押し売りみたいなよ。
私もそろそろ生殖家族をと思う切実さとは完璧に違っていて、心に残るそれは生殖家族欲しさではなくただ単に誂えられた「家族」を居心地よく享受したいというような。しかしこの家族と定位家族をもう一度繰り返すのはしんどいだろうなという確信ももちろんありながら。

改札で見送る私を振り返らずに新幹線に駆けていく三人と姪を見つめたときに心に残るそれはなんつうか、わたしが幼児からいまになるまでのどこかに、まあいい意味で、落としてきた「過去」みたいなやつで、それはすこやかに眠る姪と同じような顔をしている気がしたのだった。もしくは眠る姪をおだやかに取り囲む、かつて私にも確実に向けられていた(いまもきっと)、愛、みたいなやつと同じ匂いをしている気もする。

ま、せつないの理由は秋のかおりが日頃に強くなってるせいか。

全然よくわからないけど、それでも子育てのこととか

夏の終わりにちーとばかし旅行をして飛行機に乗る機会があったので飛行機と言えば観たいと思っていたけどほんとにシアターに行くまでにはちょっと腰が思いなって感じの微妙なクオリティの映画を観たりする時間なので、というわけで今回の旅行のフライトでは”Tully”を観た。邦題は「タリーと私の秘密の時間」っちゅう、まあなんちゅうか昨今の日本人の情けない言語センスをもろ反映したものでありますわ。日本語版トレーラーも日本人は情緒をすべて失ってしまったのかな?っちゅうくらいまあしょぼくれたものでありまして、「時間のない現代の女性に送るーー」とかそういうコピーが入る、なんかこう、日本の歴史が丹念に育んできた詩情とは一体?という感じだったのだが、(長くなりすぎた)、この映画は育児に関する映画で、私の周りで子育てをしはじめたのは姉とか、学歴的バッググラウンドをほぼ同じくする友人とか、というのがいて、彼女らを見ていると「子育て」とか「母であること」に否応なく過剰に反応するようになり、その流れでこの映画も観たいなと思っていたのだった。そう考えていたところでちょうど機内で見つけたので、行きのフライトで早速。
結論から言うと、ま〜じで、昨今の日本の映画プロモーションの表象的貧困さを呪うというか、少なくとも「時間のない女性」(だけ)に送る映画ではなく、できれば女性というより男性に観てほしい、すなおにいいと思える映画だった。と思う。

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あらすじとしては、二児の母親であるMarlo(Charlize Theronが演じている)が期待せずに三人目を妊娠・出産してしまい、育児・子育て・生活にほとんど殺されかける。夫は育児をまっっっっっっったく手伝わず、食事も作らずマーロが(忙しさから)冷凍ピザを用意すると、「冷凍ピザ?おいしそうだね」などと嫌味をぶちかます余裕すらあり、夜中はヘッドホン!!!をつけてゲームをし、帰宅後は赤ん坊を見て「かわいいね」などと抜かす、ようするに子育ての汚いところ、うんことかゲボとか、をまったく見ない男性であった。
そこに、なんじゃかんじゃ略で、マーロの兄がナイトシッター(夜だけ来るベビーシッター)を勧める。マーロは見知らぬ人間を家のなかにいれることを拒絶していたが、ある日の夜、タリーと名乗る若い女性が夜中にマーロを訪れる。で、このタリーはスーパーシッターで、マーロが説明せずとも、完璧な育児に加え、家事までこなしていく、という話。

この映画はけっこうギリギリ的な物語の上で成り立っているので、うかつに感想を話したりするとネタバレになりかねないので、ちょろっとした私の話だけ。上述のあらすじのところで私がめっちゃ力を込めて夫の育児のしなささを書いたことからもわかると思うんだけど、物語前半のワンオペ育児シーンはまじでちょっと悲惨である。世の中の母親が観たら「わかるわ〜」どころじゃなくてちょっとしたトラウマも思い起こしかねない。それでもマーロはなんとかこなしていくし、タリーが来てからはさらにその育児っぷりは順調に進んでいく。まあここからは以下略で、で、やっぱりここからはネタバレになりかねないのでまあ観る予定のない人だけ読んでほしいんだけど。

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平凡な家族の話をする平凡なブログエントリー

な〜んつうかさ仕事は忙しいっていうか生きる気力を失わせるんだよなあ、働き始めてからというものの土日はひたすらぼーっとしてる。というのも別にたぶん本当ではなくて、土日にひたすら人と会う予定を入れてしまってけっきょく自分のことは何もできずにいる感じ。
そういう感じで働きはじめて早三ヶ月が経っちゃった。映画を観に行くこともできず観たところでそれをいままでしていたように文章にすることもできずこんなんでよいのか人生感がひしひしと私の身体を押しつぶしていたわけであるがこの前「万引き家族」を観たらそういや四月から単発的に観ていた映画、「COCO」(邦題「リメンバー・ミー」)、「ラブレス」がどれも家族を取り上げた映画だったなあと思ってようやっとワードを開いたってなわけ。

でもさあ見たのは四月五月とかの話だからあんまり覚えてない、COCOはいまいちだった、「家族仲良くが一番サイコーだよね!」が押されてて、最近のひねったディズニー魂はどこ行っちゃったの?て感じ。

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家族は最高じゃない。ロシア映画の「ラブレス」は、離婚する二人の夫婦とその一人息子の話である。離婚する二人は円満離婚でもなんでもなく、月並みな表現だけれども顔を合わせれば喧嘩ばかり、妻は新しい男の前ではめかしこむけれども旦那の前ではジャージを着、携帯をずっといじっている。夫は自分が昔同じように妻を妊娠させたことをすっかり忘れ、その新しい女の腹には新しい命が宿っている。二人はそれぞれ自分の人生を新しくはじめたいと思っており、噴き出すその気持ちは「子どもの押し付け合い」となってあらわれる。「おまえが引き取ればいい」「おまえが」「おまえが」のやりとりを、息子は偶然聞いてしまう。そして翌日、息子は家に帰ってこなかった。その次の日も、次の日も。
ラブレスの大半は、この息子を探す時間である。そして息子を探す間の夫婦の殺伐としたやりとりの時間である。「けっきょく自分が一番大事」と言ってしまうのは簡単だけれども、自分が大事でありながらも、なにかに怯えるためか、それとも愛がまだ残るからか、夫婦は息子を探す。家族は最高じゃないけど、最高じゃないといって切れるほど簡単なものでもない。

血のつながり、実際には精液と卵子のつながりでしかないと、私は思うんだけど、なんだかそれがとてもすばらしいもののように、現代日本社会では絶賛されていて(映画の感想を書くのをさぼっていたら、いつの間にか『生産性はない』だのなんだの、の話が盛り上がっていて、女子として、産む可能性があるものとして、ああ私たちはいつになっても産む機械、とユーウツになってしまった)、「ラブレス」はそういう手放しの称賛を鼻で笑うかのようだった。

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「万引き家族」は血ではなく犯罪でつながる家族を描いたものだ。実は是枝監督は家族を描いたんじゃなくって日本の貧困や格差を正面から描いたつもりだったとインタビューで言っていたらしいけど、兎も角。ネタバレになっちゃうから書けないけど、けっきょく血のつながりがあってもなくても家族なんてものは弱くて、誰か一人が一方的にその存在を信じてたり、ようするにそんなつながりは片思いっていうか願いっていうか、もう片方とかその他大勢は別にそんなん気にしてなくって、その想いの不均衡さに安藤サクラみたいにちょっと泣けちゃうよ。(それよか私の大好きなケイトブランシェット様が安藤サクラが涙を流すシーンを絶賛したってね!最近は「百円の恋」も見たけど安藤サクラはまじですげー。犬養毅の曾孫というのもまじですげー。)

友人やら、兄弟やら、が家族形成をはじめるような年齢に私も差し掛かっていて、彼らの幸せそうだけどもどこか張り詰めた・張り詰めているけれども幸せが確実にある、様子を目の端で見ることが多くなった。ノンフィクションでもフィクションでも家族は壊れやすくもろく家族愛などという言葉ではごまかしきれない(から私はそれを避け続けているんだけど)んだけど、それでも彼らが生きてる世界においては義務感なり心のからの愛情であったりなんだりが彼らのぎりぎりの心情や命を救うことがあってほしいと心から願ってたまらん。

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わたくしたち女はいつまで経っても選ばれる側の人間なのだ

渋谷なんて物騒な街を歩いていた時のことなんだけど、友人とのディナーに遅れ気味でやや小走りで人混みをかきわけかきわけていたら明確に私のところに一人の男性がやってきて明確に私の顔というか目というかを見ながら「脚が太いね」と言って立ち去っていった。
いまなんつった?と思うためにはそれなりの脳味噌内での処理がいるってなもんで、そのときは「はあ」とか「まあ」みたいな感じでさっと流したんだけど次の信号待ちで明快に男性の言ったことを構成しているとやっぱりそれは「脚が太いね」なのであった。

そんなこともあるもんですねえ生きていると。と思ったら翌日友人と遊んでいたら友人が突然前日のデート相手の話をしだしてなんじゃらほいと聞いていたら「そいつに好きなタイプは?って聞かれてさ、マルマルさんはどうなんですかって先に言わせてみたら『脚が太い女の子』って言うんだよね、で、もうなんかいやになって帰っちゃった。」

その友人は働き始めてから知り合った人で、働き始めてからと言えば会社にもこういう人間が多くいる。「あの子がかわいい」だの「あいつはブス」だの。

私がこういう、あらゆる、外見に関する様々な批評を聞くたびに思うのはこういうタイプのことを言う人って「自分が選ぶ立場にいる」と信じてやまないのだよね。自分が選ぶ立場にいる。自分は批評できる立場にいる。しかもたいてい、その選好や批評基準というのがどーーーしようもない性的な事象をはじめとする外見の話であったりする。

こういう話、必ずしも男性とか女性の話ではない。ただ、会社で男性から女性の批評(「あの子はかわいい」「あいつはブス」)を聞くよりも女性から男性の批評(「あの人かっこいい」)を聞くほうが心がおだやかなのは、やっぱり女性みたいな存在が置かれてきた場所の歴史的地層が分厚すぎるからで。

だから必ずしも男性と女性の分断の話ではないんだろうけど、私はやっぱりこういう批評にかちあってしまうたびに、私はうるせえっおまえのちんぽも見せてみろやい!!!!!!!!と叫んでしまう。おまえのちんぽも見せてみろ!!!!!私がショートパンツから太い脚を晒すように、お前もそのジーパンの前チャックから細いちんぽを見せてみろ!!!!!と叫んでしまう、てか渋谷の野郎にも叫んでやればよかったんだけど。

女性のみなさん、よろしければ男性をおもっくそ選別してやりませんか?できれば、ちんぽの大きさで。私の場合はすでに男性はガンガンちんぽの大きさで選んでいる。なぜちんぽの大きさで男性を選ぶかといえば、ちんぽの大きさというのはまじで男性を傷つけることを知っているから。もう完全に死語だけれども男性の三高、高身長高収入高学歴をはじめとして、「高身長男性は巨乳の女性くらいめずらしい」言説も然り、男性が求められるあり方というのは、女が性的に(つまり純粋にまんことちんぽの関係において)欲情することを許しておらず(身長がどうセックスに影響するというの?)、同時に男性を性的に消費される対象になることから逃してやっている。誰が逃すかよ!私だって男性を選ぶ立場になりたいし、選ぶことで誰かを傷つけるその優位性を味わってみたい。まじで、私たちだって選ぶ立場でありたいよ、できれば選ぶ基準を、女にとってのおっぱいとか、スタイルとか、顔とか、それに準ずる、どうしようもないものでガンガン差別してやりてえ、背の高さなんてそんな甘っちょろいもんじゃなくてさ、「脚が太いね」と笑う人に対して「おまえのちんぽはほそっこいなあ」と言ってやる、そういう、人間の本質とは1mmも関係のないようなマジクソな基準を押し付ける、そういう立場になってみたい。男性の三高の一つの「高」は勃起した男性器の床からの高さを示すんです。で、あなたは高いんですか、どうなんですか。
というわけで、顔とかスタイルとかその前にどうぞ、男性器の大きさをどうぞ世の中にさらしてください。身長180センチoverの男性は女性で言えばFカップ!みたい甘っちょろいこと言う前にどうぞ、女性のFカップで言うところの男性器の大きさをぜひ教えてください。女性の脚も顔もおっぱいも厳密には「性器」でないのだから不平等だ、というのならわたしも自分のまんこのサイズを、この、親指と人差し指をくっつけるオッケーマークにて、指し示しますので!

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※このエントリはすべてジョークです