ピエールボナールのもったりと色彩豊かな世界に浸ってもろもろの創造力を回復する

国立新美術館の喫茶店は北欧ぽいの椅子(誰の作品だっけ?)が置いてあってかわいいね。黒革のチェアシートもモダンに調和的でいい感じ。つまらん人生なんて送っている暇はないのだよなあと痛感する。
ピエールボナールは1867年生まれ、だいたいは「ナビ派」と呼ばれる流派にぞくしていたらしく(しかし「ナビ派」というのは堅苦しい流儀というよりも人の出入りがけっこうあった、サークルみたいなものだったらしい)、昨年に三菱一号館美術館でもナビ派の展示がありましたわな。三菱一号館美術館の展示でも言われていたようにナビ派に属するピエールボナールもまた、はちゃめちゃに色彩を操り見えるものを切り取る。展示でも言われるが、彼の描写のスタイルは見たものを記憶してアトリエに戻り、記憶の中の現実と記憶の中の理想を行き来しながら描くものであったらしい。そうして生まれるピエールボナールの絵画は常に現実でありながら同時に理想であり、理想でありながら同時に現実である。ピエールボナールは誰もが経験しているが故に想起するノスタルジアを刺激しながら、誰もが経験し得なかったが故に想起するノスタルジアを提示する。日本画から学んだ、立体の都合の良い平面化・余白の活用といった描き方、そして自由に色彩を組み合わせ整えることから生まれる画面全体の快さは、相反する二種のノスタルジアをまとめて、見るものに染み付かせる。最後の「花咲くアーモンドの木」なんてエモすぎて、ちょっと泣きそうになったわな…。

全然ピエールボナールにもナビ派にも関係なくって今回の展示でなんとなく考えただけだったんだけど、「世界にはこんなにもいろいろなものがいろいろあるのにお前がただただ気づいてへんかっただけ!」ということを気づかせてくれたものに宮崎夏次系の漫画があるんだよな。彼女の漫画はストーリーの目線が向けられていない部分に対しても等しい熱量の筆致で描かれる。あー私の知らないところでこんなんなってたんですね、という。ピエールボナールの描く、昼食の様子、人の集まり、窓からの風景は、知っていたようで知らなかった/知らなかったようで知っていた景色が、けして退屈で惓んだものではなくもったりと居心地の良いところであったことを口を酸っぱくして告げているのだよ。

くーしかし美術の評ってのは難しいものですなあ、私の使う言葉の薄っぺらいことよ、、、私に美術の素養がないっつうか、「素養」などという言葉で逃げられないほど勉強してないからなんでしょうけど。美術館を回るたびに、「学ばねば」みたいな、教養に対するコンプレックスが炸裂することは炸裂自体が恥ずかしいわけですが、しかしよい絵を伸び伸びと見ることは心身ともに凝り固まったいらだちや屈折感をほぐす行いだと思いますので、週末はオシャレして美術館に行こっ。