暇と退屈の現代学

ようやく國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読んだ。周りには「去年はやったよね〜」つっていたがよくよく中身を読むと2011年らしく普通に恥ずかしい。10年以上前の本じゃんよ。

 

 

 「暇」とは何か。人間はいつから「退屈」しているのだろうか。答えに辿り着けない人生の問いと対峙するとき、哲学は大きな助けとなる。著者の導きでスピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーなど先人たちの叡智を読み解けば、知の樹海で思索する喜びを発見するだろう――現代の消費社会において気晴らしと退屈が抱える問題点を鋭く指摘したベストセラー、あとがきを加えて待望の文庫化。

とのこと。(新潮社

私は、働きはじめてから、そしてきっとスマートフォンを手に入れてから、なんだかずっと「忙しいけど暇」な感じが続いていた。労働は忙しいけどいつまで経っても「成長」は訪れず「成長」というより「慣れ」や「トレーニング」というような感じがするし、スマホは私にはイノベーションをもたらさずにただただ140字の、凡人が綴ったつまらない文と芸能人崩れの中途半端な男女を目に流し込んでいるだけで。そういう生活をすでに5、6年、続けているものだからそろそろ何かを変えたいと素朴にも思っていたところだった。

この本は、暇とは何か、退屈とは何か、そしてそれといかにして向き合うべきか、ということについて哲学者の稿を集めながらその思索自体を提供する本である。思索自体を提供しているので、筆者は結果自体を抽出し共有されることに慎重である。それをわかった上で、必要なので、この本における結論をまず書くと、まあよくある話で「人生のいっときいっときを味わい尽くしましょうね」という話なのだった。まあなんか本当に、コロンブスの卵的といえばいいのか、いやそれよりももっと素朴に、「まあそうだってわかってたけどね」みたいな、その答えは本のページの裏側にうっすらとずっと見えてたよ、みたいな。

筆者はそれをわかっていて、「以下の結論だけを読んだ読者は間違いなく幻滅するであろう」(文庫版p394)と述べ、本の楽しみ自体が「論述との付き合い方を読者自体が発見していく過程である」(文庫版p393)ことを例にあげながら、「「暇と退屈」に対する処方」それ自体もまた思索をしながら理解をしていくことがまず一つ目の処方であると述べる。ではじゃあその思索自体がおもろかったかと聞かれると、確かに冒頭の西田正規の「定住革命」の話だとか、ユクスキュル、ハイデッガーの「環世界」の話は、世界の(私にとっては)新しい見方について提示してくれて新鮮味はあった。

が、一方で、(これも私にとっては、だが)どうしてもこういった哲学書については、筆者自らの構成のために、過去の哲学者たちの言葉を我田引水的に引用し構築し集積しているだけのような気がしないでもない。たとえばハイデガーなんかはその退屈論について多く引用され一部徹底的に批判されているわけだが、しかし別にハイデガーの哲学のテーマが退屈論であったわけではないし、退屈論が書かれている『形而上学の根本諸概念』もハイデガーがそれこそ退屈まぎれに話した適当な話かもしれないし(私はハイデガー研究者じゃないのでわからんけど)、そういった哲学史・ハイデガー史上の文脈がわからないまま話を引いてきて「ハイデガーは退屈についてこう語っていました」と言われても、偉大な哲学者は墓は荒らされることはないにしても本になったものというのは散々引っ張られて引用者の田んぼへと引かれてしまうのだなと思ってしまう。でも単純に私の哲学書経験値が低いだけかもしれないのは確かではある。アレントによるマルクスの誤読を指摘したのは本質的な批判という感じがして良かった。

と、私もわりとツッコミを書いてしまっているが、しかし正直な読後感は、しみじみとした(良い)気持ちにもなったのだ。上記の通り、結論は平凡凡としているが、確かに人間の生に対しては、刺激とそれに対する定住(慣れ)を繰り返すことで我々は生自体に倦むことを避けられる。「刺激」というのは何も突拍子もない奇行のことではなく、誰かの「環世界」を知りそこに入り込んでいくことであり、それは素朴だけれども確実に充実感が得られる行為であることも経験値上知っている。

読後感はそういった良い気持ちになれたのに、しかしなぜ冒頭からうだうだ文句ばかりつけていたかといえば、なんとなくこの結論の話というのはいまの、2023年の、働きづめでスマートフォンアプリを持っている我々にはもう通用されないだろうなと、仕事で疲れ果ててベッドに寝転んで、しかしそのくせしょうもないパズルゲームを解きながら思うからだ。

この本では、ハイデガーを引用しながら暇と退屈のいくつかの形式について語っている。

第一形式:暇があり退屈している状態。電車を待っている時間など。

第二形式:暇じゃないけどなんか退屈している状態。パーティの時間など。

第三形式:よくわかんないけどなんとなく退屈だの状態。

人間はおおむね第二形式の退屈を経験しながら、ふとしたきっかけに第一・第三形式へ移動し、どちらか一方に留まってしまうことが「奴隷」になるような悲劇的な瞬間だと述べる(文庫版p371)。これ自体の分析は面白いのだが、果たして実際に我々の人生がこの往復運動にあるかというと、往復運動というよりは自分の人生の中ですべての形式がパラレルに発生していると私は考える。

私の場合、第一=第三形式は労働・仕事そのものである(まあ、暇じゃないから第二形式といえるのかもしれないが、第二形式の特徴たる「気晴らし」を満たしていない)。第二形式はそれこそ飲み会のときとか、まあもしかするとパズルゲームをやってるときなんかもそうなのかもしれない。私の人生の中で、さまざまな暇と退屈の諸形態が乱立し、同時並行で動いている。

同時並行で動くと、私はもう身動きが取れないような感じがする。仕事は忙しいけど、しかし忙しさの中の「対処」自体は慣れきっているもので、忙しない。けど夢中になるほどではない。では仕事の中で、この本が示すような、「楽しむことと思索すること」をする余裕と意欲があるかと問われると、別にない。では「楽しむことと思索すること」を何を通して実現するか?うーん、疲れているのでとりあえず気晴らしがしたい。

…こう書いていると、いろいろ書き連ねているが、まあ単純に「忙しくって疲れてて環世界の移動を楽しむ余裕、ないっす」ってことなのかもしれない。労働がすべて悪いのか。そう思うと最後にこの本の結部でマルクスの「労働日の短縮」について触れていたのは、読者の「忙しくってそんなん無理っす」というアンチテーゼへの答えをもここでは用意していたって、、、こと!?

と思わずちいかわが出てしまったけど、しかしこの本が書かれたのは2011年とのことだから、次のことはやはり見越せていなかったのではないか。それは結局スマートフォンが登場して以降、人間の「気晴らし」のレパートリーは格段に増えて(しょうもなNetflixドラマ、しょうもなパズルゲーム、しょうもなSNS)、退屈と向き合うことがむしろ稀になってしまったということだ。私たちはもはや、決断することもなく、また環世界を味わい移動することもなく、大した理由もなくただただ脳死で何かをするのが得意になってしまったし、それに対してスマートフォンはほどよい達成感と報酬(インプレッション、達成感、いいね!)を与えてくれる。もう私たちにとって退屈は大きな問題では。本当はずっと退屈しているのだが、まぎらわせることができてしまう。私はそうして何かから目を逸らし続けている。

唐突な話をするが、私はこのブログをもう10年近くやっているのだが、いまだにブログのタイトルが決まらない(こういうところがおそらく私の文才のなさを示しているのだろうなと思う)。2023年11月いまのところの仮題は「会いたい誰かがいるでもないが」になっていて、かつてこのあとには「一人でいるにはつまらない」と続いていた。

「会いたい誰かがいるでもないが一人でいるにはつまらない」。これはまさに「暇で何かする余裕があるけど退屈」とか、「いまの気晴らしでは飽きている」とかいうような、私の「待ち構えること」への希求を示す言葉だったのだなと気づいたのだが、でも結局この寂寥と向き合い掘り下げることは出来ていない。掘り下げることの一つの答えが私にとっては文章を書くことなんだと思ってこのブログを立ち上げたのだが、それでもなんとなくうら寂しい日はWordファイルではなくツイッターとLINEを開いてしまう。新しい映画や本に触れるという環世界体験はもはや私には過重労働だし。輝くいいね!が、なんか意味のあることをしているような気にもしてくれるし。労働と電子機器に取り込まれていくのは動物的というよりはむしろ人間的なのであるというのはこの本を読んだからこそわかる皮肉だね。私の心の強度はすっかり弱まっている。