5月

きっと6月を過ぎる頃には「もう2021年も半分が終わったなあ」などと思うのだろうな。積み上げ式に人生を考えているとあっという間におっちんでしまいそう。月ごとに目標を立てて成果を書こう、などと5月の頭は思っていたのだがまた無計画に本を読んだりしているうちに5月が終わる。

謎SF
「『三体』はすごいし、テッド・チャンやケン・リュウとか中国系アメリカ人作家もすごいですけど、まだまだあるんですよ、中国SF。
と、小島ケイタニーラブ君は言った。」(p1)
まじかー、『三体』すら積ん読状態の私。読んでない本や読みたい本が山程あるのになぜか私は今年Cava bookの配本サブスクを頼んでしまった(厳密にはサブスクではなく1回支払いで、その後6ヶ月?1年?[わすれた]に亘って単行本が届く)。その1冊目として届いたのがこの『謎SF』である。柴田元幸と小島敬太による編訳で、それぞれがアメリカ、中国のSF的な短編を翻訳している。まあ案の定、こちらの本も2、3ヶ月積んでいたわけだが。
読了後の素直な感想は「まあおもしろいのもあったけど普通かな」という程度。中国側の短編は、巻末の編訳者対談で見事に看破されていたが、「未来への希望が前提としてある」ようで、短編としてのひねりや深みを感じることができなかった。特に王諾諾の作品はデビューが若いこともあってかその傾向を強く感じた。
(90年代以降、中国SFの作家はデビューした年代別に世代呼称が分かれる。
新生代[91-00年]←『三体』の作者はここ
更新代[01-10年]
全新代[11-20年]←うーんと思った王諾諾はここ)
一方でShakeSpace(更新代)の「マーおばさん」はひとさじの切なさもあって面白い。

アメリカ側はヴァンダナ・シンが良かったかな。SF的な暗さもある。他のはなんというか、ストーリーに抑揚がないし感情だけで書いている印象を受けてあまり楽しめなかった。

というか私はそもそも現代作家の短編集があまり好きでないかもしれないなと思い始めてきた。『掃除婦のための手引書』(ルシア・ベルリン、1936-2004)もおもしろく読めなくて…。短編の中で、単に情景がきれいなだけではない、起伏と説得力のあるストーリーを作り上げることの難しさを感じるし、また読み取ることも難しいのだろうな。

 

RBG
泣いた〜〜〜。かなり長いことNetflixのウォッチリストに入っていたのだが、去年の訃報を聞いて、見なきゃ見なきゃと思っていて、ようやく見た。仮に高校1年生のときにこの映画を観たら確実に東大文Ⅰを目指したと思う。まあそれはさておき。愛すること、仕事をすること、正しいと思うことに情熱と時間と命を捧げること、愛されること、…。繰り広げられるすべてがおっしゃるとおりで、そしていまの私の状況と人生を振り返らせる。40年近くも前に発せられた「性差別は万人を傷つける」というフレーズがいまの時代でも鋼の真実として光を放つ。
一つ外在的な要求をするとすれば、おそらく彼女が自身を「一番のリベラルではなかった」と称すように、彼女も色々とヘマをこいたり、自身の信念よりもバランシングを重視した瞬間はあったのだと思う。その瞬間を切り取ってほしかったという気持ちがある。最後の、ドナルド・トランプへの軽率な発言はその一部だと思うが…まさかそれ以外になかったとでもいうのだろうか?(と、ふっかけてはいるものの、私は彼女のアメリカでの功績を詳しく知っているわけではない。)
一方で個人的にアメリカや世界の状況としてこの映画でも危惧したことがある。リベラルであれ保守であれ(この例示法が正しいかはわからないが。右翼であれ左翼であれ。女であれ男であれ。etc.)、政治や政治にかかわるものをコンテンツとして消費したがる傾向は何なのだろうね?この映画でいえば具体的には彼女がラッパーからもじられてNotorious RBGと呼ばれていたり、それに関係するコラが多数作られていたり。

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すげえ真剣に探しちゃったよ

 私個人に、政治的な正しさについてジャッジする資格はもちろんないのだが、結局こうやって、すばらしい業績も愚かな判断も大喜利やミームの道具にされるだけで、言葉を通じた判断を行わないままにされ、そしてそれを他ならぬ国民が主導してしまうのであれば政治の堕落は免れないのでは。もちろんルース自身はすばらしい功績をあげたのだし、こうした消費が彼女の功績を伝えていくことに異論はないが、果たしてその先にある思考停止についてどこまで意識しているものなのか。パンケーキ好きで可愛い!と国民がはしゃぎ、その政治手腕や着任の経緯など議論しないままでいるこの国と同じなんじゃないかな。

ルース・ベイダー・ギンズバーグ自身は法律家であったからこそそうだったのであるが、私たち自身も、なるべく言葉を尽くし議論を組み立てなければならない。そのための訓練をさぼらずに行えているのか、私自身も省みるところがある。

昨今の状況もあるから(オリンピックまじでやるの?)なんだか薄暗い感じになってしまったが、それと並行して私は自分の愛するものに命を捧げなければならない、と感じたことに変わりない。(が、いつまでもやっていることはそれとは違うのだが…。)

 

と、このペースで書いていると毎回膨大な分量になってしまうなと思って放置していたら月末を迎えてしまった。(ゆうて一作品あたり1000字なので大学生の小レポート感。)

5月は他には、同じくCava books4月配本の『消失の惑星(ほし)』5月配本の『ファットガールをめぐる13の物語』、などを読んだ。どちらもそれなりに良かった。『消失の惑星』のほうは全米図書館賞のショートリストにも入っていたようだが、「そこにもともといるわけではない人」がその土地のことを描くという点で、ミン・ジン・リー『パチンコ』や柳美里『JR上野駅公園口』などとつながっていった。美術館は緊急事態宣言で閉まってしまっていたがズルをして神奈川県立近代美術館葉山に行って彫刻を鑑賞するなどした。この彫刻展はけっこうよくて、ただ自分のものの知らなさにほとほとがっかりした経験でもあったので改めて書きたい。ネトフリはThe Mitchells vs the Machinesを観てかなり良かった!スパイダーマン・イントゥー・ザ・スパイダーバースと同じく脚本はけっこう退屈ですらあるのだが、退屈な脚本でもきっちり伏線を回収し感情の「型」に埋めていく、パワーと遊び心のある絵&画で観るほうをきっちり夢中にさせる職人技に見入った。いったいいくらかかってんのぉ…。技術と才能に投資を惜しまないネトフリの姿にしびれる。ああ、あと本では『52ヘルツのクジラたち』を読んだのだが正直これは怒り&ぞっと新党だったので、これもまた改めて感想を書きたい。加えて仕事用の本をちらほらと。

 しかしまあ、こうして読むと、はしゃいだ旅行客が皿に盛るホテルの朝食ビュッフェのようにおぞましいつまみ食いスタイルになっており、5月の中盤からは薄々そういう自分の読書を反省するなどしていた。私はけっきょく研究には向いてはおらず、体系化された知識など一つも芽生えていないのだ…というような。よって6月以降はまとまった冊数を選書するような気持ちで、手に取るものからもう少し厳しく見極めていきたいと思っているのだが、早速本日は芝健介『ホロコースト』を読んだところ。これはたまたま大手町のくまざわ書店で中公新書フェアをやっていて、面白そうだと思って手にとったのだった…(本の内容自体はとても素晴らしかった)。しかしじゃあ戦争犯罪を中心に本を選んでいく?と思ったのだが、結局そうなってしまうと研究者の知にはかなわないわけで。最近の私は仕事がなくて幾分暇なので、自分の知識や世界に対する貢献のあり方というものに関してもうちょっと迷走を続けるんだろうが、インプットがある分すこしの安心感を覚えている、そういう積み上げの日々に甘えた5月だった。