解放、灯り

 新型肺炎に関するもろもろの山が劇的に谷のごとく激減し、街の店店は恐る恐る二年前までの活気を取り戻そうとしている。

 私は仕事終わりに週二回でジムに行く。大体夜7時くらいに仕事に目処をつけてジムに向かい、1時間くらい運動するので帰ってくるのが夜8時9時ほど。この前ジムから帰るとき、その帰り道を捉えた私の眼前に多くの光が灯っていることに気づいた。ずっと休業していたカラオケスナック、昼しか営業していなかったさびれた寿司屋、ひからびたケーキをいつもショーケースに入れている喫茶店、そういったものの看板、ネオン、けばけばしい色使い、が日暮れの早くなった初秋の街に灯り始めた。ああそういえばここにこんな店があったんだ…、客の入り自体がどうなっているかは知らないが、少なくとも人々は回復のためのスイッチをようやく入れつつある。

 話は急に変わるが、『この世界の片隅に』の映画のラストシーンで、玉音放送のあと、みなで白米を食べるときに家族のお父さんが「せっかくの白米なんだから明るくして食べよう」と言って電球を覆っていた黒い布を取り外すシーンがある。そこからカメラは呉の街全体に移って、同じやりとりがあったらしい他の家の灯りも外に漏れ出し、ぽぽぽぽぽと光が生まれていく。すごく「演出」じみたシーンではあるが同時にしかし灯篭流しのようにも見えるその光は紛れもなく解放の象徴だった。

 素朴にも、灯りは文明の象徴で、人々の生活そのもので、この二年間その灯りはずっと覆い隠されていたのだった。忘れていた場所の見慣れぬ光を目の端で数えながらそういったことを考えた。