パンデミック時代に愛 - 前哨戦

皆様。ご機嫌麗しゅう?気づいたら最終更新から三ヶ月も経っていたが自身の実感としては半年くらい経っているような気がして、どいつもこいつもパンデミックのせいなのよ。『パンデミック時代に愛』なるブログ記事を書こう書こうと思っているうちに月日は流れ、明けきらない梅雨の中、低気圧に揉まれながらつまらない仕事ばかりしていました。「変わる変わる世界は変わる」と世界ではシュプレヒコールが凄まじいですが、そういったすさまじい主張も四ヶ月ほどただ続いただけというのが私の実感で、勤め先の会社も無事、出勤という悪しき習慣に収まっていったので、とどのつまりは主張しただけ・ウイルスに乗っかっただけ、それだけでは人の振る舞い、社会のシステムは変わらないのだよっと怒りちらしている。
とはいうものの、私の中で感じ方(繊細さ)への様々な変化はあったのだ。例えば体型やそれにまつわるワークアウトライフスタイルの変化が一番大きい。要するに、食べたものが自分だし、動いたものが自分で、「こういう身体になりたい」とコントロールしながら行う食・運動は全然健全じゃないのかも、と思い直すようになった。この点については私の、というよりおそらく日本の女性の、というよりもしかすると全宇宙の女性が女性として生まれた以上、手を出さざるを得ない「ダイエット」という営み…について最初からの説明をしたいと思うから、それはまたの機会に。パンデミックを通して他に変わったこと言えば、うーん、出勤はどう計算したって時間の無駄だと気づいたし、外に出かけない週末は居心地がかなり良い、というか東京はソーシャルディスタンシングの前に人と建物が多すぎてごみごみしている、まあそれが文化の多さにつながるんだけど。飲み会をしないことでお金がちょこっとずつ貯まりつつあるので貯金って簡単なことだったんだなと気づいたり、外出しなくなったとしても文明人は服を買うのでこの脳みそはもうアホやと諦めた、良い住まいというのは大切だけど机についての話で、高さ標準70-75cmの机は私の身体にとっては全然良い住まいを構成するものではなく60cmくらいの高さの机を探しているのだがなかなか見つからず、明治維新後続く日本人の文字通りの背伸びを考えた。等等。
パンデミック時代の愛として、家ではもっぱら映画を見ていて、ポン・ジュノ『パラサイト』に続けて韓国映画を観ている。胃もたれしそうなほどの家族関係と政治への問いかけは緩んだ下腹部にぶちこまれた拳のような刺激があって、いや、年に一、二回行く海外旅行先で食べる壮絶な甘さの砂糖がけケーキのような刺激があっていわば病みつきになるのである。病みつきといえばタランティーノをようやくまとめて観始めた。タランティーノの映画は彼なりの情緒の浄化があり、人はたくさん死ぬし酷いけど見ていて嬉しさ・安心感を覚えるのだ…。これもまた病みつき。このことをこのブログで書いたかは忘れたが、昔好きだった男がタランティーノが好きで、嫌、好きだったかは知らんが、彼いわく、思春期にタランティーノを映画館で見て衝撃を受けてそこから何年かに一本しか出さない彼の作品を心待ちにしているとのことだった。私がその男のことを好きだったのはちょうど『ヘイトフル・エイト』がやってた時期で…ということがOnce upon a time in Hollywoodを昨年観に行った理由だった。二十代前半の色恋は炭酸水のようでいいね。幸いなことにタランティーノの映画はネトフリやアマゾンプライム、もしくはアマゾンで数百円払えば揃っている。あとは1994年、1997年、2003年、2004年の映画が残っている。今年見きっちゃうこともできるのだろうが、私の情緒はそうはさせないね。
パンデミック時代前の愛としては美術館にもわりと行っていたつもりだったんだけど、これは再開してからもまだ行けていない。事前予約というのが面倒すぎる。といっても映画館も事前予約のようなものなのに美術館側をサボっているのは積極的に一枚一枚考えなければ物事が進まない美術鑑賞にやや疲れを見せているのだと思う。
戻ってパンデミック時代の愛、これは長編小説だろうな。大学時代に一度読んだロシア文学をまとめて読み返し、そのときにはわからなかった人間の卑小さと、その卑小さを体現する偉大さを読み取ることになった。BLM関連で『ブラックボーイ』も再読したのだが、このあたりの話もまた別の機会に書こう…として、前哨戦としての本日の記事はここまで。