ここは退屈なので、誰かが迎えに来るのを乞うよりとっとと飛び出してしまいたいとおもうことが多々ある

そういう感情をよくよく精査してみるとそうおもうのはたいていが生理前でまあ落ち着いて黒蜜でも舐めましょうやという話ではあるんだけど。人は自分でしてきた以上のものにめったな限りなりえないものだしいま自分が抱えるそういう感情でさえ自分がどうしようもなく築いてきたものであるのだからしょうがない。

わたくしのいま現在の日常はだいたい下記のような感じである。
まず朝起きる。アラームで設定していた時間よりたいてい早く起きる。シャワーを浴びる。朝シャン派だ。ルベルの、頭皮がすっきりするシャンプーを使って髪の毛を洗い、マジックソープで身体を清潔に洗い、古い角質を落とすためにコンランショップで買ったボディブラシも使う。仕上げに菊正宗の化粧水ホホバオイルでお肌をすべすべにする。朝ごはんには玄米とキヌアとわかめを炊き込んだものに納豆と卵を。
以下略。

こうやって書くと冗談かってくらいうざったい感じがむんむんと立ち込めるわけだけど実は仕事から帰ってきてからの時間はけっこう自堕落なのでいわゆるていねいな暮しとも言い切れないんだけど、まあそれはいいとして、こういう、なんとか自分の心とかを落ち着かせようと思ってなんとなくルーティンにしてきたものがけっきょくのところなんの効能も持たないときがある。
ていねいなんか忘れさって私は暮しにドーピングが欲しい。といってもむやみやたらに浪費する生活にも、そういうのにいちいち後ろめたさを感じて、とどのつまりは金が必要になる行く末を考え直してしまう自分の思考の癖にも嫌気がさして、そこで私がだいたい走るのは断捨離である。断捨離。こちらもまた、かっこわらい、とも思わんでもないんだけど、「お金を使う」わけではないその行為にやっぱり恍惚を覚えたりすることもある。最近は、生活の退屈レベルが上がってきたためかそれともただ知的に怠惰になっただけかはわからないけど断捨離の対象に、いままでならなかった書籍も上がるようになってきて、まあKindleのUXの向上と比例してどんどん自炊していこう!という気持ちで本をさばいていっている。
書籍持ちはお金持ち、それはもともと書籍が高価ということもあるんだけど、書籍は所蔵するスペースが必要になるし、スペースには土地代・家賃がかかる。引っ越しするとなると本のためにダンボールを10箱もよけいに頼まなくてはならないのはざらである。要するに、所有者が動くにしろ動かないにしろ、本を持つことには金がかかることなのだ。
私は本が好きだし、本を持つのも並べるのも、それに自分の自尊心を投影するのも好きだ。でもけっきょく、金を持たない人が本/モノを持つのならその人はその地に縛られるほかない。なにかを捨てるという行為は、私はけっきょくここにいなくたって生きていけると思い込ませることができる、最高のドーピングなのである。(いまは)ここにいたくないんだ!私は。だってここは退屈なんだし。誰かに迎えにきてほしいなんて甘っちょろいこといってらんないし、いつかここでないどこかに行くために私は粛々と本の背を切り開いている。

家族旅行みたいな、「幼児(期)は遠くなりにけり」みたいな感情

別にブログにするほどのことでもないんだけど、家族旅行をした。関東近郊を父母姉+姉の子ども(姪)で五人旅。姪が生まれてからはじめての旅行で二歳になってぜっさんイヤイヤ期の姪は行く先々でごねにごねてゴネゴネ、残暑もあいまって年齢もあいまって姪一人以外は全員げっそり。ま、「もう二度とむりー」とみんなが言いながらもけっこう楽しんだんだけどね。
姪はわたしの子じゃないけれど、彼女を見ると自分が「こうだったかもしれない」とおもうには十分だ。わたしの母いわくわたしはもーちょっとおとなしいというか幼稚園に入るくらいまで口がきけなかったらしくそのぶん楽であったらしいけれども、散らかす食事、おむつに炸裂するうんこ、ちなみにうんこはおむつにしたところでそのまま捨てると臭いので、うんこはトイレに流すんですよ!そりゃそうなんだけどね、えんえんに泣いて夜中もぶすぶす言ってる姿はまあ「子ども叱るな来た道だ」ともおもうってなもんで。
姪という新メンバーの加入で、まあ一応これも家族旅行だったわけだけれども私の四人家族とはまた違った様相で、我々四人は全員、父母姉含め全員大人に、老人になり、お互いにムキになったりもまあしながらも、ある程度の距離を、お互いにしっかりと定規を置くかのように、取りながら旅行をこなしていく。「全員が楽しめているかしら」と思いながら歩くディズニーランドは少し気配が違って見えて、私も老けたものだと、自分の昔をはるか遠くに思った。
父母姉は同じところに住んでいるので私が新幹線まで見送った。彼らに着いていきたいようなそうでもないような、マジでとっととマンションに帰ってしまいたいような、なんか手土産でも用意してやればよかったと、入場券を買って入り口まで着いていってやればよかったと、いうような。なんかね、生理前みたいな感情よ。無闇矢鱈滅多にせつないみたいな、せつないの押し売りみたいなよ。
私もそろそろ生殖家族をと思う切実さとは完璧に違っていて、心に残るそれは生殖家族欲しさではなくただ単に誂えられた「家族」を居心地よく享受したいというような。しかしこの家族と定位家族をもう一度繰り返すのはしんどいだろうなという確信ももちろんありながら。

改札で見送る私を振り返らずに新幹線に駆けていく三人と姪を見つめたときに心に残るそれはなんつうか、わたしが幼児からいまになるまでのどこかに、まあいい意味で、落としてきた「過去」みたいなやつで、それはすこやかに眠る姪と同じような顔をしている気がしたのだった。もしくは眠る姪をおだやかに取り囲む、かつて私にも確実に向けられていた(いまもきっと)、愛、みたいなやつと同じ匂いをしている気もする。

ま、せつないの理由は秋のかおりが日頃に強くなってるせいか。

全然よくわからないけど、それでも子育てのこととか

夏の終わりにちーとばかし旅行をして飛行機に乗る機会があったので飛行機と言えば観たいと思っていたけどほんとにシアターに行くまでにはちょっと腰が思いなって感じの微妙なクオリティの映画を観たりする時間なので、というわけで今回の旅行のフライトでは”Tully”を観た。邦題は「タリーと私の秘密の時間」っちゅう、まあなんちゅうか昨今の日本人の情けない言語センスをもろ反映したものでありますわ。日本語版トレーラーも日本人は情緒をすべて失ってしまったのかな?っちゅうくらいまあしょぼくれたものでありまして、「時間のない現代の女性に送るーー」とかそういうコピーが入る、なんかこう、日本の歴史が丹念に育んできた詩情とは一体?という感じだったのだが、(長くなりすぎた)、この映画は育児に関する映画で、私の周りで子育てをしはじめたのは姉とか、学歴的バッググラウンドをほぼ同じくする友人とか、というのがいて、彼女らを見ていると「子育て」とか「母であること」に否応なく過剰に反応するようになり、その流れでこの映画も観たいなと思っていたのだった。そう考えていたところでちょうど機内で見つけたので、行きのフライトで早速。
結論から言うと、ま〜じで、昨今の日本の映画プロモーションの表象的貧困さを呪うというか、少なくとも「時間のない女性」(だけ)に送る映画ではなく、できれば女性というより男性に観てほしい、すなおにいいと思える映画だった。と思う。

「tully」の画像検索結果

あらすじとしては、二児の母親であるMarlo(Charlize Theronが演じている)が期待せずに三人目を妊娠・出産してしまい、育児・子育て・生活にほとんど殺されかける。夫は育児をまっっっっっっったく手伝わず、食事も作らずマーロが(忙しさから)冷凍ピザを用意すると、「冷凍ピザ?おいしそうだね」などと嫌味をぶちかます余裕すらあり、夜中はヘッドホン!!!をつけてゲームをし、帰宅後は赤ん坊を見て「かわいいね」などと抜かす、ようするに子育ての汚いところ、うんことかゲボとか、をまったく見ない男性であった。
そこに、なんじゃかんじゃ略で、マーロの兄がナイトシッター(夜だけ来るベビーシッター)を勧める。マーロは見知らぬ人間を家のなかにいれることを拒絶していたが、ある日の夜、タリーと名乗る若い女性が夜中にマーロを訪れる。で、このタリーはスーパーシッターで、マーロが説明せずとも、完璧な育児に加え、家事までこなしていく、という話。

この映画はけっこうギリギリ的な物語の上で成り立っているので、うかつに感想を話したりするとネタバレになりかねないので、ちょろっとした私の話だけ。上述のあらすじのところで私がめっちゃ力を込めて夫の育児のしなささを書いたことからもわかると思うんだけど、物語前半のワンオペ育児シーンはまじでちょっと悲惨である。世の中の母親が観たら「わかるわ〜」どころじゃなくてちょっとしたトラウマも思い起こしかねない。それでもマーロはなんとかこなしていくし、タリーが来てからはさらにその育児っぷりは順調に進んでいく。まあここからは以下略で、で、やっぱりここからはネタバレになりかねないのでまあ観る予定のない人だけ読んでほしいんだけど。

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平凡な家族の話をする平凡なブログエントリー

な〜んつうかさ仕事は忙しいっていうか生きる気力を失わせるんだよなあ、働き始めてからというものの土日はひたすらぼーっとしてる。というのも別にたぶん本当ではなくて、土日にひたすら人と会う予定を入れてしまってけっきょく自分のことは何もできずにいる感じ。
そういう感じで働きはじめて早三ヶ月が経っちゃった。映画を観に行くこともできず観たところでそれをいままでしていたように文章にすることもできずこんなんでよいのか人生感がひしひしと私の身体を押しつぶしていたわけであるがこの前「万引き家族」を観たらそういや四月から単発的に観ていた映画、「COCO」(邦題「リメンバー・ミー」)、「ラブレス」がどれも家族を取り上げた映画だったなあと思ってようやっとワードを開いたってなわけ。

でもさあ見たのは四月五月とかの話だからあんまり覚えてない、COCOはいまいちだった、「家族仲良くが一番サイコーだよね!」が押されてて、最近のひねったディズニー魂はどこ行っちゃったの?て感じ。

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家族は最高じゃない。ロシア映画の「ラブレス」は、離婚する二人の夫婦とその一人息子の話である。離婚する二人は円満離婚でもなんでもなく、月並みな表現だけれども顔を合わせれば喧嘩ばかり、妻は新しい男の前ではめかしこむけれども旦那の前ではジャージを着、携帯をずっといじっている。夫は自分が昔同じように妻を妊娠させたことをすっかり忘れ、その新しい女の腹には新しい命が宿っている。二人はそれぞれ自分の人生を新しくはじめたいと思っており、噴き出すその気持ちは「子どもの押し付け合い」となってあらわれる。「おまえが引き取ればいい」「おまえが」「おまえが」のやりとりを、息子は偶然聞いてしまう。そして翌日、息子は家に帰ってこなかった。その次の日も、次の日も。
ラブレスの大半は、この息子を探す時間である。そして息子を探す間の夫婦の殺伐としたやりとりの時間である。「けっきょく自分が一番大事」と言ってしまうのは簡単だけれども、自分が大事でありながらも、なにかに怯えるためか、それとも愛がまだ残るからか、夫婦は息子を探す。家族は最高じゃないけど、最高じゃないといって切れるほど簡単なものでもない。

血のつながり、実際には精液と卵子のつながりでしかないと、私は思うんだけど、なんだかそれがとてもすばらしいもののように、現代日本社会では絶賛されていて(映画の感想を書くのをさぼっていたら、いつの間にか『生産性はない』だのなんだの、の話が盛り上がっていて、女子として、産む可能性があるものとして、ああ私たちはいつになっても産む機械、とユーウツになってしまった)、「ラブレス」はそういう手放しの称賛を鼻で笑うかのようだった。

「ラブレス 映画」の画像検索結果

「万引き家族」は血ではなく犯罪でつながる家族を描いたものだ。実は是枝監督は家族を描いたんじゃなくって日本の貧困や格差を正面から描いたつもりだったとインタビューで言っていたらしいけど、兎も角。ネタバレになっちゃうから書けないけど、けっきょく血のつながりがあってもなくても家族なんてものは弱くて、誰か一人が一方的にその存在を信じてたり、ようするにそんなつながりは片思いっていうか願いっていうか、もう片方とかその他大勢は別にそんなん気にしてなくって、その想いの不均衡さに安藤サクラみたいにちょっと泣けちゃうよ。(それよか私の大好きなケイトブランシェット様が安藤サクラが涙を流すシーンを絶賛したってね!最近は「百円の恋」も見たけど安藤サクラはまじですげー。犬養毅の曾孫というのもまじですげー。)

友人やら、兄弟やら、が家族形成をはじめるような年齢に私も差し掛かっていて、彼らの幸せそうだけどもどこか張り詰めた・張り詰めているけれども幸せが確実にある、様子を目の端で見ることが多くなった。ノンフィクションでもフィクションでも家族は壊れやすくもろく家族愛などという言葉ではごまかしきれない(から私はそれを避け続けているんだけど)んだけど、それでも彼らが生きてる世界においては義務感なり心のからの愛情であったりなんだりが彼らのぎりぎりの心情や命を救うことがあってほしいと心から願ってたまらん。

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わたくしたち女はいつまで経っても選ばれる側の人間なのだ

渋谷なんて物騒な街を歩いていた時のことなんだけど、友人とのディナーに遅れ気味でやや小走りで人混みをかきわけかきわけていたら明確に私のところに一人の男性がやってきて明確に私の顔というか目というかを見ながら「脚が太いね」と言って立ち去っていった。
いまなんつった?と思うためにはそれなりの脳味噌内での処理がいるってなもんで、そのときは「はあ」とか「まあ」みたいな感じでさっと流したんだけど次の信号待ちで明快に男性の言ったことを構成しているとやっぱりそれは「脚が太いね」なのであった。

そんなこともあるもんですねえ生きていると。と思ったら翌日友人と遊んでいたら友人が突然前日のデート相手の話をしだしてなんじゃらほいと聞いていたら「そいつに好きなタイプは?って聞かれてさ、マルマルさんはどうなんですかって先に言わせてみたら『脚が太い女の子』って言うんだよね、で、もうなんかいやになって帰っちゃった。」

その友人は働き始めてから知り合った人で、働き始めてからと言えば会社にもこういう人間が多くいる。「あの子がかわいい」だの「あいつはブス」だの。

私がこういう、あらゆる、外見に関する様々な批評を聞くたびに思うのはこういうタイプのことを言う人って「自分が選ぶ立場にいる」と信じてやまないのだよね。自分が選ぶ立場にいる。自分は批評できる立場にいる。しかもたいてい、その選好や批評基準というのがどーーーしようもない性的な事象をはじめとする外見の話であったりする。

こういう話、必ずしも男性とか女性の話ではない。ただ、会社で男性から女性の批評(「あの子はかわいい」「あいつはブス」)を聞くよりも女性から男性の批評(「あの人かっこいい」)を聞くほうが心がおだやかなのは、やっぱり女性みたいな存在が置かれてきた場所の歴史的地層が分厚すぎるからで。

だから必ずしも男性と女性の分断の話ではないんだろうけど、私はやっぱりこういう批評にかちあってしまうたびに、私はうるせえっおまえのちんぽも見せてみろやい!!!!!!!!と叫んでしまう。おまえのちんぽも見せてみろ!!!!!私がショートパンツから太い脚を晒すように、お前もそのジーパンの前チャックから細いちんぽを見せてみろ!!!!!と叫んでしまう、てか渋谷の野郎にも叫んでやればよかったんだけど。

女性のみなさん、よろしければ男性をおもっくそ選別してやりませんか?できれば、ちんぽの大きさで。私の場合はすでに男性はガンガンちんぽの大きさで選んでいる。なぜちんぽの大きさで男性を選ぶかといえば、ちんぽの大きさというのはまじで男性を傷つけることを知っているから。もう完全に死語だけれども男性の三高、高身長高収入高学歴をはじめとして、「高身長男性は巨乳の女性くらいめずらしい」言説も然り、男性が求められるあり方というのは、女が性的に(つまり純粋にまんことちんぽの関係において)欲情することを許しておらず(身長がどうセックスに影響するというの?)、同時に男性を性的に消費される対象になることから逃してやっている。誰が逃すかよ!私だって男性を選ぶ立場になりたいし、選ぶことで誰かを傷つけるその優位性を味わってみたい。まじで、私たちだって選ぶ立場でありたいよ、できれば選ぶ基準を、女にとってのおっぱいとか、スタイルとか、顔とか、それに準ずる、どうしようもないものでガンガン差別してやりてえ、背の高さなんてそんな甘っちょろいもんじゃなくてさ、「脚が太いね」と笑う人に対して「おまえのちんぽはほそっこいなあ」と言ってやる、そういう、人間の本質とは1mmも関係のないようなマジクソな基準を押し付ける、そういう立場になってみたい。男性の三高の一つの「高」は勃起した男性器の床からの高さを示すんです。で、あなたは高いんですか、どうなんですか。
というわけで、顔とかスタイルとかその前にどうぞ、男性器の大きさをどうぞ世の中にさらしてください。身長180センチoverの男性は女性で言えばFカップ!みたい甘っちょろいこと言う前にどうぞ、女性のFカップで言うところの男性器の大きさをぜひ教えてください。女性の脚も顔もおっぱいも厳密には「性器」でないのだから不平等だ、というのならわたしも自分のまんこのサイズを、この、親指と人差し指をくっつけるオッケーマークにて、指し示しますので!

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※このエントリはすべてジョークです

キレる世界とデコ武器

気づいたら4月も21日になっていて。まあいろいろあったけれども結果としてなんとか勤労がはじまり、なんとさっそく8時出社20時退勤の、働き方改革とやらに中指立てていく働き方で驚く&疲れるばかりよ。いや、わたくしまだ研修生なんですけれども。まあ、組織の思惑というのもありますけど。

「おまえは働くことに対して絶対向いていない、まあがんばれ、愚痴があったら聞いてやるからな」と優しいんだかけなしてるんだかわからないことを言われ続けていた私であるが、不思議と働くということに関して愚痴はない。その理由の一番シンプルなところにあるのは私はまだ研修生で言われたことをやってるだけで別に「働いてる」って感じは皆無だからなんだよな。研修はまじでだるいけれどもまあできるか&知ってるかと聞かれればやっぱりできない&知らないしそれがやんなきゃいけないことなんだと言われたらやるしかない。何より働くというのはお金をもらうということなんだしそれが滞りなくいただけるのならば捧げましょうこの時間。という気持ちになりますし。

でも働く、ということに関してではなくて人のあり方みたいなところに関しては激しい怒りを覚えることが多々ある。もちろん、朝6時半に職場行きの電車に乗るとまあまあ混んでることとか、みんなの顔が死んでいることとか、みんなまあまあストレスを抱えていることとか、人生とは?と思うことは多々あってそこらへんの話は今度書きたいと思うんだけど、私が怒りを通り超えて虚無ったのは会社による人の取扱い方についてだった。かんたんに言うと研修中に遅刻してきた人がいて、その日の退勤時刻を過ぎたあとに「緊急連絡」とやらがはじまり研修担当の人がその人を吊し上げ、名前をはっきりと声高らかに呼び、反省の言葉を述べさせたのであった。
なんというかさ、小学校かよ。と思うんだけど、それより先にこれが人を教えるあり方なんだろうか?とまじで気分が悪くなってしまったんだよね。確かに遅刻してくるほうが悪い。ヒャクパー悪い。だけどそれを見させられる私たちの気持ちは?遅刻した人の恥の気持ちは?人を吊し上げ、見る者を萎縮させ行動を抑制しようとする、その中世的やり方が、それなりに知性と愛を獲得してきた我々の、やっぱり詰まるところの合理的で最適な行動なんだろうか?

人間、どうせ人間同士で付き合っていかなければならないのなら、殺される人は少ないほうがいい。ラブがあったほうがいいしピースがあったほうがいい。気持ちよく生きていきたい。ラブアンドピースを達成するんだったら尊敬・リスペクトみたいなものが不可欠で、リスペクトを与えられ与えて生きていきたい。
でもこの、私がいま、退勤時刻を過ぎ、一日の疲労がドヴァっと全身を満たすなかで見させられるこの茶番は、果たしてリスペクトがある行為なんだろうか?

たぶんこれを読んでる人は、なんでこんなキレてんねんこいつと思っているんだろうけど自分でも不思議に思う。まあ私も私なりにストレス溜まってたんだろな。

 

唐突なんですけど、さいきんNetflixでDave ChappelleのStand-up comedyを見た。めっちゃおもしろいのでぜひ見てほしいんですけど…。
この回しか見ていないんですけどまあ見れば分かる通り、彼はBlackというやつで、この回についてはいまを生きる人々の「傷つきやすさ」であったり、それも含めた黒人の立場、ドナルド・トランプの政治のあり方について述べた回だった。彼はトランプ政権を嗤いながら、その政権の動力の本質が人種ではなく貧富にあることを見抜き、トランプを支援する「貧しい」「白人」の人々を紹介し「トランプは貧乏白人のためじゃなくて金持ちの俺(黒人)のために戦ってくれてるんだぜ」と叫ぶ(選挙期間中にこのネタをやったらトランプ支援者だと誤解されたらしいが)。ヒラリーはトランプの何百倍も良かったが、それが「ダース・ベイダーの”I have a dream”スピーチのようだった」と笑う。彼はLGBTの人たちに対してその傷つきやすさを指摘する。トランプの差別的発言に怒り心頭のアメリカ国民に対し、「いつからこの国はそんなメソメソする国になったのか?」と言う。Chappelleの世評はクリティカルなものでありながら同時に愛に溢れたものであり、そうして意見を世界に発信していく姿はなんというか、「おしゃれ」だと感じる。(一番笑ったのはアメリカと北朝鮮、というよりトランプと金正恩の関係について「北朝鮮をナメてるやつはコールオブデューティやったことないだろ!おれは昨日8歳の北朝鮮の子供に部隊全員殺されたんだ!」というところなんですけど まあともかく。)(ちなみに最後に出てくるEmmet Tillの話はとても衝撃的だったので日本人にもぜひ知ってほしい。)

上述の吊し上げ処刑が終わり、22時近くに家に着いて、ぼーっとNetflixでこの回を繰り返し見ていたら、まあなんつうか私も、傷つきすぎて、怒りすぎたかなと反省した。残念ながら、傷つくのは簡単なのだ。実は怒るのも簡単だ。だけどやっぱり、いちいち傷ついて、いちいちキレてるんじゃ感情がいくらあっても足りないのだ。傷つくこと、怒ることに対してなんとか知恵とユーモアとラブを持って対応し、表現し直し、仲間を集めていくのが、それこそ知性と愛を獲得してきた人間の一番オシャレな武器なのではないか?

あんまり、ニュースとか追えてないんですけど、世間では政治のあり方とか、とりわけ男性による女性の扱い方(セクハラとか相撲の一件とか!)で怒りがグッツグッツと煮え立っており、私もマジでひっでえなと思う。この国で女性として生きることにとても惨めな気持ちになるし。
でも私はそういう怒りをそのままぶつけることは選ばないと思う。ましてやそういうのを、しょーもない紙に創英角ポップ体で#Me tooとか書いてばっちり写真を撮られてみるあり方はやっぱ避けたいなと思う。私には言葉がある。人を救いたいという気持ちもある。できればそういうのを軽やかにこなしていきたいなという自尊心もある。そういうわけで私は、理不尽を感じることはやまほどあるけれど、手に取りかけただっせえごっついルイス軽機関銃をそのままぶちかましちゃうのではなく、かつて流行ったデコ電ばりにさ、愛と爆笑でデコって生きていこうと思うぜマダファカ。

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病棟ラウンジ本の金言と自分のどうしようもなさをぶつけ合いながら、それでも新年度の抱負

春休みの最中、身体が軽くエラーを起こしてしまい入院の運びと相成り候。駆け込んだ夜間外来では「ム…」という神妙な顔をされそのまま救急外来に回され(しかし救急外来のある病院まではなぜかタクシーで行かされ、タクシーで駆ける夜のソープ街の痛々しさよ)、救急外来でも「ム…」という深刻な顔をされそのまま数週間の入院が決まったのであった。

とにかく身体がしくしくと痛む。点滴をぶち込まれ、人らしい生活をさせてもらえず、しかし悲しきかな表層的デカルト的思考を求める私は、身体がそれほどに忙しくとも精神が怠慢しているという事実に耐えられないのだった。要するに、身体は痛かろうがしんどかろうが、精神が暇な以上、それは私という人間一個体の怠惰なのである。

とにかく暇暇暇。病棟のラウンジに置かれた本を読むしかない。しかしこの「病棟ラウンジ本」、どこの病院に行ってもラインナップが謎である。去年発行の女性誌やら、週刊誌、途中抜けの漫画、ハーレクイン、ワンピース感動傑作集、アイザック・アシモフ、大量の司馬遼太郎、……。最初に手を取ったのが井上雄彦の『リアル』で、これもなぜか六巻までしかなく、というかこんなまあまあ辛気臭い話(障害のある人が車いすバスケットをする話で、物語の途中で学校の人気者がダンプに轢かれて半身不随になるシーンも登場する)を病院に置くなよ。面白かったけど六巻までしかなかったので半日で読み切った。夏目漱石の『行人』も置いてあったがしみったれた漱石を読む気にもならず。しかしなんつうかこの病棟ラウンジ本というジャンル、なんだか私の読書遍歴に似ているなあ。体系化されておらず、興味も散漫で、良い本とか古典はたまにあるけれども、全体的な質はそんなによろしくない……。そんな病棟ラウンジ本から私が手に取ったのは『食べて、祈って、恋をして――女が直面するあらゆること探究の書』だった。

 

食べて、祈って、恋をして 女が直面するあらゆること探究の書 (RHブックス・プラス)

食べて、祈って、恋をして 女が直面するあらゆること探究の書 (RHブックス・プラス)

  • 作者: エリザベスギルバート,那波かおり
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厭!誤解しないでください!こんなアウトの本をなぜ私が手に取ったかって、まあそれしか読む本がなさそうなのと(黄ばんだ司馬遼太郎ももちろん嫌だった)、この作品を原作とした映画はけっこう高評価を得ているらしいことを風の噂で聞いていて、ネットフリックスのマイリストに登録していたためであった。病院での精神の暇な時間に押しつぶされそうになりながら、本を読む。離婚を経て、心身ともにずたぼろの生乾きの雑巾みたいになってしまった女性が旅をする。彼女はイタリアで食べ、インドで祈り、インドネシアで愛を知る。そういう本。ばーっと駆け足で読みながらも、ああ、イタリアの食べ物の描写の見事なこと。香りゆたかなピスタチオのジェラート、薄くてもっちりとしたピッツァ、それから、アスパラガスをゆで、そこに半熟の卵を落としパルメザンチーズを振りかけて……はああ、全部食べたい、目の前の点滴を引きちぎって全部食べたい。そもそも春休みにはヨーロッパ旅行をしようと決めていたのにそれに踏み切ることすらできなかった臆病者の私は、大胆に一年もの旅行期間を自分にあげられたエリザベス(筆者であり主人公である)にとてつもないコンプレックスを感じるぐらいで。

でも旅行はしていないけれども、いま病室でぼんやりとしていることは動かしがたい事実で。はあ、私は何をしているんだろう、確かに必要な治療ではあり、というかなんかストレスとかいろいろ溜まってたんやろな、そういう意味ではこういう時間を享受できることがうれしく思うけども、その嬉しさと同じ絶対値でマイナスのほうにも感情が振り切られる。

 

しかし、わたしが人生の愉悦を求めようとするときに必ず足を引っぱるのが、ピューリタン的な罪悪感だ。わたしはこんな喜びに値する人間かしら。まさにアメリカ人。わたしたちは自分が幸せに値するだけの働きをしたかどうかに自信がない。(本書105頁)

 

まあ、そんなことを言われたところで、四半世紀以上も鬱屈とした自分の思考回路をかためてきた私が、「ううん、いいの。これは人生の休暇。気にせず、しっかり休んで、それからまたリスタートすればいいんだから!」などとアメリカ人女性よろしく思えるわけがないのであって。

四月から働く予定だけど、ていうかいろいろ予習しておかなければならなかったことも多かったはずで、こんなんで大丈夫なのかとひたすらに胃が痛む。いまのところまともに課題もクリアできていないくせに要求だけは一人前で、これで「やりたいこと」とやらをやっていけるのか、あああ、そうするとまた三月に盛んに考えたこれからの人生やいままでの人生のことなど。

 

あんたは、なりゆきにまかせるってことを覚えたほうがいい。(本書257頁)

あんたは、自分の考えを選ぶってことを学んだほうがよさそうだな。なに、そんなのは毎日の服を選ぶようなものさ。これは自分で開発できる能力なんだ。自分の人生を自分でどうにかしたいのなら、心に働きかけろ。それ以外に方法はない。それ以外のことはどうでもいいんだ。自分の考えを自分で仕切れるようにならなきゃ、あんたはいつまでたっても、どつぼにはまったまんまだ。(本書303頁)

ネガティヴな思考の存在を認め、それらがどこから、なぜやってきたのかを理解し、それから――大いなる許しと不屈の精神を持って――それを追い払えということだった。(本書304頁)

 

 

はあー。そうですか。さいですか。まあね、そうよね、人生そんなもんよね、おいしいものを食べて、それで、自分の考えをコントロールすることが一番大事で。人生において(特に私みたいな、無駄に神経症に悩まされ、人生で自分が何をなすべきかユリイカが訪れず、またユリイカを引っ張り下ろそうともしない人間にとっては)やるべきことなんて自分の考えをコントロールすること、だけなんだよね。

この本、どうやら筆者の私小説みたいな話なんだけれども、次から次へとあふるる人生の金言に、すんなりと身をゆだねていける筆者が妬ましい。そんなんね、私はねえ、わかっちゃいるんだーーーい!ただそういう言葉にまだ説得力が感じられないんだよ。そして金言を受け入れどうにかその通りにしようという私の側の行動力もまた、ない。

はああ、私にとって必要なのはこうやってブログに金言もどきを書き留めていくことだけではなく(もちろんそれがどこかでこれを読んでいるかもしれない人間の心を満たすことがあればうれしいが)、イタリアに行きうまいものを食べ、インドで荒れたアシュラムに入って瞑想することなのかもしれない(”Love”のパートに関してはいま最高のセフレがいるので特に必要がない)。そうしてやわらかくなった身体や心に、「自分の考えをコントロールする」だったりその他大勢の「人生こうでなくっちゃ」というガッツが実感として、しみこんでいくのかも?

はああ、どうする?人生?自分は何になる?やれと言われたこともやっていないのに?みたいな悩み事をぶつけながらも・しかし悩み以上にならないものはうまく廃棄していくべきなんだ。とりあえず北海道にでも行こうかな?私が知る限りで日本で一番飯がうまいし、そういうところで働いてみよっかな…。

 

イタリアには人生の喜びがごまんと溢れている。その全部を試している時間はない。こういうときには専攻を決めてしまうのがいちばんだ。…わたしの専攻は話すことと食べること(ジェラートへの耽溺も含む)だと決まった。(本書107頁)

 

ま、なかなかこういう本の言葉たちは素直に受け止められないし、そもそも「(ジェラートへの耽溺も含む)」なんて書いてしまうセンスが許せないし、受け止められない自分の部分をいとしく思うけれども、うまく利用しながら自分の人生を打開していくっきゃない!ってことで、また私のなかの読書遍歴がより「病棟ラウンジ」化していくのだった。

ヨッシャー、やるで、やったるで、なんつうか、展開のある、どうかそういう一年に。