病棟ラウンジ本の金言と自分のどうしようもなさをぶつけ合いながら、それでも新年度の抱負

春休みの最中、身体が軽くエラーを起こしてしまい入院の運びと相成り候。駆け込んだ夜間外来では「ム…」という神妙な顔をされそのまま救急外来に回され(しかし救急外来のある病院まではなぜかタクシーで行かされ、タクシーで駆ける夜のソープ街の痛々しさよ)、救急外来でも「ム…」という深刻な顔をされそのまま数週間の入院が決まったのであった。

とにかく身体がしくしくと痛む。点滴をぶち込まれ、人らしい生活をさせてもらえず、しかし悲しきかな表層的デカルト的思考を求める私は、身体がそれほどに忙しくとも精神が怠慢しているという事実に耐えられないのだった。要するに、身体は痛かろうがしんどかろうが、精神が暇な以上、それは私という人間一個体の怠惰なのである。

とにかく暇暇暇。病棟のラウンジに置かれた本を読むしかない。しかしこの「病棟ラウンジ本」、どこの病院に行ってもラインナップが謎である。去年発行の女性誌やら、週刊誌、途中抜けの漫画、ハーレクイン、ワンピース感動傑作集、アイザック・アシモフ、大量の司馬遼太郎、……。最初に手を取ったのが井上雄彦の『リアル』で、これもなぜか六巻までしかなく、というかこんなまあまあ辛気臭い話(障害のある人が車いすバスケットをする話で、物語の途中で学校の人気者がダンプに轢かれて半身不随になるシーンも登場する)を病院に置くなよ。面白かったけど六巻までしかなかったので半日で読み切った。夏目漱石の『行人』も置いてあったがしみったれた漱石を読む気にもならず。しかしなんつうかこの病棟ラウンジ本というジャンル、なんだか私の読書遍歴に似ているなあ。体系化されておらず、興味も散漫で、良い本とか古典はたまにあるけれども、全体的な質はそんなによろしくない……。そんな病棟ラウンジ本から私が手に取ったのは『食べて、祈って、恋をして――女が直面するあらゆること探究の書』だった。

 

食べて、祈って、恋をして 女が直面するあらゆること探究の書 (RHブックス・プラス)

食べて、祈って、恋をして 女が直面するあらゆること探究の書 (RHブックス・プラス)

  • 作者: エリザベスギルバート,那波かおり
  • 出版社/メーカー: 武田ランダムハウスジャパン
  • 発売日: 2010/08/10
  • メディア: ペーパーバック
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厭!誤解しないでください!こんなアウトの本をなぜ私が手に取ったかって、まあそれしか読む本がなさそうなのと(黄ばんだ司馬遼太郎ももちろん嫌だった)、この作品を原作とした映画はけっこう高評価を得ているらしいことを風の噂で聞いていて、ネットフリックスのマイリストに登録していたためであった。病院での精神の暇な時間に押しつぶされそうになりながら、本を読む。離婚を経て、心身ともにずたぼろの生乾きの雑巾みたいになってしまった女性が旅をする。彼女はイタリアで食べ、インドで祈り、インドネシアで愛を知る。そういう本。ばーっと駆け足で読みながらも、ああ、イタリアの食べ物の描写の見事なこと。香りゆたかなピスタチオのジェラート、薄くてもっちりとしたピッツァ、それから、アスパラガスをゆで、そこに半熟の卵を落としパルメザンチーズを振りかけて……はああ、全部食べたい、目の前の点滴を引きちぎって全部食べたい。そもそも春休みにはヨーロッパ旅行をしようと決めていたのにそれに踏み切ることすらできなかった臆病者の私は、大胆に一年もの旅行期間を自分にあげられたエリザベス(筆者であり主人公である)にとてつもないコンプレックスを感じるぐらいで。

でも旅行はしていないけれども、いま病室でぼんやりとしていることは動かしがたい事実で。はあ、私は何をしているんだろう、確かに必要な治療ではあり、というかなんかストレスとかいろいろ溜まってたんやろな、そういう意味ではこういう時間を享受できることがうれしく思うけども、その嬉しさと同じ絶対値でマイナスのほうにも感情が振り切られる。

 

しかし、わたしが人生の愉悦を求めようとするときに必ず足を引っぱるのが、ピューリタン的な罪悪感だ。わたしはこんな喜びに値する人間かしら。まさにアメリカ人。わたしたちは自分が幸せに値するだけの働きをしたかどうかに自信がない。(本書105頁)

 

まあ、そんなことを言われたところで、四半世紀以上も鬱屈とした自分の思考回路をかためてきた私が、「ううん、いいの。これは人生の休暇。気にせず、しっかり休んで、それからまたリスタートすればいいんだから!」などとアメリカ人女性よろしく思えるわけがないのであって。

四月から働く予定だけど、ていうかいろいろ予習しておかなければならなかったことも多かったはずで、こんなんで大丈夫なのかとひたすらに胃が痛む。いまのところまともに課題もクリアできていないくせに要求だけは一人前で、これで「やりたいこと」とやらをやっていけるのか、あああ、そうするとまた三月に盛んに考えたこれからの人生やいままでの人生のことなど。

 

あんたは、なりゆきにまかせるってことを覚えたほうがいい。(本書257頁)

あんたは、自分の考えを選ぶってことを学んだほうがよさそうだな。なに、そんなのは毎日の服を選ぶようなものさ。これは自分で開発できる能力なんだ。自分の人生を自分でどうにかしたいのなら、心に働きかけろ。それ以外に方法はない。それ以外のことはどうでもいいんだ。自分の考えを自分で仕切れるようにならなきゃ、あんたはいつまでたっても、どつぼにはまったまんまだ。(本書303頁)

ネガティヴな思考の存在を認め、それらがどこから、なぜやってきたのかを理解し、それから――大いなる許しと不屈の精神を持って――それを追い払えということだった。(本書304頁)

 

 

はあー。そうですか。さいですか。まあね、そうよね、人生そんなもんよね、おいしいものを食べて、それで、自分の考えをコントロールすることが一番大事で。人生において(特に私みたいな、無駄に神経症に悩まされ、人生で自分が何をなすべきかユリイカが訪れず、またユリイカを引っ張り下ろそうともしない人間にとっては)やるべきことなんて自分の考えをコントロールすること、だけなんだよね。

この本、どうやら筆者の私小説みたいな話なんだけれども、次から次へとあふるる人生の金言に、すんなりと身をゆだねていける筆者が妬ましい。そんなんね、私はねえ、わかっちゃいるんだーーーい!ただそういう言葉にまだ説得力が感じられないんだよ。そして金言を受け入れどうにかその通りにしようという私の側の行動力もまた、ない。

はああ、私にとって必要なのはこうやってブログに金言もどきを書き留めていくことだけではなく(もちろんそれがどこかでこれを読んでいるかもしれない人間の心を満たすことがあればうれしいが)、イタリアに行きうまいものを食べ、インドで荒れたアシュラムに入って瞑想することなのかもしれない(”Love”のパートに関してはいま最高のセフレがいるので特に必要がない)。そうしてやわらかくなった身体や心に、「自分の考えをコントロールする」だったりその他大勢の「人生こうでなくっちゃ」というガッツが実感として、しみこんでいくのかも?

はああ、どうする?人生?自分は何になる?やれと言われたこともやっていないのに?みたいな悩み事をぶつけながらも・しかし悩み以上にならないものはうまく廃棄していくべきなんだ。とりあえず北海道にでも行こうかな?私が知る限りで日本で一番飯がうまいし、そういうところで働いてみよっかな…。

 

イタリアには人生の喜びがごまんと溢れている。その全部を試している時間はない。こういうときには専攻を決めてしまうのがいちばんだ。…わたしの専攻は話すことと食べること(ジェラートへの耽溺も含む)だと決まった。(本書107頁)

 

ま、なかなかこういう本の言葉たちは素直に受け止められないし、そもそも「(ジェラートへの耽溺も含む)」なんて書いてしまうセンスが許せないし、受け止められない自分の部分をいとしく思うけれども、うまく利用しながら自分の人生を打開していくっきゃない!ってことで、また私のなかの読書遍歴がより「病棟ラウンジ」化していくのだった。

ヨッシャー、やるで、やったるで、なんつうか、展開のある、どうかそういう一年に。