私なりに気を利かせたミッドサマー感想

誤解を恐れずに『ミッドサマー』のプロモーションを友人にするとしたら「男関係で少しでも不愉快な思いをしたことのある人は観に行ったらいいんじゃない?」ということだけ。破局を体感する物語としてよく出来ているのだ。あきらかに終わりの近いカップルと彼らの友人が、交換留学生の故郷に研究調査も兼ねて遊びに行くという話なのだが、ここから話の内容をはっきりと書いていくけど、着いた先の村というのはカルト集団の住む村で、何年かに一度のサイクルで行われる儀礼祭典が行われ、なんじゃかんじゃ起こるわけだが、祭典の「女王」になった女性(ダニー)は最終的に自分の恋人の男性を祭典のフィナーレの生贄として選ぶ。男性のほうは薬を盛られすっかりラリってしまい、虚な目で周りを見渡しながら火に包まれていく。カルト集団はその生贄の儀式を見ながら、これまた儀礼の一部かのように大袈裟に泣き喚いて見せる。恋人を燃やしたダニーはその慟哭に身を浸しながら、最後にハッと笑う。そういう話だ。
この映画が破局の物語としてよく出来ているのは、冒頭から、カップルのぎこちなさを、しかもたいていの場合は男性側の過失ゆえのぎこちなさを巧みに挟み、観客のうち男関係ーー21世紀らしくいえば恋愛関係で少しでも不愉快な思いをしたことのある人との連帯を築いていくように話が組み立てられているからである。鬱病の症状がある妹から連絡が来ず心配するダニーに対し「大したことはないよ」という様(自分が相談された側の立場で「気にしすぎだよ大丈夫だよ」とアドバイスしたあとにその人が死んじゃったらまじで取り返しつかない感情になると思うのだが)、別れたあとの次のセックスのことばかりを考えるホモソーシャル、旅行に行くことを共有しない意地悪さ・関係への諦め、男;「謝ればいいのだろう」女;「謝ってほしいわけじゃないの」のやりとり、女がいるから俺たちのノリが悪くなるぜなホモソーシャル②など、わたしはまじで、この映画を見ている最中「オトコってサイテー!」と本気で思ったし、ダニーが最後に生贄としてその男を選んでくれたときわたしは本当に、映画が応援上映形式だったならば腕を振って「ダニー!君はサイコーだ!」と叫んでいただろう。「カップルで見に行くときまずくなるらしいね」なんてごまかした感想が流れてくるけど、男!おまえのことだよ!この映画は男を殺している映画なんじゃい!と大変明るい気持ちになった。ガールズパワー!とも口走ってしまうくらいのパワー、加えて、そのパワーをはじめから終わりまで一貫して醸成し観客の側に感情を埋め込ませるその巧妙さに舌を巻き、友人たちに本作品のことを強く勧めている。
しかし、この破局の物語が、女性のそうした感情に誠実に寄り添ったものであったかどうかについてはわたしは信じきることはまたできていない。この映画は最後に男を殺すことで女性に解放をもたらしたわけだが、そこに至るまでの女性の書き方もまた、典型に基づいている。さきほどの、男;「謝ればいいのだろう」女;「謝ってほしいわけじゃないの」のやりとりは特に、いわゆる「女のめんどくささ」の発露であったが(めんどくさいのは男から見た目線なのであって別にこのめんどくささが性別を超えたスタンダードなものになってもよいのにね)、儀礼祭典のメインイベントが女性のみの参加で、しかもダンスによって決められること、初夜の儀礼は番になる男女二人のほかに女性のみが裸体で参加すること(一般的に、下ネタが「リアル」「生々しい」だと言われてしまう女子の会合を思い出した)、といった一連のストーリーによって、女性が集団で動き、感情を同化させ、しかしその感情の共有によって結合していく…現代でも「女ってこうだよな、苦笑。」と話の種にされがちな現象が描かれており、加えて最後の結末も考えれば、「女って感情の生き物じゃん。コエー。わらい。」みたいな印象を鑑賞者に与えるだろうとも感じた。少し穿った見方かもしれないが。
こうして振り返れば本作品は多重に狡猾に男女を描いていたのかもしれず、こういう見方になってしまえば男女同士が互いの典型ぷり及び滑稽さを嗤い合うという分断を再生産してしまうだけ…なのはわかっている。それでも私はこの映画の気持ちよさにいつのまにかはまってしまった。それは巷で呼ばれるような「共感」とか「自己没入」を体験したわけではなく、ただただ、自分が持つ加害願望、特に男性に対する、男性どもが私たち女の憤怒を思い知るまで破滅的に潰し尽くしてやりたいという加害妄想!が華やかに成就したことへの喜び。

 

追記
このことあんまり書いている人いないなと思って見てからずっとこの記事に取り掛かっていたが、きょうついに似たような話を見つけてしまいました。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2003/10/news124.html

無言の留守電

なかなか空気が冷え切らない冬の日、夕飯を作っているときに不意に祖母のことを思い出した。祖母は八年前に他界している。
たくましい人、という形容がよく似合う人だった。死の原因となる病気に身体を乗っ取られるまで、二本足でひょいひょいと歩き、飯ももりもりと食べた。先日、また家族でディズニーランドに行ったが、家族で「そういえばおばあちゃんはずっと絶叫マシンに乗ってたねえ。平気な顔してたねえ。」と盛り上がった。とりわけ、夕飯を作っているときに祖母のことを思い出すと、熱い鉄板などものともせず素手で握り持ち上げていた祖母の厚い手のひらのこと、それに「焦げの部分に栄養があるのだ」と言ってはばからずに料理の黒い部分を食べたことが蘇る…とまあ、こんな具合にていねいに記憶をたどるときりがない。

祖母が死んだのは、膵臓がんのせいだった。あまり覚えてはいないが、がんだとわかってから多分、一年くらいで逝ってしまったと記憶している。膵臓がんは癌のなかでもとりわけ難しいものとされており(と当時聞いた)、噂に違わずそれは祖母のたくましさをあっというまに奪っていった。
食欲が減り、体力が衰えた。家の前の階段でつまづいた(つまづいてもそれが決定的な寝たきりにつながらなかったことは祖母の名誉だが)。
そうこうしているうちに、ぼけはじめた。

ぼけは見聞していた以上に悲しい病気だった。トイレがトイレで出来なくなり、母が慌てて祖母をトイレに連れて行く。得意だった編み物を忘れ、リハビリ代わりに母が簡単な編み物キットを買っても完遂できない。ぼけていく記憶とたくましい彼女の精神は悲しいまでに拮抗し、どういう流れだったか忘れたが、ある日に祖母は

「はやくしんじゃいたいやね」

とつぶやいた。私はとにかく「そんなこといわないで」と返した。「そんなこといわないで」以上に返す言葉が絶対にある、とめまいのなか必死で考えながら、それでも何も思いつかず、すっかり曲がってしまって断崖のようになった祖母の背中に手を添えた。

お涙頂戴ばりにここまで書いているが、そのときの私は弱る祖母を支える孫でも、それをさびしく見つめる孫でもなかった。そんないいやつではなかった。もちろん、支え、見つめ、死のむごさを感じていたわけではあったが、私はそこまで誠実ではなかった。

祖母が死んだ年は、私が大学に受かった年だった。たしか、私が大学合格を決めたときには祖母はそこまで衰えてはおらず、合格の電話を入れると「よかったねえ!」とはしゃいだ声がきんきんと返ってきた。
そこから急速にぼけが進んだらしい。上京したばかりの四月、私のところには三日とあけず、祖母から電話がかかってきていた。昼間は大学に通う私の携帯には留守電ばかりが残った。留守電といっても、たいていは「元気にやってるー?」「ばあばでーす」と言うだけ言って、切れてしまうものだったとおぼえている。

この、「鬼留守電」とでもいうべき彼女の連絡に対し、正直に告白すれば、「めんどうだなあ」という気持ちが私の心のどこかにあった。いや、さすがにめんどうだとは思わなかったかもしれないが、憧れていたキャンパス・ライフの中に身を置いていた私が、病気に身体を侵された祖母を心配し早く電話をかけ直さなければ、とはなかなか思えなかったのはその通りだった。ある日、こういう留守電が残っていた。

留守電は、ほとんど無言だった。故障か?と思って聞き続けていると、遠くから若い女性の声で、
「お孫さん、忙しいのよ。」
と聞こえ、留守電はそこで終わった。
おそらく、無言の留守電の背景はこうだった。普段どおり祖母は私に電話をかけた。しかし私は出なかった。電話は留守電へと切り替わる。祖母は電話を切ることも、メッセージを思いつくこともできず、ただ携帯電話を見ていたんだろう。そこに現れた看護師が電話を切ってくれた。

この無言の留守電のあと、祖母は一ヶ月もしないうちに永眠した。私が大学に入って数ヶ月が経ち、はじめての大学祭を終えた翌週のことだった。祖母の死の連絡があった次の日から帰省して、通夜と葬儀に出、大泣きした。しかし頭のどこかで、私には大泣きする資格があるんだろうか?とも考えていた。しんじゃいたい、とつぶやいた祖母に「それでも生きていてくれてうれしい」と返したりだとか、留守電に一個一個かけ直したりだとか、そういうことができる人だけが大泣きできるものなんじゃないのだろうか?通夜と葬儀を終えたあとに自分の携帯電話に残る留守電を何度も聞き直した。なんであのとき、「めんどうだ」なんて思っちゃったんだろうな。近いうちにしんでしまうだろうことは分かってたのにどうしてもっと愛情をもって尽くせなかったのか。いや、愛情がなかったわけでは全くないのだが、私が持っていた愛情が、どうしてもっとわかりやすく、相手の気持ちにあたたかいものを残すものとして表出しなかったのか。どうして自分の愛情が相手にとってそのようなものになるように、私は努力しなかったのか。
それでも私は大泣きした。そして、おなじことが次起こっても、私はうまい愛情表現をおもつかないし、留守電に返事をしないんだろうとも思う。

留守電はずっと保管しておこうと決めていたが、その三年後くらいに何かの拍子で携帯電話を落として壊し、全部のデータがなくなってしまった。

ああ祖母。そういえばあの頃はまだ、みんなガラケーだった。それを使って孫に電話をかけた祖母。膨れ上がった留守電。元気だった祖母。同じくらい元気に大学に通った私。死際には会えず、母からメールだけが入っていた。あの頃はまだ、LINEも使ってなかった。LINEだったら、もっと会話できただろうか?祖母はメールをしなかった。

急になぜ、いまさら、祖母のことで鼻を痛くしているのか、わからない。私の気づかないところで、祖母がはるばる東京のわたしの部屋までにじり寄っているのかもしれない。霊ではあっても、二本足でひょいひょいと来てくれているといいのだが。

アラサーOffice workerはオーラルケアについて真剣に考える義務がある

働きはじめてから思うことなんだけど、働いてる人、口臭い人多くないか?!男女問わず。身綺麗な感じのお兄さんお姉さんから強烈なにおいを嗅ぎとってしまうことが多く驚いてしまう。しかし、口臭とは本当に罪深いもので自分ではなかなかわからず、よってお前はどうなんだ、と問い返されたら自信を持って大丈夫だと胸を張ることもいまいちできない、もっと言えばわたしはかつて二回ほど「口が臭い」と男性から言われたことがあり、口臭とは本当に罪深いもので②、言ってくれたことはありがたく思うもののその後は異常なまでの神経質になってしまうのだった、よって、なおさら、お前はどうなんだ、と問い返されたら自信を持って答えることはやっぱりできない。働きはじめてから口臭のつよい人に出会うことが多くなったのはストレスが大きいんだろうなあ。ストレスによる胃の荒れ、加えてストレスを和らげるためのタバコ、コーヒー、アルコールなどが全部悪い方向に作用している。口の中に関して言えば。しかしサラリーマンを辞める勇気もない我々なのだからそうであるならばオーラルケアについて真剣に考え、実行に移していく必要がある。

大前提:大人になったら2-3ヶ月に一回は歯医者に行って
そしてクリーニングをしてもらって!歯石を取るべきか否かは私にはわからん。が、とにかく定期的に検診に行き、歯の掃除をしてもらって。それで問題の大部分が解決する。たまに「虫歯になったことがないから歯医者に行く必要を感じない」とのたまう人がいるが、痛くなってからじゃ遅いんだぞ!私も痛くなってから歯科通いをはじめたがその頃には自覚症状のない部分まで虫歯が進んでおりわりと詰め物だらけになってもた。そして何よりクリーニングをするとめちゃピカピカになるしその後のフロスはしばらくにおわないのでクリーニングで口臭を予防することは可能なんだと思う。まずは歯医者にいけ!まじで

以下、歯医者に行ったあとの話

①まず基本のキは歯ブラシじゃん
歯ブラシの答えはタフトのような気がする。コンパクトなヘッドで毛もしっかりしているので、歯肉と歯の境目をゴッシゴッシ磨ける。小回りも効くので奥歯周りも大丈夫。気持ちいい。

昔はエビスのプレミアム歯ブラシを使ってたんだけど、これはブラシ部分が私の歯に対して大きすぎて歯肉と歯の境目をごしごし磨くことができずやめた。でもAmazonレビュー見てるとむしろ磨けますって意見が多くて歯の大きさとか口の大きさによるのかな。あとAmazon最安の歯ブラシっぽいCiメディカルもコンパクトで良かったけど、毛のコシがタフトに比べて弱いので磨いた感じがあまりない。

②歯ブラシだけじゃ絶対にだめなのでフロスも
フロスねえ!使うことを早く条例で義務付けてほしい。フロス使ってみれば絶対にわかるけど、口臭って歯の間に挟まってる歯垢や食べカスに全部凝縮されてるよ…歯磨きしたあとにフロスしてそのフロスのにおい嗅ぐと毎度絶望する。それ残ってたらそら口くさなるわ。フロスはツイッターでバズってたフロアフロスが肉厚で使いやすかったけど、このタイプってどうしても使った部分を手で触らないといけないので嫌なんだよね…なのでいまはピックタイプ使ってる。でも糸状巻き取りのほうが歯垢は取れやすいとどこかで聞いたことはある

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③舌ブラシ、はけっきょくやるべきなのか否かわかんなかったから最近は使ってないな。それよりもフロスの方が圧倒的に大事だと感じた

④マウスウォッシュ系
セラブレスはフロス使う時間がないときに使ってる。リステリンは試供品もらったときに使うけど、セラブレスの“”“強さ“”“に甘えてる

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⑤タブレット系
働きはじめてからトイレで歯磨きしてる人よー見るねんけど、若干抵抗あるのは私だけか?ウンコと口が同居する空間って。って思ったけど今住んでるわたしのアパート、ユニットバスだからウンコと口が同居してたわ…まあ…とりあえず会社のトイレはちょっとね、と思うんだけど、昼に匂いの強いもの食べたときとかコーヒー飲んだあとはセラブレスのタブレットをなめている。まあこれもお守りっつうか、セラブレスの強さに甘えてる形になりますね。マンダリンミントのほうが「効く」感のある味だけどタルトベリーのほうが食べやすくて好き

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職場で困ったなと感じたときはこのブログのURLをそっとその方にシェアしていただければと思います。

人生に、不満ばかりだ

人生に不満ばかりだ、ここのところ。なんだか頭を坊主にしたい気持ちであふれている。女の髪に血が通ってなくてよかった、と言ったのは綿矢りさなんだけど、私の場合も髪に血が通ってなくてよかったタイプ、人生のうまくいかなさと、髪の毛の明度、輝度、彩度、それと長さは深く関わっていて。
どうしたら不満ばかりじゃなくなるんだろう?私がこういう、公開のブログ上でこういう話を書き続けているのはいつか誰か(「王子様が」)がというか、いつかどこかでほんのわずかばかりでも同意してくれる人がいるものだと信じて書いていて、そしてこういう頭の「かゆさ」を抱えている人は絶対にいるものだと私はわかっているのだが、さて、どうしたら私は不満ばかりじゃなくなるんだろう?私の年代はいわゆるアラサーというやつで、否応無しに心の一番弱い部分に飛び込んでくるソーシャルネットワーキングサービスはですよ!高校生のときから夢をそれなりに描いていた人たちが見事魔法のようにそれを現実に映し出し動かしていることを親切心で教えてくれる。ああ確かに彼らは、人生を逆算してその時時の行動、具体的に言えば志望校や志望校後の選択肢などを、確かに表明していましたね、あれは、そういうことだったんですね、というような。そういう人たちばかりが目の裏にこびりついてこびりついてこすっても取れなくて汚くて、私は毎日葛藤を抱えているよ。いやだね。私は逆算も、人生の適切な計算も、できなくて、ときどきの人生のマイルストーン(入試とか、就活とか、就職とか)で髪の毛をばっさりそったりそめたりすることで溜飲をがっと下げている。そんな、毒を飲むみたいな飲み方じゃあいけないってえのはもう何年も前からわかっているのに、私は逆算の仕方がわからない。どうしたみんなあんな、逆算がうまいんだろう。自分の逆算を信じられるんだろう?私は逆算する前から「不確実性」の言葉がよぎってけっきょく安牌を切ってばかりいる。ああ、考えずにできる「ニコニコ」っていいものですね。そのうちなんだかそんな安牌ばっか切ってる自分が情けなくって卓上の牌を全部がしゃーーーーっととっ散らかせて周りに迷惑ばっかり、みたいな、そういう人生の代表のうち、「そういうのでもいいじゃん」っていう私のゆとり世代の部分が笑顔で輝きながら後ろで待機してくれてはいるけれど、別にそういうのでもいいじゃんなんだけど、じゃあ、私のこの頭のかゆみは、なんだっけ、脳を取り替えたら、治るんだっけ、私は、結局、どうするんだったっけ?って、ずっとここんとこ考えてる。

ニューイヤーレゾリューション

ニューイヤーレゾリューションという言葉がある。新年の抱負とかいうもの。年が変わればなんか自分も変わるような気がしてしまってツイッターやブログにxxしたいを飽きもせず書き連ねてしまったりする。一方で私の場合は今年はまったく「新年み」なるものが感じられず従って新年の抱負なんてものを書く気もあんまり無い。いま、去年(2019年)の目標が冒頭の1ページに書かれている日記帳兼予定帳を見てみると、①転職②貯金③筋トレ④勉強(映画や美術館に行く、本を読む、ある特定の分野の勉強)等々、書かれており、なんか別に変わってなくね?と悲しくなってしまったのが本音だった。ちなみに2018年の新年の抱負も残っていてこちらはご丁寧に2018年末の反省がコメントで入っている。まとめて言えば、やっぱり年が改まったって自分の行動やら惰性はなかなか改まらん、という話。同じ過ちを繰り返して同じ惨めな気持ちを思い起こすのはこれ以上やめたほうがいい。

もっとポジティブに新年を、と思ったときに最適な方法はなにかと考えたが、2019年に経験したことをちょっと備忘的に書いておこうと思う。自分がどれくらいのことを成し遂げられる人間か、またそれらのことについてどういった評価をしている人間なのか、わかるような気がしないでもないためだ。

手元の日記帳と、2019年からはじめたGoogle scheduleで振り返ってみる。新しいこととかいつもやっていることとかも含め印象に残っているものを書く。

①会社を休職した

いきなり重いのきたな。まあいいや。労働時間がえらいことになり、あっというまに惨めな気持ちになって泣きながら電車に乗る日が続いた。精神がつぶされてしまったので産業医に相談して休職。詳細は前書いた

②映画とか展覧会によく行くようになった

大学を卒業している者として文化教養には親しまなきゃあかん…と十九歳のころから考えていたが、2019年ついに行動に移した感がある。2019年はていねいに映画や展覧会の半券を日記帳に貼っていたのだが、月に2-3回は何かしら楽しんでいたっぽい。2020年も展覧会にぞくぞくと行っているが半券を捨ててしまっている。半券集めは再開してもいいかもな…。2019年に見て一番良かった映画を思い返すとうーんやっぱスパイダーマン(アニメ)は衝撃だったかな…

https://bd-dvd.sonypictures.jp/spidermanintothespiderverse/

③dマガジン読み始めた

月額400円でわりと大体の雑誌が読み放題。好きなファッション誌が読めるのもいいが、「買うほどじゃないかな…」と思っていたインテリア特集の雑誌がもれなく読めるので結果としてインテリアの勉強が少しずつできるようになった。みんなに勧めまくっている

dマガジン | 多彩なジャンルの人気記事がいつでもどこでも読み放題!

④そういえばボランティアに行くのはやめちゃった

子どもに勉強を教えるボランティアに通っていたんだけど、いつのまにかフェードアウトしちゃった。「決まった人がいる」っていう状態がなにか苦手なのかもしれない。

⑤パーソナルトレーニングに通い始めた

といっても2017年くらいから筋トレ自体はしていたので、月に2回、フォームを直しに行く感じである。ちなみに2019年は体重・体脂肪ともに激増している。単純に酒を飲み飯をアホみたいに食っているからだ。ボディメイクの基本は食事ですよ!みなさん。最近はPTも諦め?て「背中のお肉が邪魔でローイングできてないですよ」と指摘してくるのでもうなんかおもろくなってきた。1月中はちょっと減量するつもりですが…。

⑥そういえば大学院の説明会にも行っていた…

休職話もあって、大学院の説明会に行っていた。最近興味がある分野の一つの研究室に話を聞きに行ったが、「なんかまた修士課程から、学問のお作法を学ばなくてはいけないのかなー」とモヤっとしたので検討するのをやめた。あのまま検討していたら今頃春からはじまる新生活にワクワクしていたのかも。でも学問の世界に行くならいままで全然違う環境がいいなと思うな。

⑦嫌いなやつと連絡を絶った

エグみのある言い方だが、ずっと嫌なことを言ってくるやつとトモダチしていたが、なんか日々擦り切れていくな…と思いLINEの返信を適当な感じにした。向こうも気づいた?のかそれで連絡は来なくなった。限られた自分の時間を嫌いな人間に割く必要はないなとまじで思う。

⑧英会話に通った、一瞬

3ヶ月だけ英会話に通ったけど、なんかうまいこと自分の英会話力がexpandする感じがなくて3ヶ月1タームで終了した。英語使ってみましたよん。たぶん、英語をしゃべるってよりもインプットを増やしたほうがいいような気がする…。読むとか聞くとか。

⑨海水浴目的ではじめて東京の海に行った

おもくそ日焼けして、しっかり自分のおっぱいにはビキニ型の焼き目がついて、エロくてええやんと自己肯定感が大変あがった。これは今年もやりたい。

⑩トランジットでウィーン観光を6時間で行った

いままで、「トランジットで市中に出るとか!なにかあったらどうするの?」とびびりまくっていたが、事前にグーグルしてなんとか成し遂げた。旅行に行った国自体よりウィーンのほうがツボだった。今度はオペラ座に行けるといいな。

『滞在4時間! 乗り継ぎついでにウィーン観光♪』ウィーン(オーストリア)の旅行記・ブログ by ひでまるさん【フォートラベル】

↑めっちゃ参考にした

⑪海外出張が多かった

でも英語があまり話せず(話せるんだろうけど勇気が出ず)、役に立たずにみじめな気持ちになっただけだった これはなんとかしたほうがいいのかもな…。

 

なんかこう、思いついたままに書いているけどこの話オチがないな。2019年を振り返ればそういえばそういうことしてたなってのもあるし(⑥大学院説明会とか⑨東京の海とか)、自分なりに自分の状況を変えようと必死だったのがよくわかる(①休職とか⑤PTとか⑦絶交とか)。となると次はもう少し自分がフィットできると思える場所を見つけられるといいね、って、結局ニューイヤーレゾリューション決めるんかい。いや、そういうわけじゃないんだけどさ。やっぱ、人生って積み重ねだし。

韓国映画『パラサイト』がおもしろかった話

新年一発目、年末から見たくてそわそわしていた『パラサイト』を特別上映で見に行ってきた。こういうとき、東京ってのはいいやねえ。と実家でゆるんだ頭の時差をかけ直す。

ネタバレ、しないでくださいね!とキャスト総出で念を押し押し。私も『鬼滅の刃』やら『約束のネバーランド』やらの話題作をジャンププラスで無料分だけ読んでは残りはwikipediaのあらすじを読んで満足する、という妙な性癖があるので口を酸っぱくしたくなる製作者の気持ちもわかる。クリエイティブにとっては嫌な時代になったね…肝心の本編だけど、めちゃめちゃパワーがあり、おもしろかった。「100%予測できない」という触れ込みだが、というよりも予測できてもとにかく面白い。当然と意外が観る者にはまっていくさまが気持ちいい。こういうテーマを取り上げているのは日本映画でも多いけれど、テーマを真正面に取り上げてそこにあらわれる「機微」なんかを浮かび上がらせようとするのではなく、テーマを取り上げながらもそこに芯の通ったストーリーを打ち立てる韓国映画、強すぎる。これは『新感染』でも思ったことだった。この作品もめちゃくちゃおもしろかったな。(奇妙な邦題にしてしまった文化的敗北が私の胸を刺す。。。)

『パラサイト』を見るにあたって、韓国文化が全然わかんなかったらどうしようと思ったけれど振り返れば隣人よろしく韓国作品はいろいろ読んでるもんだな。韓国の全体的な状況は 82年生まれ、キム・ジヨンで語られていたし、韓国の大学生たちが置かれたすさまじい状況はチーズインザトラップに描かれていたなあ。

チーズ・イン・ザ・トラップ(1)

チーズ・イン・ザ・トラップ(1)

  • 作者:soonkki
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/08/22
  • メディア: コミック
 

 はーしかしこの辺の話もだけど、やっぱ韓国カルチャーってパワーありまくりやわ。すごいわ。情緒とかしみったれたマイナーチェンジを「文化」と呼ぶのを一旦止めにして、マジモンの感情を新しく創り上げることを、世界全体が求めているんだろうな。とりあえず2020年もたくさん勉強し、たくさん書いていきたい。

そんなに真夏でもない夜の、かつてあった夢の吐露一本勝負

いっつも文章を書くときはなんかに焦ってて、まともに美麗な、美麗でなくてもうまく構成された文章にしたいのになって思うのに毎度殴り書きのような話になっちゃうな。

この前下北沢で遊ぶことがあって、遊ぶっつっても一人だったんだけど、大学生のとき下北沢にはちょいちょい来たことがあって、といってもビレバンで売ってる小説の主人公みたいに「下北沢は庭です」って言えるほど遊んでたわけじゃなく、西口と南口と北口のつながり具合だけを認識してるくらいなんだけど、久々にB&Bで遊んできた。

ここは皆さんご存知だと思うけど、ビールを飲みながら本を買える店ってことで、かなり書店内での行動が自由に(ビールも飲めるし、座って本も読めるし、なんと家具も買えてしまう)できるんだけど、行った日はたまたま音楽イベントをやっていて入場料を払うことになってたから、これで滞在費は払ったことでってことでビールも買わず自分の家かごとく、本を漁っては積み、読み、戻し、漁り、積み、戻しをひたすら繰り返した。(なんかマナー違反だったらごめん。)短歌とか、建築とか、お金の話の本とか、美術、あとはフェミニズム系が特集されていたのでそれも読んだ。こういう本の漁り方って、振り返ればかなり久々、それこそB&Bが開業して、一、二年はこうやって本に囲まれて過ごすのが好きだったんだけど、なんだか私もずいぶん変わったと自虐的に自省した、けど一方でむりやりこういう時間を過ごすことで、こういう時間を過ごせば私はいつだってこの時間に戻ってこられるのだと思った、贅沢な時間に浸かっていると金銭感覚もふやけてきてドサドサと本を買ってしまったわけだが…。

女性を弄ぶ博物学―リンネはなぜ乳房にこだわったのか?

女性を弄ぶ博物学―リンネはなぜ乳房にこだわったのか?

 

 (↑これ買った。博物学(分類学)がいかにジェンダーに規定されながら成立したかを論証する科学社会学あるあるな感じの話なんだけどそもそもまともに勉強していない人間は問題設定のあざやかさを好きになった)

こういう時間の過ごし方が「贅沢だ」と思う一方で、私にはこういう贅沢が必要な人間だと確認した(ある種、「凡庸にはなりたくない」というような差別的な、選民的な確認なんだけど)(←ここまで自虐的でなくてもいいか)。私には次の日から仕事があった。私には休みが土日の二日しかない。なんならその二日のうちの何分の一か、仕事のことを考えないといけないくらいに私は不安症だ。本当はもうあと一日くらい週に休みがほしい。本を読む時間と、人に会う時間と、一人になる時間で…。私は高尚な人間になりたいと思っているので、本を読む時間が私に必要だと声高に言うのであるが、実は高尚な人間でもなんでもないので、「高尚な人間になりたいな」と思う時間でツイッターを見たりオモコロを読んだりしている。そしてそういう時間は、高尚な人間になるための時間より優先される。特に仕事をしていると。「遊び」が生きていく上には必要なんだけど(これはplayの意味じゃなくて、機械とかの接合のゆとりのことね)、そもそもの遊びを謳歌するためにはもっと雑多な、ゴミクソみたいな時間が必要なことには働き始めてから気がついた。

 じゃあ働かなきゃいいんじゃない?その選択肢はさいきんけっこう濃厚になりつつある、全く働きたくないわけじゃなくて自分のペースメーカーのためにも週に3, 4回くらいはしごとをしたいなと思う…、いまの仕事はとくに私の神経症を簡単に刺激するのも辛い。B&Bではこの本も読んだ。

なるべく働きたくない人のためのお金の話

なるべく働きたくない人のためのお金の話

 

 ざっと立ち読み(正確には座ってたけど)しただけだからあんまり内容は覚えてないんだけど、こういう、「必要最低限のものでゆたかに暮らす」って宣言には、こんまりよろしく、断捨離よろしく、ミニマリストよろしく、いつまでも憧れちゃうな、「やりたくないことを明確にしよう、そのリストは更新していこう」ってのは本当に真理だ…

(↑ちなみに本の内容はだいたいここに書いてある[気がする]。)

こういう生活も実践してみっか…と思う一方で、今月わたしは新しい靴を買ったしカバンも買ったし服も買った、「仕事からのストレスから解放されると欲も減ります、請求書のために働く人生、資本主義のハムスター乙。」という真言が気にかかると同時に、しかしそうやってお金を使って自らを更新していく気持ち良さを、私は知ってしまってもいる。

日曜日の夜は常に葛藤よのお。しかし葛藤のバリエーションにも限界があり、最近はもっぱら、働く・働かない問題、不安症問題および他人のフリした自分の内側の声に押しつぶされそう問題、そしてほんとに好きなことは何なんや?問題の三つくらいで、しかし三つは密接に絡み合い、私の人生を混乱させる。もやもやとした気持ちは誰かに話したくなるけれど話すような友人もおらずまた何を言われたって解決しないのだからこうやってブログに書き留めるのが正解なんだけど。かつて、「明日なに着て生きていく?」という広告コピーをアパレル会社が出したことがあったけど、その、「生きていく?」の問いかけの調子だけが頭のなかに響いて響いて、あー私は明日、どうしようかな、明日は月曜日なので私の運命は決まってるんだけど…、どこかで私がもうひとり、月曜日のB&Bに行ってまた本を積み重ねては読み、でも結局、紙面にその問いかけを見出しちゃって頭を抱えていて、それは私の未来のようで、過去のようで、逃れられない自分の本性なんだろうな、という諦念。