無言の留守電

なかなか空気が冷え切らない冬の日、夕飯を作っているときに不意に祖母のことを思い出した。祖母は八年前に他界している。
たくましい人、という形容がよく似合う人だった。死の原因となる病気に身体を乗っ取られるまで、二本足でひょいひょいと歩き、飯ももりもりと食べた。先日、また家族でディズニーランドに行ったが、家族で「そういえばおばあちゃんはずっと絶叫マシンに乗ってたねえ。平気な顔してたねえ。」と盛り上がった。とりわけ、夕飯を作っているときに祖母のことを思い出すと、熱い鉄板などものともせず素手で握り持ち上げていた祖母の厚い手のひらのこと、それに「焦げの部分に栄養があるのだ」と言ってはばからずに料理の黒い部分を食べたことが蘇る…とまあ、こんな具合にていねいに記憶をたどるときりがない。

祖母が死んだのは、膵臓がんのせいだった。あまり覚えてはいないが、がんだとわかってから多分、一年くらいで逝ってしまったと記憶している。膵臓がんは癌のなかでもとりわけ難しいものとされており(と当時聞いた)、噂に違わずそれは祖母のたくましさをあっというまに奪っていった。
食欲が減り、体力が衰えた。家の前の階段でつまづいた(つまづいてもそれが決定的な寝たきりにつながらなかったことは祖母の名誉だが)。
そうこうしているうちに、ぼけはじめた。

ぼけは見聞していた以上に悲しい病気だった。トイレがトイレで出来なくなり、母が慌てて祖母をトイレに連れて行く。得意だった編み物を忘れ、リハビリ代わりに母が簡単な編み物キットを買っても完遂できない。ぼけていく記憶とたくましい彼女の精神は悲しいまでに拮抗し、どういう流れだったか忘れたが、ある日に祖母は

「はやくしんじゃいたいやね」

とつぶやいた。私はとにかく「そんなこといわないで」と返した。「そんなこといわないで」以上に返す言葉が絶対にある、とめまいのなか必死で考えながら、それでも何も思いつかず、すっかり曲がってしまって断崖のようになった祖母の背中に手を添えた。

お涙頂戴ばりにここまで書いているが、そのときの私は弱る祖母を支える孫でも、それをさびしく見つめる孫でもなかった。そんないいやつではなかった。もちろん、支え、見つめ、死のむごさを感じていたわけではあったが、私はそこまで誠実ではなかった。

祖母が死んだ年は、私が大学に受かった年だった。たしか、私が大学合格を決めたときには祖母はそこまで衰えてはおらず、合格の電話を入れると「よかったねえ!」とはしゃいだ声がきんきんと返ってきた。
そこから急速にぼけが進んだらしい。上京したばかりの四月、私のところには三日とあけず、祖母から電話がかかってきていた。昼間は大学に通う私の携帯には留守電ばかりが残った。留守電といっても、たいていは「元気にやってるー?」「ばあばでーす」と言うだけ言って、切れてしまうものだったとおぼえている。

この、「鬼留守電」とでもいうべき彼女の連絡に対し、正直に告白すれば、「めんどうだなあ」という気持ちが私の心のどこかにあった。いや、さすがにめんどうだとは思わなかったかもしれないが、憧れていたキャンパス・ライフの中に身を置いていた私が、病気に身体を侵された祖母を心配し早く電話をかけ直さなければ、とはなかなか思えなかったのはその通りだった。ある日、こういう留守電が残っていた。

留守電は、ほとんど無言だった。故障か?と思って聞き続けていると、遠くから若い女性の声で、
「お孫さん、忙しいのよ。」
と聞こえ、留守電はそこで終わった。
おそらく、無言の留守電の背景はこうだった。普段どおり祖母は私に電話をかけた。しかし私は出なかった。電話は留守電へと切り替わる。祖母は電話を切ることも、メッセージを思いつくこともできず、ただ携帯電話を見ていたんだろう。そこに現れた看護師が電話を切ってくれた。

この無言の留守電のあと、祖母は一ヶ月もしないうちに永眠した。私が大学に入って数ヶ月が経ち、はじめての大学祭を終えた翌週のことだった。祖母の死の連絡があった次の日から帰省して、通夜と葬儀に出、大泣きした。しかし頭のどこかで、私には大泣きする資格があるんだろうか?とも考えていた。しんじゃいたい、とつぶやいた祖母に「それでも生きていてくれてうれしい」と返したりだとか、留守電に一個一個かけ直したりだとか、そういうことができる人だけが大泣きできるものなんじゃないのだろうか?通夜と葬儀を終えたあとに自分の携帯電話に残る留守電を何度も聞き直した。なんであのとき、「めんどうだ」なんて思っちゃったんだろうな。近いうちにしんでしまうだろうことは分かってたのにどうしてもっと愛情をもって尽くせなかったのか。いや、愛情がなかったわけでは全くないのだが、私が持っていた愛情が、どうしてもっとわかりやすく、相手の気持ちにあたたかいものを残すものとして表出しなかったのか。どうして自分の愛情が相手にとってそのようなものになるように、私は努力しなかったのか。
それでも私は大泣きした。そして、おなじことが次起こっても、私はうまい愛情表現をおもつかないし、留守電に返事をしないんだろうとも思う。

留守電はずっと保管しておこうと決めていたが、その三年後くらいに何かの拍子で携帯電話を落として壊し、全部のデータがなくなってしまった。

ああ祖母。そういえばあの頃はまだ、みんなガラケーだった。それを使って孫に電話をかけた祖母。膨れ上がった留守電。元気だった祖母。同じくらい元気に大学に通った私。死際には会えず、母からメールだけが入っていた。あの頃はまだ、LINEも使ってなかった。LINEだったら、もっと会話できただろうか?祖母はメールをしなかった。

急になぜ、いまさら、祖母のことで鼻を痛くしているのか、わからない。私の気づかないところで、祖母がはるばる東京のわたしの部屋までにじり寄っているのかもしれない。霊ではあっても、二本足でひょいひょいと来てくれているといいのだが。