六月-九月合併号

 働いているといろいろと億劫になる、というのは言い訳かもしれず、働く以外に何もしないでいると何をするにも億劫になる、というのがおそらく正しい。そういう状況が後ろめたくまた情けなく、なので最近は強制的に朝、英語のレッスンと自分の勉強を行うようにしていて、やっているとそのうちにそれらが自分の中の大事な部分として育ってくるから不思議だ。

 唐突な話から始まったが、もろもろの活動も初夏以降かなりまったり。記憶を掘り起こすと&積み上げていた出品リストの山を取り崩すと、とりあえず初夏はパナソニック汐留美術館の「クールベと海」展に行っていたらしい。これはいまでも鮮明に思い出せるくらい良かった。以前「眠り」展に行ってそのキュレーションのある種のこじつけっぷりに少し辟易としたことがあったのだが、こちらはクールベの変遷と、海というモチーフを対象にした作品の比較が淡々と誠実に行われる展示で勉強になった。「波」(1869、愛媛美術館所蔵)、「エトルタ海岸、夕日」(1869)、「波」(1870年頃、姫路市立美術館所蔵)、「水平線上のスコール」(1872-1873)、「波」(1874年頃、山寺後藤美術館所蔵)などが気に入って、海以外の作品だと「狩の獲物」(1856-62年頃)という作品が気に入っていた模様。「狩の獲物」は構図的に奥に奥に視線が移るようになっていて、『絵画を読む技術』の模範解答のような絵だったのでそれも勉強になった。

 

 多分他にも美術館には行っていたような気がするが、ワクチンを打って気が抜けたので日本各地の旅行の中で地方の美術館と博物館によく行っていた。これまでも旅行の間はそういう文化施設に行くように努めていたと思うのだが最近になってようやく、地方に美術館や博物館がありまくることのパワーを思い知った。どこも展示や説明、蒐集に力を入れており地域の知を残そうとしている。それでもフランス近代絵画が展示として非常に多いことは気にかかるところであるのだが…(クールベ展絶賛しといてなんやい!)。あと芹沢銈介の作品もまとめて見た。私は日本近代以降の作家に非常に疎くそれがなんとなくのコンプレックスだったので一個一個取り返していくつもりで見ていこうと思っている(全然ジャンル違うけれども、柚木沙弥郎とか、若林奮とか、なぜみんなあんなに詳しいのでせうね)。日本近代以降の作家はゆかりのある土地でやはりしっかりと史料を保管して展示していたりするのでそういったところをぬかりなく活用していく所存。

 本のほうはそれほど読んでなかった。こちらは仕事が忙しくなると目に見えて読書量が減る。仕事以外の時間に頭を使っていたくない…という悲しい事情によるものなのだ。つまり読書が癒やしには根本的にならない種類の人間。マン・レイ展の帰りにミュージアムショップでなぜかジャン・コクトーの『恐るべき子どもたち』を買って読んだ(マン・レイがコクトーの写真を撮っていたのだ)。この作品(1929年、仏語)といい、バタイユ『眼球譚』(1928年、仏語)といい、フランス語文化圏のこういうのびのびとしたやりとりは、えたいのしれない、ぶよぶよと噛み切れない何かを食べさせられているような気持ちにいつもなる。時代も問題設定も違うがアゴタ・クリストフ『悪童日記』(1989年、仏語)も同じ。ロメールの映画のやりとりにも同じものを勝手に感じる。(ちなみにマン・レイの展示についてはポートレートはかなり良いと思ったが、そもそも被写体が良かったということもあるかもしれない。)ほかはカポーティの『遠い声遠い部屋』を読んで、こちらも(も?)子ども時代の純粋さが多分に反映された作品ではあるがフランスのそれほど読んでいてつかみどころがない感じは無い。幻想的だが不安にならず子どものうつろいやすい心情として受け止めることができる。サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のような鬱屈とした心情描写があるかと勝手に思い込んでいたがインターネットの海を漁ると「サリンジャーの作品は都会的な感性の中で繊細な世界が描出されるものでしたが、カポーティの作品は田舎の土臭さの中からどこか都会的な虚勢をはっているような脆さがあったように思います」というようなことを古本屋の人が言っていてまあ両者は全然違うものなのかもしれない(人文と社会の書林 2019)。ただどちらもいずれにせよ私小説的な、自分の心情を探りかき混ぜ読者に見せつけるような文章ではあるんだろう。村上春樹がふたりとも訳しているのでどこかに文章を寄せているかもしれない。

 あとはそれなりに歌舞伎を見た。下の巻になった桜姫東文章はやはり、レイプされた女が男に恋に落ち、しかしやはり家の道理に収まっていくという構造はどうなのと思ってしまわないでもなかった。四月では理屈を超えた存在を玉三郎がどう表現していくかが気になっていたがどちらかというとこの筋の理屈をきちんと演じきっていたという印象。筋を演じきることから超越していたのは仁左衛門のほうで、権助のいやらしくも惹かれてしまう感じ、清玄の気色悪くしかしこちらも憑かれそうになる感じ、どちらの役の演技も見入ってしまってしかもそれを一人でやっているのだというのだからもっとすごい。彼の向こうに見えた人魂とあわせて記憶に残っている。あとはシネマ歌舞伎だったけれど『鰯売恋曳網』も見て、これね、こういう話ね、こういう話を見ていたいよね、まあこれもお姫様が男を追って遊女になるという、ちょっとずっこけそうな設定ではあるがかの時代の遊女というのはいまの乃木坂みたいなもんなんですよね、わかっていますよ。中村勘三郎(十八代)はあんまり見たことがなかったが軍物語を語るときのすさまじさ(ほんとにうまい)…お話もハッピーエンドだし、思わず帰り道に「いわしこ〜うぇい」って口ずさんでしまうのんきな感じもかわいい。私は三島由紀夫をはじめて読んだ作品が『潮騒』だったというのもあってこういうかわいい話しか書かん人と勝手に思っている節がある。そういえばNetflixに入っている三島由紀夫vs東大全共闘も見なきゃだな…。おしまい。