勝手にふるえさせてほしい、勝手にふるえてろ

主演の松岡茉優さんとやらの演技がよいと聞いていて、わたくしわりと実は綿矢りさが好きなので観に行った! つっても綿矢りさの熱心な読者というわけではなく、読んだことがあるのは『インストール』『蹴りたい背中』『亜美ちゃんは美人』『かわいそうだね?』くらい。あと昔新潮?すばるかもしんない、に載ってた三姉妹がどうこうとかの話も読んだかな、タイトル忘れちゃったけど。

私が綿矢りさがわりと好きなのは、人生における“ぎこちなさ”みたいなものを鋭く描いていると思うからだ。主人公だとか対象になる人はどこか人生とか生活に対して斜に構えている人で、そういう人とナナメの人もしくはまっすぐな人がこすり合って生まれてしまうぎこちなさ。思惑と感受が見事なまでにかみ合わなくって、でも赤面してるのは読者だけっつう、その絶妙な置いてけぼり感を好んでいる。

『勝手にふるえてろ』に関しては私は原作を読んだことがなくて、まああらすじから紹介すると、この話の中心人物は経理係で平々凡々な毎日を送るけれども引っ込み思案で人と触れ合うことができず、趣味はwikipediaで絶滅した生き物のページを読むこと、しかもたぶん2017年現在25歳?とかなんだけど男性経験がないいわゆる処女っちゅう、「一見まともだけれどもどっか穴が開いてる」という綿矢りさの小説の主人公そのものの女性。物語の軸はその主人公が社内の男性「二(2、に、ニ)」に交際を申し込まれることで進む。女性はその人とデートにいったり、中学から十年間!恋慕をよせ続けている「一(1、いち、イチ)」と呼ばれる男性と同窓会で再会したりで彼女自身の感情は揺れ動き、変化していく。まあ、あとは見てねor読んでね。

さて、どうなんだろうなあ、一言でいっちゃえば綿矢りさの、上述のような、人生に対する「ハッ。ていうこのスタンス」(『蹴りたい背中』)を好んでいる私からしたらこの映画作品はいまいちだった。『勝手にふるえてろ』(映画)はびみょ~~~~にゆがんだ二人が若干?寄り添って?いくっていう話なんだけど、なんかその寄り添い具合が気に食わなかったんだよね。なんつうか、これはもしかしたら作家にとっては最悪の、作品の享受の仕方なのかもしれんけど、私は綿矢りさには、ずっと背中を蹴り続けてほしかったんだよね!わかる?「恋愛?何それ?ハッ。ていうこのスタンス」。そう飄々と、世間に背を向けながらたまにちらちらとそちらを振り向く、そういう我々の「リアルさ」を私は綿矢りさ作品に求めていた。だって人間、だれだって自分が人生に対して「おれは一味違うぞ!」と思い続けているし、かといってそういうわけじゃないし、かといって人生すべて捨てられるかっつうと、そうじゃないわけじゃないですか。そういう人生のせつなさおよびリアルを、バランスよく正直に告白してくれる作家、としての綿矢りさがかなり好きだった。

でも映画はどうだろう。なんつうか、映画である程度“生身の”人間が画面にあらわれてしまう以上、どうしてもそのバランス、拮抗が崩れていくのだ。ねえーーーー、綿矢りさの女の子には背中を蹴り続けて欲しいんだよ!キスなんてしないでほしいんだよ!キスしながら腰に手を回されたりしないでほしいんだよ!そんな平々凡々でとち狂ってる男のどこがいいのーーーーー!!!!っていうエセ親友ポジションみたいなそんなセリフがつい出てくる。ごめん!懐古ババアで申し訳ないけれども、でも、『インストール』であなたにほれ込んだ私としては、そういうあなたで居続けてほしかったんだーーー!!!

とかいうそういう感想。でも原作読んでないからなんとも言えないよね、すべての責は綿矢りさにはないのかも。映画としての出来不出来は?よく?わかんない、でもすべての“不自然”が“自然”に進行していてそのへんはうまいなと思ったよ。Be happy 恋人たち。せめて平々凡々な恋愛が自分にとってスペシャルだと信じ込み続けていてくれよな。

 

あ、ちなみにここんとこ、映画+焼き菓子とかを映画館に持ち込みアレというのをやっていましたが、今回はサダハルアオキのエクレール・ショコラとベルガモット味のマドレーヌを持ち込んだ。けれどもやはりケーキというのは朗らかで明るいところで眺めながらその視覚を味覚と誤解しながら楽しむものであって、暗闇のなかで口に突っ込むだけじゃなかなかね。家から持って行った水筒入りの鉄観音茶がまあまあうまくて癒された。