3月

ミン・ジン・リー『パチンコ』上・下(2020年)

パチンコ 上 (文春e-book)

パチンコ 上 (文春e-book)

 

  ツイッターでのレビューもアマゾンのレビューも良かったわりに私としては全然好きじゃなくて読書時間の9割で苦痛を感じていた。が、最後の最後で話の終わらせ方、収束の仕方は説得力があって、この1割のためにこの本は存在するのかな。となんとか持ち直した本。

 苦痛を生んだ理由のまずい点の一つは登場人物の造形がありきたりな韓国ドラマっぽく、かつそれだけなら構わないのだがそれがリアリティに全く結びついていないところ。ソンジャまでは良かったが、魅力的で裕福だがしかしアウトローなコ・ハンス、こちらもまた男前で、コ・ハンスの子どもを身籠るソンジャを無条件に救ってくれるパク・イサク、人生に苦労せず天真爛漫でしかし核心を突くような発言ができる晶子、黒田教授の描写が最も浅薄で、1960年代という時代に女性という立場ながら教授職を得ているにも関わらず「女の一生は経済的地位と結婚相手によって決まる」と強調する――など。と、まずい点一点につきこのペースで書き続けるほどの熱量も無いので残りについては具体例を提示することなしに話せば、文体、翻訳、人物の描写の乏しさ、ストーリーの陳腐さ、むやみな性描写、在日韓国朝鮮人の歴史の欠如、物語中に登場する日本人の異様な物分りの良さ、チャプターごとに区切って世代という時間の移り変わりを表現するという乱雑さ(『百年の孤独』の流れるような時間描写を読んでほしい)、どれもが気に触ってしまった。特に歴史が欠如している点については期待はずれだった。しかしもちろん私のこの期待も、文学・物語に対して我々が持つ苦闘の歴史をわかりやすく紐解きおもしろおかしくストーリーに仕立ててほしいと望むのは傲慢なような気がしないでもないので、おおっぴらには言わないが、しかしやはり関東大震災のデマ、戦時中の韓国朝鮮人の扱われ方、そこにおけるコミュニティの形成――などに触れないままに話を進めてしまうのは、「どうしてこのテーマを作者は選んだのか?」と疑問に思わざるを得ない。

 途中で何度も放り出そうと思ったがしかし読みきらないことには文句もつけられないかと思って最後まで読み進み、すなわちソロモンが結局はパチンコ業を目指すところに当たったところでようやくこの物語が持っていた物語の力が見えたとは思う。ソロモンは自分の曾祖母から四世代をかけた教育を施され、インターナショナルスクールに通い、アメリカの大学に学び、外資系の銀行に勤め、韓国も日本も「脱色」された存在になろうとしていたところで、結局はソロモンの信頼する人々もソロモンを「在日」というカテゴリで扱いたがり、そしてソロモンもまた自分自身をその期待から自らを切り離すことができず、そのカテゴリが究極的に所属してしまうことになるパチンコ業という運命を受け入れる。ヤンジンの世代からパチンコ玉のようにもがいてきたすべての命と人生が、パチンコ玉がパチンコ台の穴の中に静かに吸い込まれていくように収束していく様は、移民を経験するすべての人々が、そしてその中でもとりわけ日本という奇妙な国に住む韓国・朝鮮のアイデンティティを持つ人々が感じることになる一つの真理なのだろう。

 

3月は『パチンコ』を読み切った他にタレブ『身銭を切れ』を読んだがこちらは生活に根ざしたリスク感覚でかつリスクを取っていこうね、というなんということは無い本で、グレーバー『ブルシットジョブ』にも近いものが感じられたが、グレーバーがそれなりに理論を構築しようとしているのに対しこちらの本はどちらかというとエッセイじみていた。それが悪いことでは全くないのだが、私の期待とはずれてしまっていたので消化不良感が残った。

 

他、3月はあまり本も読めず美術館にも行けずだった。歌舞伎にも久々に行かなかったが玉三郎の隅田川は観に行けば良かったと後悔している。宮藤官九郎の『俺の家の話』がおもしろかったと母親から聞いて、うちにはテレビが無いのだが、「隅田川ってこれかー、ハーン。」という気持ちになりたかったところはある(クドカンのほうは能の一家の話と聞いているが)。宮藤官九郎は『あまちゃん』を観たのが最後だけど本当に話作りがうまいのでどこかの機会にまとめて観たいと思っている。

 

春はいつも、自分が頑張ろうと一念発起していた時期ーー具体的には大学入学時や、ゼミを決めたときなどーーを思い起こすので、そのとき思い描いていた人生と少しずれたところにいる現在の自分の有様を思い憂鬱だ。また新年度が始まる。