一月

1月

仕事もなく暇だったのでこまめに本を読もうとした。働いているときに比べればよく読むことができたが想定より進まず。といっても私という人間のキャパシティはこれくらいなのかも、と思って許してはいる。以下、本、映画、観劇、美術展について観た順。

壇浦兜軍記 阿古屋

これ
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E%E5%90%8D%E4%BD%9C%E6%92%B0-%E5%A3%87%E6%B5%A6%E5%85%9C%E8%BB%8D%E8%A8%98-%E9%98%BF%E5%8F%A4%E5%B1%8B-DVD-%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E/dp/B000JVSVKG

今年は歌舞伎に詳しくなろうと思い、2020年からちまちま観劇をはじめていたのだが2020年12月歌舞伎座公演の日本振袖始大蛇退治の玉三郎が非常に良かったので、年も改まってめでてえことだし、新年明けて和楽器の演奏を聴くのもよかろうと思い年末にDVDで購入。むか〜しに若手が阿古屋をやったのをどこかで観たことがあったがどうも演奏がいまいちで、複数の楽器を披露しなければならないし大変だろうなあとは思っていたが、こちらの玉三郎はさすがだった。そもそもほんとうにお綺麗だし、演奏もすばらしく情感がにじみ出て、着物も素敵でうっとりと夢心地だった。秩父庄司重忠を中村梅玉、岩永左衛門を勘三郎がやっているのだが、教養と人情に裏打ちされた懐の深さを顔の表情一つで見せる梅玉、勘三郎の「人形振り」の徹底した人形らしさと滑稽み、と非の打ち所がなくいわゆる「神回」のDVDだった。二月も玉三郎が歌舞伎座に出るというので漏れなくチケットを買おうと思っている。

JR上野駅公園口

全米図書館賞受賞ということで新年一発目の読書だった。東京とその周辺、中央と地方、福祉と共同体、というような複数の対立軸が「ホームレス」という事象に集約される。原武史の解説含め面白く読んだし日本社会にまさに「切り込んで」いる話だった。一方で、小説として物語的愉悦さはいまいち感じられない。この間友人と、やはり小説を名乗る以上読み手をどきどきさせるものでなければならないのでは、という話をしたばかりだったので気になった。

ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論

ブルシットジョブの発生の根源的な理由は人間の集合の膨張にあるのではないか?つまり、ケアリング(に準ずる仕事)を提供する際に、それが同一人物によって遂行されるのではなく異なる複数人で提供されなければならない場合、フォーマットは(コンピュータが認識できる程度に)平準化されたものでならず、平準化するために、かつ元の姿形もなく平準化されたものを行うためにブルシットジョブは生成される。近頃、何もかも全てが人間にとっては早すぎたのではないかと思うことがある。SNSはもちろん、国民国家も、民主主義も、人が集って暮らすことも。それがアメリカ民主主義の状況で、パンデミックに対する日本政府の動きに顕れているようで。

蟹工船 一九二八・三・一五

『ブルシット・ジョブ』も読んだし『人新生の資本論』も読んだし、資本主義をどこまでも嘲笑ってやるケケケと思っていたのだが蟹工船は「ブラック企業」という事象を超えてただただ人権が無い使い捨ての存在として労働者が扱われており、(こういう表現が人類の進歩に全く寄与せずむしろ後退を誘発しかねないことは重々承知なのだが)「あっ、まだマシかも」と素直に思ってしまった。文学を自分の感情の出口として使い倒す読書――つまり自分の状況を文章内に見出し共感を求めるだけの読書はあまり健全ではないのだろう。自分の感情は自分の文章として、自分で整理すべきだった。

直接は関係無いが、労働に関する一連の書籍を読み、重ねてそれらへの書評やコメントなどに目を通していると「資本主義」「企業」「組織」「過労」というのは同じ事象かもしれないが概念としては違うような気がする。その区分けもなされないままの議論が多く、インターネット特有の言い争いにつながっていることが観測された。

ブックスマート(オリヴィア・ワイルド、2019年)

非常に楽しく青春群像劇として良い映画ということはさておき。映画の小道具的に思想が使われることに辟易とした。つまり、主人公の部屋に”A Room of One’s Own”と書いてあったり、自分の外見を卑下する主人公にその親友が平手打ちをかまし、「私のゴージャスな友人にそんな酷いこと言わないでよ!」と言ったり、…、いくらなんでもそんなんしなくない?「21世紀のPCに着いていけてますよ、私」というアピールが映画のストーリーから油のように浮いていて目についた。例えば2020年に大流行したらしい『愛の不時着』はおそらく30代の女性主人公が、「結婚もせず」「社長として企業・韓国社会をリードするほどに働いている」ことについてストーリー上、何の言及も(確か)なく、それらが映画の空気の一部として透明に描かれていたことが称賛の一つにあった。もしここでそれぞれに関する主張が小道具的に立ち現れるなら、それらの思想がひどく目立って逆にうさんくささを覚えてしまっただろう。女性、若者、そういった存在が今度当然に身を置く新しい時代について、それぞれの存在意義がいちいち小道具やセリフを用いて主張されるものではなく、自然に画面にあってしまう作品がもっと増えれば良いなと願っている。

最後の主人公のスピーチで、「私はあなたたちが怖かった…」と告げるところは映画中ずっと気が張っていた(そして上記の通り、存在自体がPCの小道具にされていた)主人公のはじめての本音でさわやかに心に残った。

ダンサー・イン・ザ・ダーク(ラース・フォン・トリアー、2000年)

ラース・フォン・トリアーは「ニンフォマニアック」を観ていた。これは1も2も観ており、2は単純なポルノだと思ったが、1はそれなりに好みだったかなと記憶している。「ニンフォマニアック」に続き、この作品も女性をまさしく痛めつける描写に長けているな…と憂鬱になった。ラース・フォン・トリアー自身、セクシャルハラスメント問題があるので彼自身の最悪の性癖とこの映画の描写に繋がりがあるのだと思うと気色悪いが。サディスティック的描写は置いておきつつも、たとえば主人公の空想のミュージカルシーンも一貫して幽霊的な薄気味悪さがありどこを切り取っても辛い映画だった。

記憶にございません!(三谷幸喜、2019年)

三谷幸喜ってこんなに痛々しい脚本書いてたっけ…。ギャグもずっと滑ってるし政治の描写について厚みはあまり無い。勧善懲悪的ではあるのでそれは観てて気持ち良いのかもしれないが。

独学大全

東大の書籍部で非常に売れているらしいと聞いたが本当だろうか?確かめようはないが。東大だけでなく優秀な学生はここに書かれていることを、息を吸うように吐くように幼少期からトレーニングされているものだが、優秀な学生でなく且つただ「もうちょっとなんとかやれたのではないか」と未練のある会社員にとっては、改めて「研究のためのツール」を提示してくれる書であるため魅力的なのではないかと思う。

ただ、「方法論」ではなくあくまでも「ツール」で一つ一つのツールをビュッフェ的に組み合わせるだけでは機能しないと(曲りなりの大学院生活を経て)直感的に思うところではある。ツールの有機的連合、という部分にもつながるのだが、「調べ物」にしろ「研究」にしろやはり「問い」を立てるところが肝要であり、その点については本書では触れられていないのだ。「問い」は「わからない」部分とは微妙に異なり、つまり、自分が知らず、かつ世界も知らず、しかし知れたら世界にとって有益でありかつおもしろいこと、を語るための踏み台のことであると私は思っているが、ここが欠如していると人は研究を進めることができないし、論文を書くこともできない。その「独学」が行き着く先は「調べ学習」というどん詰まりだ。もちろん、「問い」を立てる力とは読み、書き、のトレーニングの中で徐々に形成されていくもので、理由をつけて立ち止まってしまうことが一番の悪手なのだが。私は学究の世界に未練がありありと恥ずかしげもなく残っているが、この力を身につける鍛錬をさぼりつづけているので、いつまでたってもツイッターのリロードを繰り返しながら隣の世界を「いいなあいいなあ」と眺めている会社員のままである。

石岡瑛子「血が、汗が、涙がデザインできるか」(東京都現代美術館)

この表題は石岡の発言の引用なのだけど、そもそもこの言葉が格好良すぎるよね。特に前半のグラフィックデザインの特集が良かった。資生堂時代の仕事は才能が爛々と輝くようで最初から度肝を抜かれた気分。後半の舞台芸術のパートはあまり好みではなかったが…。グラフィックデザインについては私はあまり明るく無いはずなのだが、1970年代、グラフィックデザイン、と言われて平均的に思い浮かべるもののベースに石岡的な要素があるのかもしれないと彼女の作品を見ながら思った。デザインに疎い人間の頭にも刷り込まれるほどに普遍的な部分を作った人なのだなあ。

黒執事

全巻無料だったので、途中で挫折していた分から最新30巻まで読み進めた。私は例の展開を全然知らなかったので楽しんで読んだ。ちなみに黒執事は連載から10年以上経っているらしいのだが、ここからまた使用人一人ひとりのエピソードが始まっていくらしくこれもまた長引きそうだなとやや疲労感。もう使用人のエピソードってだいぶ前にやったことない?

琳派と印象派(アーティゾン美術館)

なぜ琳派と印象派の組み合わせなのだ…と奇妙に思った。展示のキャプションには「大都市における洗練された美意識」の検討のためと書かれていたがそれだけで繋ぎ止められるほど密接な要素なのか?もちろん印象派の多くの画家が日本文化に影響されたことは言うまでもないが、それは取り上げる話題としてはすでに平凡すぎるように思うし実際この展示でもそれほど強調されていたわけではなかったし。

作品はそれぞれ非常によく見応えがあった。特に俵屋宗達の蔦の細道図屏風は躍動感が、堺同一の松島図屏風は大胆な波の中に見える繊細な筆の運びが気に入った。

キュレーションについては上記のような疑問は残ったものの、それぞれの流派の説明や絵画的特異点の説明、比較検討など見せ方は工夫されていたので勉強になった。また、時間がなく駆け足になってしまったのだが、常設の作品も充実していたので東京駅周辺に行くときにはふらっと立ち寄りたい。

ボヴァリー夫人

エミリー・ラタコウスキーがVogueの73 Questionsの番組
https://www.youtube.com/watch?v=YAk_SNu1QNk&ab_channel=Vogueでボヴァリー夫人について触れていてボヴァリー夫人という女性の像がずっと心に残っていたので図書館で見かけたときに読むことにした。フランス小説については、高校のときの教師が「情景描写が徹底的なのがフランス小説の特徴で(読みづらい)」などと通り一遍のことを言っていて、その妥当性はともかく、その印象のまま大学に入って『赤と黒』『感情教育』…あたりは読んでいた。加えてサガン、…多分その他諸々記憶に残っていないもの。サガンは非常に好きだったがいわゆる19世紀の文学にどこまで没入できたかというとその時はぼちぼちかな、という程度だったのだが、今回の『ボヴァリー夫人』は物語としての面白さも含め、人間の感情の“転向”(特に恋心のそれ)、“転向”の際の描写の正直さ、物語と感情を反映した情景…とすべて感激的に読み進めた。どこを切り取っても興奮しすぎるほどに充実した文章が続いていき退屈せず、読みづらさからは程遠い読書体験だった。女性が不倫し、惑わされ、狂い、倦み、死を希う、というのは『アンナ・カレーニナ』に続く典型で、恋や愛にまつわる感情に関してこうした舞台装置が用意されているのは、特にその舞台装置が既婚女性という性・身体を通しているという点で、どこか因縁をつけたくなる気がしないわけではないが(その既婚女性の像はしばしば、滑稽で物分りの良すぎる夫によって補強される)。もちろん時代や、この舞台装置であるがゆえの小説的面白さは理解しているので、同一のテーマを別の設定で描くような物語小説が生まれるとよいな、というくらいの気持ち。

ダブル

友人に勧められ、最新3巻まで。鴨島・宝田双方の話が同じ質量で展開していく点がおもしろい。読書前の私の予想としては、鴨島のメンタルくそみそ話か、映画Whiplash(邦題「セッション」:作中に出てくる黒津監督の造形がフレッチャーのもろオマージュだったので笑ってしまった。「フェラチオ」とか言う言動も)のような宝田自立のスパルタ教育話になるのかと思っていたが、二人の人間関係が変化しながら、二人の俳優としての技量も一進一退しながら、線的ではなく曲線的に描写されていく話だった。

ただ鴨島の「女房」と言わんばかりの滅私奉公ぶりは表象としてやや不気味で、宝田の才能に惹かれた以上の説明があってもよいのではないかと思う。既刊3巻の続きはどこかの漫画アプリで読めたが、本作表題の「ダブル」と同じ名前の公演の準備のシーンなのであと1, 2巻で完結するのかな。

 

1月はあと1週間を残すが、来週から忙しくなると言われているし土日以外はあまりぷらぷら遊んだりは出来ないだろうな。なんとか適度に仕事をさぼりつつぷらぷらできるようにしたい。