秋の終わり、将来の夢

寂しさとか孤独について話してしまうのはみっともないといつも感じている。特にその書き方によっては、感情の動きについて上辺だけの過剰な言葉で描写しただけの、昨今のインターネットでよく見られる文章になるため。それに、そういう状態がこれまでの人間の歴史の中で生まれてきた数数の表象文学の礎となってきた側面に、私は盲目的な憧れを抱いていることもあり、その感情を何かにまとめあげず、ただインターネットに「さみしい」と投げ込むだけで終わってしまうことに口惜しさを覚えるのが常だった。
働き始めて、そういった感情とはまた異なる寂寥感が訪れるようになった。働き始めてなのか、それともその時期と重なるように始まった諸々の出来事が原因なのかは知らないが…。仕事がもたらす寂寥感は疲労と共にやってきて、別の表現に昇華されることなく、私の精神のやわい部分を苛む。ただぼうっとして、その感情が過ぎ去るのを待つしかない。ただ、インターネットにある有象無象の、なんにもならない、ぶつぎれの文章を眺めるほかない。…非常な人生の(余白ではなく)無駄だと思えて煩わしい。精神をも、巨大な「主義」に明け渡し始めている自分を見て見ぬふりをしている。虎になれれば良い方で、あれほど痛切に感じ、また同情できることに喜びを覚えた「自尊心」も「羞恥心」も、私の手元にはもう残っていないような気がする。