労働に関する70回目くらいの低空飛行

いろんなことを書いては消し、書いては消ししているが、なかなか真剣に書こうと思うと書ききれなくて、怠け者のパターンだと思う。真剣に書くためには真剣に考える必要があるのだが、「書かなければ」という焦りでペンを握るときはたいてい考える気力が無いときなのだろうが。

最近読んでいる本として、『ブルシットジョブ』を読んでいる。話題書である。この本を手にとった人に確認する必要はあるのだが、この本を読もうと思った人の多くは「自分の仕事はブルシットジョブなのではないだろうか?」=「自分の仕事はブルシットジョブなので、ぜひ誰かが弾劾してほしい」という期待を込めて本を買ったのではないだろうか。私自身がそうだった。久々にこのブログカテゴリーを使っているわけだけど、最近仕事量が尋常ではなく仕事のやってくる月曜日が嫌だ。ついでに「仕事のやってくる月曜日が嫌だなあ」と思っている土日も嫌だ。仕事中、楽しいと思える瞬間も少なくて、かといって父親にそれを相談すると「楽しい仕事なんて無いぞ」みたいなゴミみたいな答えも返ってくるし、そもそもこの仕事って社会にとってどういう意味が?という大上段の話ばかり思ってしまって人生が前進しない。この不満を代弁してほしくてこの本を取ったわけだが。

あらかじめお断りしておくと本自体はまだ半分までしか読めていない。しかし半分程度まで読んで「もしかすると私の仕事はブルシットジョブでは無いのかも」と薄々思い始めている。もちろん最後まで読んでからもう一度考えてみたいとは思うが…、少なくとも仕事中にSNSをやる時間は(あまり)無い、意義があることかどうか?という点については判断は難しいけどお客さん先では感謝されることも多く、仕事の内容それ自体も巡り巡って社会のためになることもあるのかも…いや、この考え自体も自己防衛なのかもしれないが…等々。仕事内容は詳しくはここには書けないのは当然なのだが、私が働く業界は時折「存在意義がよくわからないよね」と嗤われる業界で、そういったところへのコンプレックスもあるし、ただ確かにこの業界が必要とされる社会構造自体がどこか変なんだろうなと思うことは大きい。云々。特に『ブルシットジョブ』においても、ブルシットジョブが生み出される社会構造についての話が第5章以下で語られるとのことなのでそこで私の考えがまとまるかもしれない。

そういった「期待はずれ」はともかく、仮に私のいまの仕事がクソどうでもいい仕事でないとするなら、ここ数年の私と私の仕事の不協は私自身の判断力不足のせいとしか言いようがない。先の私の父親の話を持ち出すまでもなく、仕事にそこまで期待している人って世の中の少数派だ。多くの人は(それがクソどうでもいい仕事でなんであれ)仕事をこなして、定時には終わらせて家に帰って家族と触れ合うなり自分の好きなことに没頭するのだと思う。もしかすると、「仕事への期待の高さ」は「確保できる『自分の時間』の長さ」と反比例するのかもしれない。つまり、自分の時間が十分に持てる人はそれほど仕事が充実していなくたって文句はつけない。逆に私のように自分の時間が十分で無いと感じる人は、それ相応の心の愉しみや安らぎを仕事に求める。(仮に仕事が18時に終わっていたとして、家に帰ってもろもろの時間を差っ引いても3時間の私の時間が存在するわけで、1ヶ月営業日で60時間、私は少なくとも半年以上いまの状態なので、360時間分の期待値が仕事に注ぎ込まれているわけだ。2時間の映画だとして180本分で、半年で映画180本見たに相当する仕事なんてなかなか無い。)つまらない落ちだが、素朴に長時間勤務する業界は私に合っていないというだけのことだ。誰かの理論を振りかざして「この仕事はクソつまんねえ仕事なんです」とわめくのはただの権威主義か。こういった見極めが毎度毎度の入社&転職時にはなぜか出来ないもので私は人生の低空部分をいつまでもうろうろうろうろ飛び交っている。うちに人生が終わりそう。