私なりに気を利かせたミッドサマー感想

誤解を恐れずに『ミッドサマー』のプロモーションを友人にするとしたら「男関係で少しでも不愉快な思いをしたことのある人は観に行ったらいいんじゃない?」ということだけ。破局を体感する物語としてよく出来ているのだ。あきらかに終わりの近いカップルと彼らの友人が、交換留学生の故郷に研究調査も兼ねて遊びに行くという話なのだが、ここから話の内容をはっきりと書いていくけど、着いた先の村というのはカルト集団の住む村で、何年かに一度のサイクルで行われる儀礼祭典が行われ、なんじゃかんじゃ起こるわけだが、祭典の「女王」になった女性(ダニー)は最終的に自分の恋人の男性を祭典のフィナーレの生贄として選ぶ。男性のほうは薬を盛られすっかりラリってしまい、虚な目で周りを見渡しながら火に包まれていく。カルト集団はその生贄の儀式を見ながら、これまた儀礼の一部かのように大袈裟に泣き喚いて見せる。恋人を燃やしたダニーはその慟哭に身を浸しながら、最後にハッと笑う。そういう話だ。
この映画が破局の物語としてよく出来ているのは、冒頭から、カップルのぎこちなさを、しかもたいていの場合は男性側の過失ゆえのぎこちなさを巧みに挟み、観客のうち男関係ーー21世紀らしくいえば恋愛関係で少しでも不愉快な思いをしたことのある人との連帯を築いていくように話が組み立てられているからである。鬱病の症状がある妹から連絡が来ず心配するダニーに対し「大したことはないよ」という様(自分が相談された側の立場で「気にしすぎだよ大丈夫だよ」とアドバイスしたあとにその人が死んじゃったらまじで取り返しつかない感情になると思うのだが)、別れたあとの次のセックスのことばかりを考えるホモソーシャル、旅行に行くことを共有しない意地悪さ・関係への諦め、男;「謝ればいいのだろう」女;「謝ってほしいわけじゃないの」のやりとり、女がいるから俺たちのノリが悪くなるぜなホモソーシャル②など、わたしはまじで、この映画を見ている最中「オトコってサイテー!」と本気で思ったし、ダニーが最後に生贄としてその男を選んでくれたときわたしは本当に、映画が応援上映形式だったならば腕を振って「ダニー!君はサイコーだ!」と叫んでいただろう。「カップルで見に行くときまずくなるらしいね」なんてごまかした感想が流れてくるけど、男!おまえのことだよ!この映画は男を殺している映画なんじゃい!と大変明るい気持ちになった。ガールズパワー!とも口走ってしまうくらいのパワー、加えて、そのパワーをはじめから終わりまで一貫して醸成し観客の側に感情を埋め込ませるその巧妙さに舌を巻き、友人たちに本作品のことを強く勧めている。
しかし、この破局の物語が、女性のそうした感情に誠実に寄り添ったものであったかどうかについてはわたしは信じきることはまたできていない。この映画は最後に男を殺すことで女性に解放をもたらしたわけだが、そこに至るまでの女性の書き方もまた、典型に基づいている。さきほどの、男;「謝ればいいのだろう」女;「謝ってほしいわけじゃないの」のやりとりは特に、いわゆる「女のめんどくささ」の発露であったが(めんどくさいのは男から見た目線なのであって別にこのめんどくささが性別を超えたスタンダードなものになってもよいのにね)、儀礼祭典のメインイベントが女性のみの参加で、しかもダンスによって決められること、初夜の儀礼は番になる男女二人のほかに女性のみが裸体で参加すること(一般的に、下ネタが「リアル」「生々しい」だと言われてしまう女子の会合を思い出した)、といった一連のストーリーによって、女性が集団で動き、感情を同化させ、しかしその感情の共有によって結合していく…現代でも「女ってこうだよな、苦笑。」と話の種にされがちな現象が描かれており、加えて最後の結末も考えれば、「女って感情の生き物じゃん。コエー。わらい。」みたいな印象を鑑賞者に与えるだろうとも感じた。少し穿った見方かもしれないが。
こうして振り返れば本作品は多重に狡猾に男女を描いていたのかもしれず、こういう見方になってしまえば男女同士が互いの典型ぷり及び滑稽さを嗤い合うという分断を再生産してしまうだけ…なのはわかっている。それでも私はこの映画の気持ちよさにいつのまにかはまってしまった。それは巷で呼ばれるような「共感」とか「自己没入」を体験したわけではなく、ただただ、自分が持つ加害願望、特に男性に対する、男性どもが私たち女の憤怒を思い知るまで破滅的に潰し尽くしてやりたいという加害妄想!が華やかに成就したことへの喜び。

 

追記
このことあんまり書いている人いないなと思って見てからずっとこの記事に取り掛かっていたが、きょうついに似たような話を見つけてしまいました。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2003/10/news124.html