よしなしごと

むかし、好きだった男がいた。

私も人並みに恋愛のようなものをしていた時期があって、例えば上の一文みたいに思い返すときは特定のだれかというよりもそういう、理由はどうであれ、想いを寄せていた人たちの、遠い影みたいなものを思い返すんだけど、とりわけ最近は、生きるためにはたぶん不要な、雑多な感情をやり過ごすために目をつぶるときに「好きだった人たち」の目線が、集合体となってまぶたの裏にくきりとタトゥーみたいに思い返される。

何年か前から音信不通になって、私が勝手に死んだと思い込んだ人は、全然死んでもおらず、なんかどっかの公務員になり、最近、恋人の家に結婚の挨拶に行ったらしい。

憧れと恋慕がまざり結局憧れが寄り切りで勝った人はかつて私の人生をあるものだと予言し、しかし私のいまの現況はけしてそうはならず、しかし「彼が予言した通りであったらよかったのに」と思うこともしきりで、その人はまた、私の人生は彼が予言した通りのもののほうが、私にとってよいだろうと言った。

一瞬だけ、刹那的に遣り取りをした人のこと。昔の恋人の思い出の品は捨てること、理由は言わずもがな。しかし私はその人がくれたものを、部屋の一番いい場所に、もう三年か四年近く、飾り続けている。

うら恋しさやかに恋とならぬまに別れて遠きさまざまの人(若山牧水)

先に太字にしたことと、矛盾するかもしれないけど、別に恋ではなかったのだ。彼らに対する感情は。きっと、世間一般でいう、恋みたいな感情にめちゃくちゃ似ていて私がもう1ミリ、素直でさえあれば、恋と宣言することもできたんだろうけど、やっぱり恋ではなかったのだ。彼らは恋ではなく、私の人生の里標となり、里標にたどりつくたびに、白い文字で私に問いかけるものであり続けている。休日にそういう薄暗い感情になるのはたいていダメで、私は少しでも前向きになるよう、彼らがかつて私に向けてくれたやさしいまなざしを(それはすべて、具体的な言葉ではなく、目線だった。まあ私が都合よく解釈しただけだけど)、ハンカチで包むみたいに心にとめて、ああ、次の一つを、ここから脱する次の一つを、すぐにやらなくてはと、あたたかい、もののように思うのだった。