平凡な家族の話をする平凡なブログエントリー

な〜んつうかさ仕事は忙しいっていうか生きる気力を失わせるんだよなあ、働き始めてからというものの土日はひたすらぼーっとしてる。というのも別にたぶん本当ではなくて、土日にひたすら人と会う予定を入れてしまってけっきょく自分のことは何もできずにいる感じ。
そういう感じで働きはじめて早三ヶ月が経っちゃった。映画を観に行くこともできず観たところでそれをいままでしていたように文章にすることもできずこんなんでよいのか人生感がひしひしと私の身体を押しつぶしていたわけであるがこの前「万引き家族」を観たらそういや四月から単発的に観ていた映画、「COCO」(邦題「リメンバー・ミー」)、「ラブレス」がどれも家族を取り上げた映画だったなあと思ってようやっとワードを開いたってなわけ。

でもさあ見たのは四月五月とかの話だからあんまり覚えてない、COCOはいまいちだった、「家族仲良くが一番サイコーだよね!」が押されてて、最近のひねったディズニー魂はどこ行っちゃったの?て感じ。

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家族は最高じゃない。ロシア映画の「ラブレス」は、離婚する二人の夫婦とその一人息子の話である。離婚する二人は円満離婚でもなんでもなく、月並みな表現だけれども顔を合わせれば喧嘩ばかり、妻は新しい男の前ではめかしこむけれども旦那の前ではジャージを着、携帯をずっといじっている。夫は自分が昔同じように妻を妊娠させたことをすっかり忘れ、その新しい女の腹には新しい命が宿っている。二人はそれぞれ自分の人生を新しくはじめたいと思っており、噴き出すその気持ちは「子どもの押し付け合い」となってあらわれる。「おまえが引き取ればいい」「おまえが」「おまえが」のやりとりを、息子は偶然聞いてしまう。そして翌日、息子は家に帰ってこなかった。その次の日も、次の日も。
ラブレスの大半は、この息子を探す時間である。そして息子を探す間の夫婦の殺伐としたやりとりの時間である。「けっきょく自分が一番大事」と言ってしまうのは簡単だけれども、自分が大事でありながらも、なにかに怯えるためか、それとも愛がまだ残るからか、夫婦は息子を探す。家族は最高じゃないけど、最高じゃないといって切れるほど簡単なものでもない。

血のつながり、実際には精液と卵子のつながりでしかないと、私は思うんだけど、なんだかそれがとてもすばらしいもののように、現代日本社会では絶賛されていて(映画の感想を書くのをさぼっていたら、いつの間にか『生産性はない』だのなんだの、の話が盛り上がっていて、女子として、産む可能性があるものとして、ああ私たちはいつになっても産む機械、とユーウツになってしまった)、「ラブレス」はそういう手放しの称賛を鼻で笑うかのようだった。

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「万引き家族」は血ではなく犯罪でつながる家族を描いたものだ。実は是枝監督は家族を描いたんじゃなくって日本の貧困や格差を正面から描いたつもりだったとインタビューで言っていたらしいけど、兎も角。ネタバレになっちゃうから書けないけど、けっきょく血のつながりがあってもなくても家族なんてものは弱くて、誰か一人が一方的にその存在を信じてたり、ようするにそんなつながりは片思いっていうか願いっていうか、もう片方とかその他大勢は別にそんなん気にしてなくって、その想いの不均衡さに安藤サクラみたいにちょっと泣けちゃうよ。(それよか私の大好きなケイトブランシェット様が安藤サクラが涙を流すシーンを絶賛したってね!最近は「百円の恋」も見たけど安藤サクラはまじですげー。犬養毅の曾孫というのもまじですげー。)

友人やら、兄弟やら、が家族形成をはじめるような年齢に私も差し掛かっていて、彼らの幸せそうだけどもどこか張り詰めた・張り詰めているけれども幸せが確実にある、様子を目の端で見ることが多くなった。ノンフィクションでもフィクションでも家族は壊れやすくもろく家族愛などという言葉ではごまかしきれない(から私はそれを避け続けているんだけど)んだけど、それでも彼らが生きてる世界においては義務感なり心のからの愛情であったりなんだりが彼らのぎりぎりの心情や命を救うことがあってほしいと心から願ってたまらん。

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