アラサーだってのにハリポタの名言が年甲斐もなく心にしみこんじゃったりするってなわけ

三月、季節の変わり目。季節の変わり目は昔の恋を思い出しちゃったり昔に関係のあった人からあからさまに発情した連絡がきちゃったりするから厭なもんよね。そしてなにより季節の変わり目、私はついに二十うん年(ほんとは三十マイナスうん年としたほうが早い)もいた学窓から飛び出すことを決意した。そういうわけで、人生の来し方行く末なんかをあてもなく考えてしまって、ああ季節の変わり目だなあとまたひとしお。

つまり来し方行く末、ああしとけばよかっただとかこれでいいのかとかこれでうまくいくのだとか。具体的に言えばせっかく二十数年も学びの窓にいたのだからいまさら会社なんかに入る必要はないのではないかとか(いまさら)、ほんとに働いていけるんだろうかとか(やってみんとわからん)、そういえば内定者課題の一つがクリアできていないんだけどこれは会社に連絡すべきか否か(神経症!)であったりとか。そういうものがないまぜになった上で、私はどういう人生を歩みたいんだろうなあとかそういう、思春期みたいなとりとめもない話。

唐突だけれども最近ひっこしをして、インターネットがつながらない期間が数日あったので唯一DVDを持っていたハリーポッターをまとめて観た。ブリティッシュ・イングリッシュ練習のためにレンタル落ちのDVDを買ってただけだったんだけど。ハリポタのことはリアルタイムではもちろん大好きで、本を読み映画を見、その他もろもろグッズなんかも買っちゃったりしていたんだけど、語彙やら人生やらが積み重なってきたいまの年齢で見るといろいろぐっとくるものがあったりする。たとえば第二巻秘密の部屋のダンブルドアのセリフ。“It is our choices, Harry, that show what we truly are, far more than our abilities.”(私たちの選択なのだ、ハリー。我々の人となりを表すものは。私たちの能力ではなく。)すごい、こんな言葉を人間が思いつくものなんだろうか?最近の私は来し方行く末をうろうろと考え、私の選択の正しさ、私の能力との兼ね合い、そんなものを頭の両端にそれぞれ思い浮かべては苦い気持ちになっていることが多かった。できること、できないこと、やりたいことやれないこと、私の人生、みたいなことをうだうだ考えていたところにさくっと切り込んできたのがこのセリフだった。みんなハリポタの大筋は知っているだろうから詳しい説明もせずに語りに入ると、ほんとは自分はスリザリンに入るべきだったのではないか?と思うハリー。組み分け帽子にも「スリザリン向きだ」と言われ、おまけにパーセルタング(へびの言葉)まで操れる。人の評価も自分の能力も、自分が求めるものとはかけ離れているときほど自己評価がゆらぐことはない。だけれどもそんなハリーにダンブルドアが言ってやるのは「選択の重要性」という話なのだ。自分の根幹は、人の評価や自分の能力によって決まるものではない。いかなる選択をしたかによって、形作られていくのだ。そしてハリーは組み分け帽子に「グリフィンドールがいい!」と願ったわけで、その選択と懇願こそが、ハリーをハリーたらしめている。

みたいな、ことを書いていたら私の気持ちも落ち着いてきた。来し方、行く末、いろいろあって、いろいろあった私が望んで身に着けた能力、身につけざるを得なかった能力、だれかからの評判、そういうものに縛られてくるしくおもうことは多々あれど、最後に自分のろうそくの芯となるのは自分の選択だけなのであり、その選択を、ごうごうと燃やしていけばよい。のではないかなーみたいなことをうすぼんやりと。

 

で、実際に、選択、どうするよ?と腰を据えて考えることから逃げてはいけないんだけど、いまはこういうJKローリングの文章に救われているわけだから私も人生の偉大さを偉大な文章で切り取ることができるような人間になりたいなと考えている。まあ、これは妄想なだけであって、まだまだ選択ではないんだけれど。そういうことを考えながら、これを書いた。