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映画『怒り』と小説『怒り』

カルチュア

 映画『怒り』が第四十回(2017年)日本アカデミー賞優秀賞の作品のうちの一つに選ばれたとのこと。あまり映画を見ない私だったけれどこの作品は吉田修一原作ということで、小説を読んだ上で映画を見に行っていた。感想も記していたので記録ついでに残す。映画の感想としては、ドラマチックに彩りすぎていた、というのが第一印象であった。

 

 舞台の幅広さ、一級の役者たち(特に中年男性の情けない腹を惜しげもなく見せる渡辺謙、ゲイだけではなく広告代理店勤めの独身男性というキャラクターもさりげなく演じられる妻夫木聡、横顔のきれいな松山ケンイチ(?)あたりは強く印象に残る)、坂本龍一の音楽、とも揃えばドラマチックにならないわけがない。ただ、本作においてはそのドラマチックを差し込む演出が過剰であるように感じた。とりわけ音楽の用い方には鑑賞者を非常に疲れさせるところがある。最初から最後まで切れ目なく流れ、クライマックスのシーンでは台詞の音声を消してまで大音量で鳴り響く。重いテーマであることとは別に、劇場を満たす音楽が頭まで窒息させようとする。

 私は映画に明るくないから、どこまで音楽を使うべきか、果ては、どこまでドラマチックにしていいか、という作法をよく知らない。ややもすると適切であったのかもしれないが、それでもわたしが本作の過剰なドラマチック性に違和感を覚えるのはやはり原作を先に読んでしまったからであろう。

 映画のコピーライトは、「愛した人は、殺人犯なのか?それでも、あなたを信じたい。」とある。ここらへんから、小説と代理店節が炸裂した映画がすこしずつ食い違っていて(まあもちろん小説と映画とプロモーションは別の話なんだけど。ともかく)、すくなくとも小説はこのコピーライトにあるような、愛と信じること、というわかりやすい劇的な話というよりも、もう少し人間の弱さについて書かれた滑稽な話であると評価したほうがいいと私としては考えるからだ。

 

『怒り』における「愛」

 小説の登場人物は、三人の容疑者に合わせて三グループ作られる。千葉の愛子と田代(と愛子の父)、東京の優馬と直人(と優馬の母)、沖縄の泉と田中(と泉の母)。それぞれのグループの二者の関係が進んでいくにつれて、愛することだとか信じることだとかといった話に絡んでいくと受け取られているようだが、それは誤解である。むしろ、この物語において愛することというのは、これらグループ内の主人公(愛子、優馬、泉)と上記カッコでくくった人びと(愛子の父、優馬の母、泉の母)の間に発生していたものである。歌舞伎町で働かせる愛子を迎えに行きながらも、何もしない父として自分を責める愛子の父、ホスピスにいる母にいやいやながらも看病に通う優馬。男にだらしがない母にそれでもついていく泉。親子関係というわかりやすい補助線によって、この愛は存在している。『怒り』という物語において「愛」を語るならば、それは家族愛において顕著に表現されているものである。

 

幻想としての「愛」

 では肝心の田代、直人、田中とそれぞれの主人公との関係はなんなのか?それは信と不信の往来関係である。偽名、空き巣事件、勤務態度という要素は、容疑者たちに疑いの目を向けさせる。しかし、偶発的ではあれ築いてしまった関係に人はすがりたがる。一方で、殺人事件という着火剤が、さらにその葛藤を激しいものにしていく。結果的に葛藤は一つ(真犯人)を除き、愛なるものに向かって着地するわけであるが、はじまったばかりのこのささやかな感情を愛と名付けるのは気が早い。けっきょく、この映画のメインとなるのは、信と不信を行き来することにより、そこに愛という幻想を見出していく過程なのである。

 

ショートコント・「愛」

 つまり、ぽっと出会った人たちのことを勝手に信じようとして、勝手に裏切られた気になって、それでも信じようとする主人公(とその周りの人間たち)のことを、読者はげらげらと笑うべきなのである。この作品のテーマは「愛」なのではなく、「ショートコント・「愛」」とも言うべきものである。もしくは、そうした人間感情の独りよがりの真実さを嗤うべきなのかもしれない。

 小説はこの感情の揺れ動きの滑稽さを、淡々と描く。激しい感情は似つかわしくない。その激しい感情を説明しようとすること、それに没頭しようとすることはなおさらだ。山神の「怒」がけっきょく説明されないところにも、この物語がいかに説明不能な感情に対して寛容であるかを示す。読者は淡々とした描写を外から冷徹に見、そして愛というものがいかに嘘っぱちであり、そして嘘っぱちであるからこそ、人をそれにすがりたくさせる力を持ち得ることを認識するのである。

 映画は、映画として華やかに見せられるところ(たとえばゲイの描写もそうだ。性描写がやたらと生々しいのは構わないが、小説の雰囲気とはまた違ったものを作り出してしまったように思う)を拡大しつくした結果、この小説が本来もっていた淡々としたやるせない感情を奪い取り、観る者を本当に「ショートコント・「愛」」の激しい幻想の中に閉じ込めてしまっただけだった。