秋の終わり、将来の夢

寂しさとか孤独について話してしまうのはみっともないといつも感じている。特にその書き方によっては、感情の動きについて上辺だけの過剰な言葉で描写しただけの、昨今のインターネットでよく見られる文章になるため。それに、そういう状態がこれまでの人間の歴史の中で生まれてきた数数の表象文学の礎となってきた側面に、私は盲目的な憧れを抱いていることもあり、その感情を何かにまとめあげず、ただインターネットに「さみしい」と投げ込むだけで終わってしまうことに口惜しさを覚えるのが常だった。
働き始めて、そういった感情とはまた異なる寂寥感が訪れるようになった。働き始めてなのか、それともその時期と重なるように始まった諸々の出来事が原因なのかは知らないが…。仕事がもたらす寂寥感は疲労と共にやってきて、別の表現に昇華されることなく、私の精神のやわい部分を苛む。ただぼうっとして、その感情が過ぎ去るのを待つしかない。ただ、インターネットにある有象無象の、なんにもならない、ぶつぎれの文章を眺めるほかない。…非常な人生の(余白ではなく)無駄だと思えて煩わしい。精神をも、巨大な「主義」に明け渡し始めている自分を見て見ぬふりをしている。虎になれれば良い方で、あれほど痛切に感じ、また同情できることに喜びを覚えた「自尊心」も「羞恥心」も、私の手元にはもう残っていないような気がする。

労働に関する70回目くらいの低空飛行

いろんなことを書いては消し、書いては消ししているが、なかなか真剣に書こうと思うと書ききれなくて、怠け者のパターンだと思う。真剣に書くためには真剣に考える必要があるのだが、「書かなければ」という焦りでペンを握るときはたいてい考える気力が無いときなのだろうが。

最近読んでいる本として、『ブルシットジョブ』を読んでいる。話題書である。この本を手にとった人に確認する必要はあるのだが、この本を読もうと思った人の多くは「自分の仕事はブルシットジョブなのではないだろうか?」=「自分の仕事はブルシットジョブなので、ぜひ誰かが弾劾してほしい」という期待を込めて本を買ったのではないだろうか。私自身がそうだった。久々にこのブログカテゴリーを使っているわけだけど、最近仕事量が尋常ではなく仕事のやってくる月曜日が嫌だ。ついでに「仕事のやってくる月曜日が嫌だなあ」と思っている土日も嫌だ。仕事中、楽しいと思える瞬間も少なくて、かといって父親にそれを相談すると「楽しい仕事なんて無いぞ」みたいなゴミみたいな答えも返ってくるし、そもそもこの仕事って社会にとってどういう意味が?という大上段の話ばかり思ってしまって人生が前進しない。この不満を代弁してほしくてこの本を取ったわけだが。

あらかじめお断りしておくと本自体はまだ半分までしか読めていない。しかし半分程度まで読んで「もしかすると私の仕事はブルシットジョブでは無いのかも」と薄々思い始めている。もちろん最後まで読んでからもう一度考えてみたいとは思うが…、少なくとも仕事中にSNSをやる時間は(あまり)無い、意義があることかどうか?という点については判断は難しいけどお客さん先では感謝されることも多く、仕事の内容それ自体も巡り巡って社会のためになることもあるのかも…いや、この考え自体も自己防衛なのかもしれないが…等々。仕事内容は詳しくはここには書けないのは当然なのだが、私が働く業界は時折「存在意義がよくわからないよね」と嗤われる業界で、そういったところへのコンプレックスもあるし、ただ確かにこの業界が必要とされる社会構造自体がどこか変なんだろうなと思うことは大きい。云々。特に『ブルシットジョブ』においても、ブルシットジョブが生み出される社会構造についての話が第5章以下で語られるとのことなのでそこで私の考えがまとまるかもしれない。

そういった「期待はずれ」はともかく、仮に私のいまの仕事がクソどうでもいい仕事でないとするなら、ここ数年の私と私の仕事の不協は私自身の判断力不足のせいとしか言いようがない。先の私の父親の話を持ち出すまでもなく、仕事にそこまで期待している人って世の中の少数派だ。多くの人は(それがクソどうでもいい仕事でなんであれ)仕事をこなして、定時には終わらせて家に帰って家族と触れ合うなり自分の好きなことに没頭するのだと思う。もしかすると、「仕事への期待の高さ」は「確保できる『自分の時間』の長さ」と反比例するのかもしれない。つまり、自分の時間が十分に持てる人はそれほど仕事が充実していなくたって文句はつけない。逆に私のように自分の時間が十分で無いと感じる人は、それ相応の心の愉しみや安らぎを仕事に求める。(仮に仕事が18時に終わっていたとして、家に帰ってもろもろの時間を差っ引いても3時間の私の時間が存在するわけで、1ヶ月営業日で60時間、私は少なくとも半年以上いまの状態なので、360時間分の期待値が仕事に注ぎ込まれているわけだ。2時間の映画だとして180本分で、半年で映画180本見たに相当する仕事なんてなかなか無い。)つまらない落ちだが、素朴に長時間勤務する業界は私に合っていないというだけのことだ。誰かの理論を振りかざして「この仕事はクソつまんねえ仕事なんです」とわめくのはただの権威主義か。こういった見極めが毎度毎度の入社&転職時にはなぜか出来ないもので私は人生の低空部分をいつまでもうろうろうろうろ飛び交っている。うちに人生が終わりそう。

2020年は8月1日に梅雨が明けた(関東地方)

梅雨が明けた。八月の週末って四回しかないんだなーと思うと、学生の頃より夏が好きになっている気がする。学生を長くやっていたけど、学生の夏といえば終り頃にゼミ合宿があって、ゼミ合宿では自分の研究発表をする場が設けられるので、大学生の夏休みが七月の頭からはじまるものでも、二ヶ月以上、その研究発表の場に向けてウンウンと勉強を続け、自分の頭の中の小さい教授の指摘、小さい先輩の小言、小さい同輩の進捗、等等に精神をすり減らされる毎日だった記憶である。
働き始めてから季節を感じることが少なくなった。朝起きて、そのまま会社に行き、空調のきいたオフィスで一日中仕事をし、帰る。日差しの眩しさ、緑の濃さ、虫虫の共鳴を知らないままに月が経つから春夏秋冬どれでもそれほど関係がない。
今年の夏は在宅勤務が続き仕事が忙しいなりにもそういった季節感を吸い込むことができるので、小さい頃の夏休みにしたあれこれと記憶が馴染んでいくような気がする。仕事は本当にきらいだが、在宅勤務なら時間の流れの中に自分が生きていることがわかるので比較的頑張っていけるかもしれない。かつ、時間の流れの中の、自分の中の、一日長くても十二時間程度を割くだけのちっぽけな部分が仕事であるにすぎない、と考えれば肩の力も抜けるので、激務&プレッシャーのわりには未だ健やかにやれている…いや、勤務時間長すぎだろ。マネージャーなんとかしろ。八月の週末は四回しかないから、なるべく仕事はしたくない。
今年は川に行きたい気がする。小さい頃、母に「川は危ないので重ねて気をつけるように」と叱られるかのごとく何度も言われたので川の怖さは知っているつもりだが、確か小学生のときに一度行った川の冷たさが今日はなぜか懐かしい。あとバーベキューとかしたい。強い火で焼いた肉はうまいんだ。海は好きだが砂があまり得意じゃない。水着を着たい。水着を何着も買う人の気持ちを今年は理解できる。そういえば恵比寿でフェデリコ・フェリーニの映画をやっているらしいので見に行きたいと思っている。と考えているうちに八月の週末がすべて埋まっていく。昨年までとは違う要素、感染症、長い梅雨、在宅勤務、余裕のある懐?…が少しずつ積み重なって、今年の自分はなんだか小学生のような気持ちで夏の休みまでの日にちを指折りにしているらしい。

パンデミック時代に愛 - 前哨戦

皆様。ご機嫌麗しゅう?気づいたら最終更新から三ヶ月も経っていたが自身の実感としては半年くらい経っているような気がして、どいつもこいつもパンデミックのせいなのよ。『パンデミック時代に愛』なるブログ記事を書こう書こうと思っているうちに月日は流れ、明けきらない梅雨の中、低気圧に揉まれながらつまらない仕事ばかりしていました。「変わる変わる世界は変わる」と世界ではシュプレヒコールが凄まじいですが、そういったすさまじい主張も四ヶ月ほどただ続いただけというのが私の実感で、勤め先の会社も無事、出勤という悪しき習慣に収まっていったので、とどのつまりは主張しただけ・ウイルスに乗っかっただけ、それだけでは人の振る舞い、社会のシステムは変わらないのだよっと怒りちらしている。
とはいうものの、私の中で感じ方(繊細さ)への様々な変化はあったのだ。例えば体型やそれにまつわるワークアウトライフスタイルの変化が一番大きい。要するに、食べたものが自分だし、動いたものが自分で、「こういう身体になりたい」とコントロールしながら行う食・運動は全然健全じゃないのかも、と思い直すようになった。この点については私の、というよりおそらく日本の女性の、というよりもしかすると全宇宙の女性が女性として生まれた以上、手を出さざるを得ない「ダイエット」という営み…について最初からの説明をしたいと思うから、それはまたの機会に。パンデミックを通して他に変わったこと言えば、うーん、出勤はどう計算したって時間の無駄だと気づいたし、外に出かけない週末は居心地がかなり良い、というか東京はソーシャルディスタンシングの前に人と建物が多すぎてごみごみしている、まあそれが文化の多さにつながるんだけど。飲み会をしないことでお金がちょこっとずつ貯まりつつあるので貯金って簡単なことだったんだなと気づいたり、外出しなくなったとしても文明人は服を買うのでこの脳みそはもうアホやと諦めた、良い住まいというのは大切だけど机についての話で、高さ標準70-75cmの机は私の身体にとっては全然良い住まいを構成するものではなく60cmくらいの高さの机を探しているのだがなかなか見つからず、明治維新後続く日本人の文字通りの背伸びを考えた。等等。
パンデミック時代の愛として、家ではもっぱら映画を見ていて、ポン・ジュノ『パラサイト』に続けて韓国映画を観ている。胃もたれしそうなほどの家族関係と政治への問いかけは緩んだ下腹部にぶちこまれた拳のような刺激があって、いや、年に一、二回行く海外旅行先で食べる壮絶な甘さの砂糖がけケーキのような刺激があっていわば病みつきになるのである。病みつきといえばタランティーノをようやくまとめて観始めた。タランティーノの映画は彼なりの情緒の浄化があり、人はたくさん死ぬし酷いけど見ていて嬉しさ・安心感を覚えるのだ…。これもまた病みつき。このことをこのブログで書いたかは忘れたが、昔好きだった男がタランティーノが好きで、嫌、好きだったかは知らんが、彼いわく、思春期にタランティーノを映画館で見て衝撃を受けてそこから何年かに一本しか出さない彼の作品を心待ちにしているとのことだった。私がその男のことを好きだったのはちょうど『ヘイトフル・エイト』がやってた時期で…ということがOnce upon a time in Hollywoodを昨年観に行った理由だった。二十代前半の色恋は炭酸水のようでいいね。幸いなことにタランティーノの映画はネトフリやアマゾンプライム、もしくはアマゾンで数百円払えば揃っている。あとは1994年、1997年、2003年、2004年の映画が残っている。今年見きっちゃうこともできるのだろうが、私の情緒はそうはさせないね。
パンデミック時代前の愛としては美術館にもわりと行っていたつもりだったんだけど、これは再開してからもまだ行けていない。事前予約というのが面倒すぎる。といっても映画館も事前予約のようなものなのに美術館側をサボっているのは積極的に一枚一枚考えなければ物事が進まない美術鑑賞にやや疲れを見せているのだと思う。
戻ってパンデミック時代の愛、これは長編小説だろうな。大学時代に一度読んだロシア文学をまとめて読み返し、そのときにはわからなかった人間の卑小さと、その卑小さを体現する偉大さを読み取ることになった。BLM関連で『ブラックボーイ』も再読したのだが、このあたりの話もまた別の機会に書こう…として、前哨戦としての本日の記事はここまで。

エモーショナル別れ

セフレという呼び方はそれほど好きじゃ無いが、まあそういう関係にあると世間一般で言われるだろう人物と、この間、もうあんまり会わないことにしましょうね、という話になった。ぶっちゃけ、セフレと呼ばれる関係にある人間同士はこれからも梅の花がほころぶたびに連絡を取り合うもの、というのは人生のことわりなのでこんなことをいくらしたためてもしょうがないのかもしれないが、一旦はそういうことで。つって。
(追記、ウイルス関係ないです。)

ついでに、こういう関係にある人間と別れなくたっていいのではないか、というのもまたよく言われる話だとは思うが、なんか結局、優しくなかったんだよな。私にしてはめずらしく随分、その人物と話し込んだが、私のことを大事にしない割に、大事にしたいという感情を伝えてくる態度に飽きてしまった(お、セフレという存在は往々にしてそういうものですね)。もちろん、私という人間はかなり自己批判性の強い人間でもあるので、「優しいとは何か?大事にするとはなにか?」「大事にしろ、という私の感情は我侭なのではないか?」とひとしきり悩んだが、ばっさり切り捨ててしまえばこんな感情は三十路近い人間が持っていい悩みではない。たいがいの人間はもっと前に、だいたいの自分の行動範囲の人間たちと、優しさのあり方に関する基本的な合意を取り付けているものだ。

いまはもう結婚した友人の話だが、私ととある男との痴情のもつれについて、彼女が相談に乗ってくれたことがあった。私がその人物から受けて来た扱いを話し切って、友人が頷きながら聞くだけで時間が過ぎた。その帰り道に私が礼儀半分で友人が当時交際していた男性とうまくいっているのか聞いてみたところ、彼女はうまくいっている、と言ったあとに「優しいよ、あの人は」と自分の恋人のことを評するのだ。私がふざけて、「えー、具体的にはどういうところが?」と吹っかけてみたら、「バイト先まで迎えに来てくれるところとか、いつも車道側を歩いてくれるところとか」と言うのだった。非常にナイーブな「優しさ」だと判断すると同時に、しかし彼女の中に、瓶詰めされた金平糖のように光る、彼女の恋人の優しさとやらが本能的にすさまじく羨ましかった。(彼女はその男性と数年後結婚した。)

ある人に対し、もう感情を持つのはこれきりやめよう、と感じた瞬間そのときの、空気感とか自分の居心地の悪さだとかはいつまで経っても覚えてるものだ。これまでに二人に対して感じたことがある。一度目は、何回かドタキャンされたあとの性交が済んで、ベッドでぼーっとその人物の顔を見つめていた時間で、かなりの補正も入っているのだろうが、その人物の、まつげとか、額から目のくぼみまでの線、目のくぼみから鼻の先(鼻の先、という表現が似合うくらい尖った鼻だった。でも丸みもあって。)までの線、目線の向かうほう。など。これはもう五年くらい前の話だ。二度目が今回の人物で、その人物がベッドで昼寝をしているときに私はそばの椅子に座り、膝を立て、立てた膝に顎を乗せていた。これは一ヶ月前の話。
「感情を持つのはこれきりやめよう」という言葉が頭を巡るわけではなく、むしろ静謐な、おだやかな時間でさえあるのだが、彼らを前にしてそういうおだやかな気持ちになることがすでに、私と彼らの関係からして異常なのであって、そういうおだやかさを知ったとき、私の人生にその人物はもう存在しないし、その人物の人生のなかに私ももう存在しない。

最近、私は周囲の恋愛相談にわりと平気で「優しい人がいいよ」と言い回っているのだが、それは本当に金平糖などという毒にも薬にも肥満にも栄養にもならんただの甘味を勧めているだけのようで、真理に触れているはずなのにどこかみじめだ。私の頭の中では、椅子に座って膝を立て、食べもしない金平糖の入った瓶をころころと音を鳴らして遊んでいる、そういう私自身の姿がほんのりとにじんだままだ。

2020(バレンタイン)チョコレート振り返り

バレンタインだからチョコレートを買うわけじゃないが、やはりそれにかこつけて今年もたくさん食べたので記録に残しておく。

エス・コヤマ チョコロジー2019

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女性の人生をイメージしたチョコレート四種類。食べる順番も決まっていておもしろい。確かに四種のチョコレートが一本の線でつながっていくのがわかる。パプリカとフランボワーズといった味の組み合わせがおもしろくて、次のNakamura Chocolateと同じく、日本人ショコラティエもなかなかがんばっとるんやなあ(上目線)と感じた。

(ただ別の話なんだけど女性像を味にするってかなり気色悪いなとも思ってしまった…私がもしショタをイメージしたチョコレートをなめ転がしてたらキモいでしょ。まあこういうところにいちいちいらいらしてしまうから言葉狩りだの表現の自由狩りだなんだと言われてしまうのですが…)

Nakamura Chocolate オーストラリアンセレクション

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見た目がかなりかわいいのがいい。フランス系のチョコレートってどうしても見た目はシンプルになる印象があるが、サダハルアオキ以外にも華やかなチョコレートを探してる人にはおすすめ。どこかのパティシエが「チョコレートは二回か三回か噛んだあと、あとは舌の上で余韻を楽しむ」というような食べ方を指南していたけどその意味ではここのチョコレートはコーティングが厚め&硬めなものが多いのもあって「噛んで」楽しむものだった。プラムと栗、みたいな愉快な味もあって好きな作りだった。わけあって賞味期限を過ぎたものをいくつか食べることになってしまったんだけど繊細だからか香りがすでに飛んでしまっていた。来年も食べたい。

キャラメルパリ ヌガティーン ひまわりの種

カラックロック ノワール(1箱)

今年一番印象に残ったチョコレートのひとつ。ひまわりの種のプラリネを薄く形作って、それをダークチョコレートでコーティングしたもの。プラリネのかりっとした食感、キャラメリゼの甘さと融和するチョコレート。カジュアルなんだけど味はクオリティが高いのが罪深い。枚数も多いのでみんなでわいわい食べるのにちょうど良さそう。

ジャンシャルルロシュー フルーツタブレット

サロン・デュ・ショコラでいちごのフルーツタブレットを取り扱っていたのでまっさきに買ったが、こんなにおいしいものだったとは!いちごとチョコレートの組み合わせって、昔から「チョコレートを先に食べるとフルーツがすっぱくなるからね」と母に言われてきたせいかどうしても身構えるのだが、ここのフルーツタブレットはいちごの甘さとチョコレートの甘さがぱちっとはまるから嫌なところが一つもない。惜しいのは消費期限がほぼ一日とかなり短いところで、無視して四日くらいすぎてからも大事にちまちま食べていたわけだけどそこまでくるとさすがにいちごの酸味が尖ってきてチョコレートとは相容れないものになってしまっていた。とにかくおいしいので何枚でも食べたい。

 

公式の画像が見つからないのであとは文字だけ。ショコ・オ・キャレショコラアソートプラリネ、立方体の見た目がかわいらしく、しかもプラリネが九種類九個も入っているのでテンションあがる。プラリネといえばサダハルアオキを勧められたことがある。個人的にはアラン・デュカスのプラリネが味が濃くて好き。

フランク・ケストナータブレットロレーヌはミラベルのジュレとヘーゼルナッツのプラリネの組み合わせのタブレット。ジュレとプラリネが入っているし極めつけに薄くコーティングがしてあるのでボンボンのような構成。ミラベルの酸味、ヘーゼルナッツの香ばしさ、コーティングの薄さ、と楽しめてこれも結構好きなチョコレートだった。コーティングが細かく割れるのでタブレットとしては食べづらかったが…。

八幡礒五郎スパイスチョコレートもよかった。山椒と紫蘇を買ったが、山椒はミルクチョコレートをなめているとなじみ深い山椒の香りと刺激が舌と鼻を通る。紫蘇はチョコレートの中の酸味の延長線が紫蘇の甘みと酸味につながっていく体験がおもしろかった。

はじめてパトリック・ロジェのチョコレートを食べたけど、そもそものカカオの味わいが他のブランドとは大きく異るほど強い(香りも強い)、根強いファンがいるのも理解できる。

余談だが、今年のサロン・デュ・ショコラはサブレ系のチョコレートが多かったように見えた。サブレをチョコレートでコーティングしたもの。私が行った時間帯ではほとんど売り切れていたので買えなかったが、さぞかしおいしいものだったんだろうな。安い買い物じゃないのに毎年毎年新しい味に出会えるからチョコレートはやめられないね。チョコレートはお腹もいっぱいにならないし酔いもしないから他の美食趣味に比べて気軽な気さえする。

私なりに気を利かせたミッドサマー感想

誤解を恐れずに『ミッドサマー』のプロモーションを友人にするとしたら「男関係で少しでも不愉快な思いをしたことのある人は観に行ったらいいんじゃない?」ということだけ。破局を体感する物語としてよく出来ているのだ。あきらかに終わりの近いカップルと彼らの友人が、交換留学生の故郷に研究調査も兼ねて遊びに行くという話なのだが、ここから話の内容をはっきりと書いていくけど、着いた先の村というのはカルト集団の住む村で、何年かに一度のサイクルで行われる儀礼祭典が行われ、なんじゃかんじゃ起こるわけだが、祭典の「女王」になった女性(ダニー)は最終的に自分の恋人の男性を祭典のフィナーレの生贄として選ぶ。男性のほうは薬を盛られすっかりラリってしまい、虚な目で周りを見渡しながら火に包まれていく。カルト集団はその生贄の儀式を見ながら、これまた儀礼の一部かのように大袈裟に泣き喚いて見せる。恋人を燃やしたダニーはその慟哭に身を浸しながら、最後にハッと笑う。そういう話だ。
この映画が破局の物語としてよく出来ているのは、冒頭から、カップルのぎこちなさを、しかもたいていの場合は男性側の過失ゆえのぎこちなさを巧みに挟み、観客のうち男関係ーー21世紀らしくいえば恋愛関係で少しでも不愉快な思いをしたことのある人との連帯を築いていくように話が組み立てられているからである。鬱病の症状がある妹から連絡が来ず心配するダニーに対し「大したことはないよ」という様(自分が相談された側の立場で「気にしすぎだよ大丈夫だよ」とアドバイスしたあとにその人が死んじゃったらまじで取り返しつかない感情になると思うのだが)、別れたあとの次のセックスのことばかりを考えるホモソーシャル、旅行に行くことを共有しない意地悪さ・関係への諦め、男;「謝ればいいのだろう」女;「謝ってほしいわけじゃないの」のやりとり、女がいるから俺たちのノリが悪くなるぜなホモソーシャル②など、わたしはまじで、この映画を見ている最中「オトコってサイテー!」と本気で思ったし、ダニーが最後に生贄としてその男を選んでくれたときわたしは本当に、映画が応援上映形式だったならば腕を振って「ダニー!君はサイコーだ!」と叫んでいただろう。「カップルで見に行くときまずくなるらしいね」なんてごまかした感想が流れてくるけど、男!おまえのことだよ!この映画は男を殺している映画なんじゃい!と大変明るい気持ちになった。ガールズパワー!とも口走ってしまうくらいのパワー、加えて、そのパワーをはじめから終わりまで一貫して醸成し観客の側に感情を埋め込ませるその巧妙さに舌を巻き、友人たちに本作品のことを強く勧めている。
しかし、この破局の物語が、女性のそうした感情に誠実に寄り添ったものであったかどうかについてはわたしは信じきることはまたできていない。この映画は最後に男を殺すことで女性に解放をもたらしたわけだが、そこに至るまでの女性の書き方もまた、典型に基づいている。さきほどの、男;「謝ればいいのだろう」女;「謝ってほしいわけじゃないの」のやりとりは特に、いわゆる「女のめんどくささ」の発露であったが(めんどくさいのは男から見た目線なのであって別にこのめんどくささが性別を超えたスタンダードなものになってもよいのにね)、儀礼祭典のメインイベントが女性のみの参加で、しかもダンスによって決められること、初夜の儀礼は番になる男女二人のほかに女性のみが裸体で参加すること(一般的に、下ネタが「リアル」「生々しい」だと言われてしまう女子の会合を思い出した)、といった一連のストーリーによって、女性が集団で動き、感情を同化させ、しかしその感情の共有によって結合していく…現代でも「女ってこうだよな、苦笑。」と話の種にされがちな現象が描かれており、加えて最後の結末も考えれば、「女って感情の生き物じゃん。コエー。わらい。」みたいな印象を鑑賞者に与えるだろうとも感じた。少し穿った見方かもしれないが。
こうして振り返れば本作品は多重に狡猾に男女を描いていたのかもしれず、こういう見方になってしまえば男女同士が互いの典型ぷり及び滑稽さを嗤い合うという分断を再生産してしまうだけ…なのはわかっている。それでも私はこの映画の気持ちよさにいつのまにかはまってしまった。それは巷で呼ばれるような「共感」とか「自己没入」を体験したわけではなく、ただただ、自分が持つ加害願望、特に男性に対する、男性どもが私たち女の憤怒を思い知るまで破滅的に潰し尽くしてやりたいという加害妄想!が華やかに成就したことへの喜び。

 

追記
このことあんまり書いている人いないなと思って見てからずっとこの記事に取り掛かっていたが、きょうついに似たような話を見つけてしまいました。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2003/10/news124.html