社畜永遠の問い、「人が良かったら働き続けられるか」

もうこれも随分前の話になってしまったけど、大手広告代理店での労働のあり方に苦しみ、身を投げた女性は私と大学入学年度が一緒だった。こんな冒頭ではあるけれど「数奇な運命」なんていうつもりは毛頭なく、彼女と同じ時間を過ごしてきた私と彼女の、薄いけれど確実な隔たりを思う。
女性・高学歴・東京・就職、と、いくつかの共通項を持つ私が家族と彼女について話すのは自然なことで、「死ぬまでやらなくていい」と父親、「大変だったんだろうねえ、酷いねえ」と母親。「原因は長時間労働だけじゃなかったと思うんだよね。周りの人がさ、パワハラとか、そういうの、しない人だったらきっと頑張ろうと思えたんだと思うよ…」と私。その頃私はまだ就職前だった。
この、「人がよかったら頑張れるか?」という、ういういしい問いに一年働いてから答えをいえば、ノーだった。ある意味、成長経済から成熟経済への移行期だからこそ(労働に、労働そのものの価値というよりは、そこでの成長や環境に意義を見出そうとする時代だからこそ)発せられる問いであるだけだ。
人がよくても、やっぱり長時間労働に耐えられなかったなと思い返す。「人の良さ」というか、「人のまっとうさ」はあくまでも最低条件だった。人のまっとうさというやつは実際働いてみるとあまりにもありがたいので勘違いさせられそうになるけど、「人が良い」というか、お互いに仕事内容だけでなく人格や人生を尊重し合うというのは、組織として当然の条件であるべきだと社会人1歳の赤ちゃんわたくしは思うわけなんだけど…(なぜここをありがたいものだと思ってしまう?大人はなぜあんなに性格が悪いの)。
人のまっとうさはあくまでも最低条件なのである。あって当たり前。だからこそ、残念ながら「人の良さ」に長時間労働における唯一の救いを求めても、「人の良さ」なんてものは簡単に評価がゆらぐことに気をつけたほうがよい。
具体的に私の場合、私は勤務時間こそ最悪だったけどチームメンバーはわりあいいい人たちだった。チームメンバーは全員長時間労働してたわけだけど、体調が悪ければ「早めに帰りましょう」と押してくれたし、思い切って早めに帰るといえば「いいじゃん!」と歓迎してくれるチームだった。こう思い返すとめっちゃいい人たちだったな本当に…と思う一方で、ちょっとしたミスをしたときに(互いにそこまで互いを配慮する余裕がなく)「そんなミスありえないでしょ」と言い放たれればやはりそういうあたたかい気持ちみたいなのは急速に冷え込んでいくわけで、そうなると被害者意識がメラメラと湧きあがり「私はこの人たちのために仕事やってたかもしれないのに、まあ、扱いはこんなもんかあ」などといじけてみたくもなる。
考えてみれば、人からの人の評価なんて簡単に変わると思う。とりわけ、私みたいな一年目ぺーぺーのなんの能力もない人間なんて毎日の周りの人からの「ほめことば」くらいしか評価がないわけだし。それは根本的な自分の能力や個性に起因しておらず、ほめことばの内容は日ごとに変わる。毎日続くであろう労働の根拠を毎日変わるものに依拠させるのはやはりどうしたってもろい。「人の良さ」だけを働き続ける理由にするというのはそういうことなのだ。私はあのときボスに「ありえないでしょ」と言われたときに、私はそういう、日ごとに変わるものに自分の毎日の生きている意味(大袈裟でださいけどでも本当にそうだ)を求めていたのだと気づいて自分の浅はかさと、そうでもないと頑張れなかった自分の状態に驚いたのだった。

 

蟹工船・党生活者 (角川文庫)

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ブラック企業みたいな会社で働く

たぶん私はブラック企業みたいなところで働いていた。朝10:00から夜0:00まで。朝8:30に出て1:00に帰る生活、睡眠時間は平日で5時間くらい。金曜日は次の日の仕事に差し支えないから2:00とか3:00とかまで。体はどっと疲れて重い疲労感があり、次の日の仕事が怖くて山手線の中でちょっと泣く。「このまま何処かへ」と思っても山手線は乗っても乗っても同じところに着くわけで。みなし残業80時間で、そもそもこのラインを超えるとおえらいさんが叱られるらしくそのしわ寄せは我々に来るので実情に即したタイムカードは切らせてもらえずすなわち80時間を超えても残業代はもらえてなかった。
ブラック企業「みたいな」、というのは、とどのつまりは私はもっと酷い環境をいくらでも聞いていたからだ。朝の5時まで働いて、シャワーを浴びに一旦家に帰って、少しだけ寝て、朝の8時にまた出社、とか、退社しても家に帰るまでの記憶はなく気づいたら服を着たまま玄関で倒れていたとかいう、まあそれに類する話を聞いていると、まあ私なんてまだ耐えられるほうなのかなーなんて思ったりもしていたのだった。
これからブログで何回かに分けて書こうと思っているのはそういう、電源を落としたあとの液晶テレビのようなブラック、ではないにしろ、一日8時間の勤務時間を超えて働くのはやっぱり心身ともによろしくないし、それで身体や精神は簡単に壊れるし、そしてそれで会社に文句を言ったり休んだりしていい、ってことである。ちまたで回ってくるのはスーパー激務でぶっ倒れました!それで休みました!みたいな話ばっかりで、そりゃそこまでいったら休んでいいっていうか、じゃあそこまでいっていない私は、やっぱもうちょっと頑張れるのかな、みたいな後ろめたさを整理するために、ここ数ヶ月で起こったことを書き留めておこうと思う。

ブラック企業みたいな、と距離感は取りつつも、やっぱ私きてんなーと思ったことはあって、それが電車の遅延を知らせる電光掲示板を見たときだった。朝の通勤電車を待っていると電光掲示板に「…で遅れています。」と最後の一文が横切るのが見えて、私は遅延しているのがどの路線なのか確かめようと掲示板を凝視した。たぶん常磐線かどこかだった。「常磐線は…」とまで流れたときに、私は次に続く文章が「人身事故」だったらいいなと強く望んだのだった。
めちゃくちゃな不謹慎なので怒られそうだなー。でもなぜだか私はそう思ってしまった。別に人身事故と車内トラブルで大きく遅延時間に差が出るわけでもない(いや出るかも?でもいずれにせよ遅延だし)。別に明確に誰か死ねって思っているわけでもなく、また自分で死にたいと思っているわけでもない。余談だけど私は最近読んだ『アンナ・カレーニナ』のせいで鉄道自殺に対する強い恐怖心がある。死ぬまで仕事をしなくたっていいと思うしそれはどんな人に対しても当てはまる、至極共通認識であるべきものだと思う。
でも私はその時、次に来るのは「人身事故かな」と感じた。そして、もし人身事故だったとしたら私はその人に強く共感するだろうなとも思った。わかる。全部わかる。仕事が毎日終わらなくて、終わった達成感も成し遂げた達成感もないまま次々に呑まされる労働が耐えられずに足元が歪んでいく感覚が、そのとき、すべてわかり、だからこの空間のどこか、私が名を知る路線のどこかで同じ気持ちを抱える人がいてほしいと望んだのだった。
そのあと続いたのが人身事故だったか、車輌点検だったか、あまり覚えていない。

よしなしごと

むかし、好きだった男がいた。

私も人並みに恋愛のようなものをしていた時期があって、例えば上の一文みたいに思い返すときは特定のだれかというよりもそういう、理由はどうであれ、想いを寄せていた人たちの、遠い影みたいなものを思い返すんだけど、とりわけ最近は、生きるためにはたぶん不要な、雑多な感情をやり過ごすために目をつぶるときに「好きだった人たち」の目線が、集合体となってまぶたの裏にくきりとタトゥーみたいに思い返される。

何年か前から音信不通になって、私が勝手に死んだと思い込んだ人は、全然死んでもおらず、なんかどっかの公務員になり、最近、恋人の家に結婚の挨拶に行ったらしい。

憧れと恋慕がまざり結局憧れが寄り切りで勝った人はかつて私の人生をあるものだと予言し、しかし私のいまの現況はけしてそうはならず、しかし「彼が予言した通りであったらよかったのに」と思うこともしきりで、その人はまた、私の人生は彼が予言した通りのもののほうが、私にとってよいだろうと言った。

一瞬だけ、刹那的に遣り取りをした人のこと。昔の恋人の思い出の品は捨てること、理由は言わずもがな。しかし私はその人がくれたものを、部屋の一番いい場所に、もう三年か四年近く、飾り続けている。

うら恋しさやかに恋とならぬまに別れて遠きさまざまの人(若山牧水)

先に太字にしたことと、矛盾するかもしれないけど、別に恋ではなかったのだ。彼らに対する感情は。きっと、世間一般でいう、恋みたいな感情にめちゃくちゃ似ていて私がもう1ミリ、素直でさえあれば、恋と宣言することもできたんだろうけど、やっぱり恋ではなかったのだ。彼らは恋ではなく、私の人生の里標となり、里標にたどりつくたびに、白い文字で私に問いかけるものであり続けている。休日にそういう薄暗い感情になるのはたいていダメで、私は少しでも前向きになるよう、彼らがかつて私に向けてくれたやさしいまなざしを(それはすべて、具体的な言葉ではなく、目線だった。まあ私が都合よく解釈しただけだけど)、ハンカチで包むみたいに心にとめて、ああ、次の一つを、ここから脱する次の一つを、すぐにやらなくてはと、あたたかい、もののように思うのだった。

 

少子化ローション

労働が長時間すぎる!!!!!!
自分でも信じられないけど、まあそういう業界だとは思ってはいたものの、自分の興味でもなくまた同時に世界のためでもない仕事を毎日終電まで繰り返していたらあっというまに精神がバグってしまった。しかしボスなんかは別に興味でも自分の世界のためでもなかろうのに私以上に働いており、まあ彼ら彼女らには自分の家族という世界があるのかもしれないが、単純にすごすぎると、ボスたちからは遠い安全地帯で感銘を受けている。
日々の長時間労働で何が変わったかって、性欲が減った。おいまたそういう話かい?!と思われるかもしれないがそういう話なのだ。このブログにもちょいちょい登場していたスーパーちんぽと、かれこれ二年近く付き合って(≠交際して)いるわけだが、まず12月クリスマスに会う予定だったのは私がとにかく「一人の時間」が必要になりキャンセルになった。キャンセルになったところで私に雌特有の「男が離れてしまうかも」というような焦りはあまり生じず(セフレに毛が生えたようなものだからそんなものか)、とにかく長時間労働に盗られ続ける自我を必死で組み上げその中を好きなもので満たした。
ムラムラするからセフレがいるってよりも、セフレがいるからムラムラする、になったのはいつからでせうね?まあはじめからそうだったのかもしれないけど1月の中旬にはそういうことでようやく会いましょうかと相成り会ったのだった。が、セフレのちんぽが入らない。夫のちんぽが入らないのも大変だがセフレのちんぽが入らないのも一大事だ。ムラムラはします、正確にいえばちんぽも入りますが動くと痛い。正確に言えば痛いというよりもなんか無理なのだ。たぶんそれなりに濡れてはいたんでしょうが、なんか、中の弾力が死滅しており肌年齢だったらかなり実年齢と乖離しているだろうと思われる感じがするのだ。動くと痛い。なにもかも合致していないような感覚で残るのはただ摩擦のひりつきだけだった。 しかもクソ笑えることに、セックス中に号泣した。痛いわけでも虚しいわけでもなくおそらくこういうのはホルモン系のエラーと相場は決まっているがとにかく涙が止まらず頭の中身が歪むのである。電気は消していたので向こうには気づかれなかった…とは思うが心の中で、私は日下部まろんかよ、、と嗤うことでひたすら自分の安寧を保とうとしていた。
そりゃね、国よ、経団連よ、これじゃ少子化は進みますわ。恋する時間も愛する時間もなければまんこが潤う時間もなく、働く女に残されるのはまんこの痛みと自分がセックスできないことの敗北感よ。ローションを使い潤えども満たされず、性交というのはまったく濡れ非濡れの問題ではなく心の余裕の問題なのだなあ。とはいうものの濡れれば救われるのではないかという愚かな人間たちの浅はかな必死さを捨て切ることもまたできず、しかし市販のローションは部屋に置いておくにはダサすぎるし、テンガさん、イロハもいいけど部屋に置いとけるローション、どうっすか。このうら悲しき、人がついに労働に疎外を超えて殺される二十一世紀という時代に。この記事としては少子化対策ローションみたいなものを売ったらどうですかってオチにしようと思ってたんだけど通勤途中のテンションではそんな冗談を飛ばす余裕すらなく、とりあえず私にセックスに余裕を持てるだけの余裕もください。

幽霊の話の話

David Lowery監督のA Ghost Storyを観てきたんですよ。「a ghost story」の画像検索結果

か〜〜〜語る言葉をもたない映画というのを久々に観て、いったいこれはなんの話なんだろうな、まあ、タイトルの通り幽霊の話であってたぶんパンフレットを読むと幽霊にまつわる、人間が想いを寄せがちな思考実験が描かれているわけだが、この映画は言葉を付そうとすればするほど映画を観た瞬間に私が獲得した感情から絶妙にずれていく立ち位置にある映画で、やはり私はこの映画について、「幽霊の映画である」以外に語る言葉をもたない。映画中からおいおいと泣けてきて涙をふきふきしょうがなかったんだが映画が終わってぱっと明かりがつけばそんな涙目小僧なのは私だけで気恥ずかしかったのだがこれはけして「泣ける私、感受性」アピールではなくただ単に涙腺の弱いかもしれないだけの私がしょーもなく思えて恥ずかしかった。
サウンドトラックもすばらしく、すばらしいと思ったらSpotifyを開けばすぐにサウンドトラックが聴けるこの時代のありがたさ。
I Get Overwhelmedを聴いていると私も誰かが死んだようなもしくは私が死んだような気持ちになって、これまた恥ずかしいけど帰り道は後ろを少し振り返るなどもした。人は死ぬ、なにを遺しても人は死ぬし愛する人はいずれ去る、人はパーティーアニマルで人は恋人が死んだ人にチョコレートパイを贈る、幽霊はいるかもしれないしポルターガイストは起こるかもしれないが詰まるところはよくわからず幽霊自身にもわからず、人類も地球も宇宙もいずれ無くなるのだろう、私は何にしたってわからんが、わからないので、こういうきっとありきたりなものの一つに過ぎない(”A”)Ghost Storyとそれと交差する人間の感情に独りよがりにも思いを馳せた。いい映画だった。2018年12月23日現在ヒューマントラストシネマ有楽町にて。

真夜中の発光

夜、スマートフォンをぴかぴか光らせながら見るものといったらAV。AV、エロ目的で見ることもそらそうなんだけど、なんというかボディメイクのモチベーション的に見ることもある。詳しい解説はまたこんどに譲ることにして、こう、「やっぱアングロサクソンのお腹まわりはちゃいまんな」「腸腰筋めっちゃ発達してるやん」「骨盤の角度が違いすぎ」と洋モノを見ながら、「ちょっとだらしない体だけど尻はいいですよ」「やっぱり女は太さ細さじゃなくてくびれやなあ」と和モノを見たりする。

どうでもいいんだけど、「好みとしてはデカパイでも貧乳でもない!お、これくらいの感じがやっぱちょうど素敵だなあ」と正常位の女性の胸を見ながらあとでその女優さんについてググったりするとFカップだったりして、時折「男性は女性のカップ数全然わかってない!!!」みたいな女性の声があったり私も「男性まじで女性のカップ数わかってないわー」と思ったりすることあったんですけど多くの男性が正常位のときに女性の胸を判断しているのなら(胸は横に流れ小さく見えるので)そりゃ感覚わからなくなるよなあ…と思った。「Fカップはこれくらいの大きさなんだしFカップあって当然」と男性が感じてしまうのはここからで、私はこれを「男性の目検のブレはAV由来仮説」と名付けることにした。

どうでもいいんだけど②、このブログのアクセスランキングの二大巨塔はやはりアナルセックスの話と3Pの話で、最近アナルセックスの話が怒涛に追い上げてきてて「何?」と思ってアクセス先たどってみるんだけど「アナル 女性」といった検索語の検索結果ページが大概でそこからエロ系画像のまとめサイトとかにもつながっていて、ど直球のエロ目当てでここにたどり着いちゃった男性には申し訳ないと思うと同時に「もしかするとセフレにアナルでやりたいと言われ決死の覚悟で調べている女がいるのかな…」と読者が真夜中にベッドの中で発光させるスマートフォンに想いを寄せたりする。エロ目的にしろハウツー目的にしろあんまり記事はなくてごめんね…と思うので、そういう目的の人はまずアム読んだほうがいいですよ。

精神が絶不調

精神が絶不調のときは浅田真央2014年ソチオリンピックのラフマニノフを見ると決めていて、曲と彼女の人生と動きのカタルシス、音の重なりが私が見逃していた世界の重厚さについて思い出させてくれる。
あーあーあー全然つまんない、毎日疲弊ばかりが積み重なって指先だけではした金を引き止める自分が全然つまんない、昔きっと大事にしたかったこと、和音の重なりみたいな、そういうものがここ数年まったく積み重ならないまま生きてく自分が虚しい。なんでこんな生活にすがりついているのかもよくわからないまま。体重はどんどん増えていって、(それは私が食事をコントロールできないからなんだけど)、残業すると鼻の脂とか足の臭さとかそういうものが酷くって何もかも醜くすべてがだめみたいな気持ちになる。おさだあんなさんも言うみたいに美容が自尊心の筋トレなのだとしたら私の自尊心は夜、ゴムみたいに伸び切ってしまってなにもかもがしんどい。正直なところこういう「エモーショナル」にまつわる語彙も表現も全然変わらないままでひたすら「しんどい」を繰り返している自分の文章を目の当たりにしなければならないのもしんどく、しかし吐き出す先はいつまでも必要としている。先日おすすめの本を聞かれて答えたけれどそれが六年も七年も前に読んだ本だと気づいて愕然とした 私は精神的な向上心なんて全くどっかに捨ててしまっていたのだった。もーどうしていいかも全然わからずわかるのだけど踏み切る勇気も知恵も金も体力もやる気もなく人生が30年くらいで終わればいいのにとゆるやかな自殺願望を密かに胸に抱える。頭のなかの濡れた和音はいまにもぱりぱりと乾いていって、ほんのささやかな刺激で風に吹かれる砂みたいにどっかにいっちゃいそうだ。私はきっと明日になれば元気でまた指先だけで仕事をこなし、指先だけの仕事でもきっとしっかり傷ついて、また絶不調になって、夜また自分の人生の歯がゆさを人のせいにしたりするんだろな。