真夜中の発光

夜、スマートフォンをぴかぴか光らせながら見るものといったらAV。AV、エロ目的で見ることもそらそうなんだけど、なんというかボディメイクのモチベーション的に見ることもある。詳しい解説はまたこんどに譲ることにして、こう、「やっぱアングロサクソンのお腹まわりはちゃいまんな」「腸腰筋めっちゃ発達してるやん」「骨盤の角度が違いすぎ」と洋モノを見ながら、「ちょっとだらしない体だけど尻はいいですよ」「やっぱり女は太さ細さじゃなくてくびれやなあ」と和モノを見たりする。

どうでもいいんだけど、「好みとしてはデカパイでも貧乳でもない!お、これくらいの感じがやっぱちょうど素敵だなあ」と正常位の女性の胸を見ながらあとでその女優さんについてググったりするとFカップだったりして、時折「男性は女性のカップ数全然わかってない!!!」みたいな女性の声があったり私も「男性まじで女性のカップ数わかってないわー」と思ったりすることあったんですけど多くの男性が正常位のときに女性の胸を判断しているのなら(胸は横に流れ小さく見えるので)そりゃ感覚わからなくなるよなあ…と思った。「Fカップはこれくらいの大きさなんだしFカップあって当然」と男性が感じてしまうのはここからで、私はこれを「男性の目検のブレはAV由来仮説」と名付けることにした。

どうでもいいんだけど②、このブログのアクセスランキングの二大巨塔はやはりアナルセックスの話と3Pの話で、最近アナルセックスの話が怒涛に追い上げてきてて「何?」と思ってアクセス先たどってみるんだけど「アナル 女性」といった検索語の検索結果ページが大概でそこからエロ系画像のまとめサイトとかにもつながっていて、ど直球のエロ目当てでここにたどり着いちゃった男性には申し訳ないと思うと同時に「もしかするとセフレにアナルでやりたいと言われ決死の覚悟で調べている女がいるのかな…」と読者が真夜中にベッドの中で発光させるスマートフォンに想いを寄せたりする。エロ目的にしろハウツー目的にしろあんまり記事はなくてごめんね…と思うので、そういう目的の人はまずアム読んだほうがいいですよ。

精神が絶不調

精神が絶不調のときは浅田真央2014年ソチオリンピックのラフマニノフを見ると決めていて、曲と彼女の人生と動きのカタルシス、音の重なりが私が見逃していた世界の重厚さについて思い出させてくれる。
あーあーあー全然つまんない、毎日疲弊ばかりが積み重なって指先だけではした金を引き止める自分が全然つまんない、昔きっと大事にしたかったこと、和音の重なりみたいな、そういうものがここ数年まったく積み重ならないまま生きてく自分が虚しい。なんでこんな生活にすがりついているのかもよくわからないまま。体重はどんどん増えていって、(それは私が食事をコントロールできないからなんだけど)、残業すると鼻の脂とか足の臭さとかそういうものが酷くって何もかも醜くすべてがだめみたいな気持ちになる。おさだあんなさんも言うみたいに美容が自尊心の筋トレなのだとしたら私の自尊心は夜、ゴムみたいに伸び切ってしまってなにもかもがしんどい。正直なところこういう「エモーショナル」にまつわる語彙も表現も全然変わらないままでひたすら「しんどい」を繰り返している自分の文章を目の当たりにしなければならないのもしんどく、しかし吐き出す先はいつまでも必要としている。先日おすすめの本を聞かれて答えたけれどそれが六年も七年も前に読んだ本だと気づいて愕然とした 私は精神的な向上心なんて全くどっかに捨ててしまっていたのだった。もーどうしていいかも全然わからずわかるのだけど踏み切る勇気も知恵も金も体力もやる気もなく人生が30年くらいで終わればいいのにとゆるやかな自殺願望を密かに胸に抱える。頭のなかの濡れた和音はいまにもぱりぱりと乾いていって、ほんのささやかな刺激で風に吹かれる砂みたいにどっかにいっちゃいそうだ。私はきっと明日になれば元気でまた指先だけで仕事をこなし、指先だけの仕事でもきっとしっかり傷ついて、また絶不調になって、夜また自分の人生の歯がゆさを人のせいにしたりするんだろな。

女の決意の左向き顔

この前誕生日で、私もいやおうなくアラサーになりました。四捨五入で〜とかそんな小細工しなくてもアラサーになる年齢にめでたくなりました。
しかし誕生日前日付近からな〜〜〜んとなく体調ならぬ心情が悪く、わかりやすく言えばずっと生理前!みたいなあのつーんと虚しく悲しく切ない感情が秋の低気圧と相まってぎゅ〜と私を締め付けるので前日はケーキを買って帰ったのにケーキの入ったビニル袋がしゃりしゃりと鳴るのがなんとなくうら寂しく東京のど真ん中で泣いちゃうかと思ったよ。
家に帰ってから、あっと思ってNetflixで「この世界の片隅に」を見た。

www.netflix.com

いわずとしれた戦争映画なんだけど、そこも好きなんだけど私がその日にこの映画を見ようと思ったのはすずが広島から呉へと旅立つシーンを思い出したからだ。すずが、広島の街を、「原爆ドーム」といまは呼ばれる建物を描きながら、「さようなら、広島」と心で言う。すずはそこで泣くわけじゃなかったが、(表向きは)最後になる広島の街を淡々と描き、描くためにまっすぐ見つめる。主体もなにもなく、好きな人のことを心に抱えたままお嫁にゆくすずのその言葉は決意の言葉でもあったのだ。

決意みたいな諦めみたいな、でもがんばるでーみたいな複雑な女の心情を同様に思い出すのは魔女の宅急便のラストシーンで、キキは最後に「落ち込むこともあるけれど私は元気です」と母に手紙を出す。ご存知のように、キキの独り立ちはうまいことばかりではなくどちらかといえばまずいことばかりであったのだ。それでもキキはなんとかたち直って一人で暮らして行く心を決める。落ち込むこともあるけれど落ち込んでなんからんなくってそういう意味では諦めだけどやっぱり決意なんだよな。

二人の決意の裏側には、故郷を捨てるイニシエーションがある。私が切ない気持ちのときにこれらの女たちを思い出すのは、決意の裏っかわにある、失ってしまった故郷、もう二度と前と同じ関係性を持つことはできない故郷、その周辺の人々を懐かしく感じるからなんだろうな。

前回の記事といい、昔をやたらに思い出していないのは現状に満足していないためのような、よくない傾向よなあ。

まあしかしもっとあけっぴろげに言ってしまえばこれは私なりのオナニーなんだろうなと思う。だって昔を手に入れたいわけじゃ全然ない。私は少なからず前進しているし、昔にいまを前進させる力はない。もう手に入らないものを、あー手に入んねえっすねえって悲しむふりをしながら心のどっかをこすりあげて「エモーショナル」を感じたいだけの自分に、十分自覚的だ。

隙あらば入り込むエモーショナルに、わたくしも、さようなら故郷、落ち込むこともあるけれど私は元気で、故郷は二度と手には戻らずそれでもなんとか前進してゆきてえよ、と浸り込んでみるけれどあまりにすずやキキの顔を思い出すことが多いので、もしかすると世間一般ではこれはオナニーではなく孤独って呼ばれるのかもしれない。

 

ピエールボナールのもったりと色彩豊かな世界に浸ってもろもろの創造力を回復する

国立新美術館の喫茶店は北欧ぽいの椅子(誰の作品だっけ?)が置いてあってかわいいね。黒革のチェアシートもモダンに調和的でいい感じ。つまらん人生なんて送っている暇はないのだよなあと痛感する。
ピエールボナールは1867年生まれ、だいたいは「ナビ派」と呼ばれる流派にぞくしていたらしく(しかし「ナビ派」というのは堅苦しい流儀というよりも人の出入りがけっこうあった、サークルみたいなものだったらしい)、昨年に三菱一号館美術館でもナビ派の展示がありましたわな。三菱一号館美術館の展示でも言われていたようにナビ派に属するピエールボナールもまた、はちゃめちゃに色彩を操り見えるものを切り取る。展示でも言われるが、彼の描写のスタイルは見たものを記憶してアトリエに戻り、記憶の中の現実と記憶の中の理想を行き来しながら描くものであったらしい。そうして生まれるピエールボナールの絵画は常に現実でありながら同時に理想であり、理想でありながら同時に現実である。ピエールボナールは誰もが経験しているが故に想起するノスタルジアを刺激しながら、誰もが経験し得なかったが故に想起するノスタルジアを提示する。日本画から学んだ、立体の都合の良い平面化・余白の活用といった描き方、そして自由に色彩を組み合わせ整えることから生まれる画面全体の快さは、相反する二種のノスタルジアをまとめて、見るものに染み付かせる。最後の「花咲くアーモンドの木」なんてエモすぎて、ちょっと泣きそうになったわな…。

全然ピエールボナールにもナビ派にも関係なくって今回の展示でなんとなく考えただけだったんだけど、「世界にはこんなにもいろいろなものがいろいろあるのにお前がただただ気づいてへんかっただけ!」ということを気づかせてくれたものに宮崎夏次系の漫画があるんだよな。彼女の漫画はストーリーの目線が向けられていない部分に対しても等しい熱量の筆致で描かれる。あー私の知らないところでこんなんなってたんですね、という。ピエールボナールの描く、昼食の様子、人の集まり、窓からの風景は、知っていたようで知らなかった/知らなかったようで知っていた景色が、けして退屈で惓んだものではなくもったりと居心地の良いところであったことを口を酸っぱくして告げているのだよ。

くーしかし美術の評ってのは難しいものですなあ、私の使う言葉の薄っぺらいことよ、、、私に美術の素養がないっつうか、「素養」などという言葉で逃げられないほど勉強してないからなんでしょうけど。美術館を回るたびに、「学ばねば」みたいな、教養に対するコンプレックスが炸裂することは炸裂自体が恥ずかしいわけですが、しかしよい絵を伸び伸びと見ることは心身ともに凝り固まったいらだちや屈折感をほぐす行いだと思いますので、週末はオシャレして美術館に行こっ。

ここは退屈なので、誰かが迎えに来るのを乞うよりとっとと飛び出してしまいたいとおもうことが多々ある

そういう感情をよくよく精査してみるとそうおもうのはたいていが生理前でまあ落ち着いて黒蜜でも舐めましょうやという話ではあるんだけど。人は自分でしてきた以上のものにめったな限りなりえないものだしいま自分が抱えるそういう感情でさえ自分がどうしようもなく築いてきたものであるのだからしょうがない。

わたくしのいま現在の日常はだいたい下記のような感じである。
まず朝起きる。アラームで設定していた時間よりたいてい早く起きる。シャワーを浴びる。朝シャン派だ。ルベルの、頭皮がすっきりするシャンプーを使って髪の毛を洗い、マジックソープで身体を清潔に洗い、古い角質を落とすためにコンランショップで買ったボディブラシも使う。仕上げに菊正宗の化粧水ホホバオイルでお肌をすべすべにする。朝ごはんには玄米とキヌアとわかめを炊き込んだものに納豆と卵を。
以下略。

こうやって書くと冗談かってくらいうざったい感じがむんむんと立ち込めるわけだけど実は仕事から帰ってきてからの時間はけっこう自堕落なのでいわゆるていねいな暮しとも言い切れないんだけど、まあそれはいいとして、こういう、なんとか自分の心とかを落ち着かせようと思ってなんとなくルーティンにしてきたものがけっきょくのところなんの効能も持たないときがある。
ていねいなんか忘れさって私は暮しにドーピングが欲しい。といってもむやみやたらに浪費する生活にも、そういうのにいちいち後ろめたさを感じて、とどのつまりは金が必要になる行く末を考え直してしまう自分の思考の癖にも嫌気がさして、そこで私がだいたい走るのは断捨離である。断捨離。こちらもまた、かっこわらい、とも思わんでもないんだけど、「お金を使う」わけではないその行為にやっぱり恍惚を覚えたりすることもある。最近は、生活の退屈レベルが上がってきたためかそれともただ知的に怠惰になっただけかはわからないけど断捨離の対象に、いままでならなかった書籍も上がるようになってきて、まあKindleのUXの向上と比例してどんどん自炊していこう!という気持ちで本をさばいていっている。
書籍持ちはお金持ち、それはもともと書籍が高価ということもあるんだけど、書籍は所蔵するスペースが必要になるし、スペースには土地代・家賃がかかる。引っ越しするとなると本のためにダンボールを10箱もよけいに頼まなくてはならないのはざらである。要するに、所有者が動くにしろ動かないにしろ、本を持つことには金がかかることなのだ。
私は本が好きだし、本を持つのも並べるのも、それに自分の自尊心を投影するのも好きだ。でもけっきょく、金を持たない人が本/モノを持つのならその人はその地に縛られるほかない。なにかを捨てるという行為は、私はけっきょくここにいなくたって生きていけると思い込ませることができる、最高のドーピングなのである。(いまは)ここにいたくないんだ!私は。だってここは退屈なんだし。誰かに迎えにきてほしいなんて甘っちょろいこといってらんないし、いつかここでないどこかに行くために私は粛々と本の背を切り開いている。

家族旅行みたいな、「幼児(期)は遠くなりにけり」みたいな感情

別にブログにするほどのことでもないんだけど、家族旅行をした。関東近郊を父母姉+姉の子ども(姪)で五人旅。姪が生まれてからはじめての旅行で二歳になってぜっさんイヤイヤ期の姪は行く先々でごねにごねてゴネゴネ、残暑もあいまって年齢もあいまって姪一人以外は全員げっそり。ま、「もう二度とむりー」とみんなが言いながらもけっこう楽しんだんだけどね。
姪はわたしの子じゃないけれど、彼女を見ると自分が「こうだったかもしれない」とおもうには十分だ。わたしの母いわくわたしはもーちょっとおとなしいというか幼稚園に入るくらいまで口がきけなかったらしくそのぶん楽であったらしいけれども、散らかす食事、おむつに炸裂するうんこ、ちなみにうんこはおむつにしたところでそのまま捨てると臭いので、うんこはトイレに流すんですよ!そりゃそうなんだけどね、えんえんに泣いて夜中もぶすぶす言ってる姿はまあ「子ども叱るな来た道だ」ともおもうってなもんで。
姪という新メンバーの加入で、まあ一応これも家族旅行だったわけだけれども私の四人家族とはまた違った様相で、我々四人は全員、父母姉含め全員大人に、老人になり、お互いにムキになったりもまあしながらも、ある程度の距離を、お互いにしっかりと定規を置くかのように、取りながら旅行をこなしていく。「全員が楽しめているかしら」と思いながら歩くディズニーランドは少し気配が違って見えて、私も老けたものだと、自分の昔をはるか遠くに思った。
父母姉は同じところに住んでいるので私が新幹線まで見送った。彼らに着いていきたいようなそうでもないような、マジでとっととマンションに帰ってしまいたいような、なんか手土産でも用意してやればよかったと、入場券を買って入り口まで着いていってやればよかったと、いうような。なんかね、生理前みたいな感情よ。無闇矢鱈滅多にせつないみたいな、せつないの押し売りみたいなよ。
私もそろそろ生殖家族をと思う切実さとは完璧に違っていて、心に残るそれは生殖家族欲しさではなくただ単に誂えられた「家族」を居心地よく享受したいというような。しかしこの家族と定位家族をもう一度繰り返すのはしんどいだろうなという確信ももちろんありながら。

改札で見送る私を振り返らずに新幹線に駆けていく三人と姪を見つめたときに心に残るそれはなんつうか、わたしが幼児からいまになるまでのどこかに、まあいい意味で、落としてきた「過去」みたいなやつで、それはすこやかに眠る姪と同じような顔をしている気がしたのだった。もしくは眠る姪をおだやかに取り囲む、かつて私にも確実に向けられていた(いまもきっと)、愛、みたいなやつと同じ匂いをしている気もする。

ま、せつないの理由は秋のかおりが日頃に強くなってるせいか。

全然よくわからないけど、それでも子育てのこととか

夏の終わりにちーとばかし旅行をして飛行機に乗る機会があったので飛行機と言えば観たいと思っていたけどほんとにシアターに行くまでにはちょっと腰が思いなって感じの微妙なクオリティの映画を観たりする時間なので、というわけで今回の旅行のフライトでは”Tully”を観た。邦題は「タリーと私の秘密の時間」っちゅう、まあなんちゅうか昨今の日本人の情けない言語センスをもろ反映したものでありますわ。日本語版トレーラーも日本人は情緒をすべて失ってしまったのかな?っちゅうくらいまあしょぼくれたものでありまして、「時間のない現代の女性に送るーー」とかそういうコピーが入る、なんかこう、日本の歴史が丹念に育んできた詩情とは一体?という感じだったのだが、(長くなりすぎた)、この映画は育児に関する映画で、私の周りで子育てをしはじめたのは姉とか、学歴的バッググラウンドをほぼ同じくする友人とか、というのがいて、彼女らを見ていると「子育て」とか「母であること」に否応なく過剰に反応するようになり、その流れでこの映画も観たいなと思っていたのだった。そう考えていたところでちょうど機内で見つけたので、行きのフライトで早速。
結論から言うと、ま〜じで、昨今の日本の映画プロモーションの表象的貧困さを呪うというか、少なくとも「時間のない女性」(だけ)に送る映画ではなく、できれば女性というより男性に観てほしい、すなおにいいと思える映画だった。と思う。

「tully」の画像検索結果

あらすじとしては、二児の母親であるMarlo(Charlize Theronが演じている)が期待せずに三人目を妊娠・出産してしまい、育児・子育て・生活にほとんど殺されかける。夫は育児をまっっっっっっったく手伝わず、食事も作らずマーロが(忙しさから)冷凍ピザを用意すると、「冷凍ピザ?おいしそうだね」などと嫌味をぶちかます余裕すらあり、夜中はヘッドホン!!!をつけてゲームをし、帰宅後は赤ん坊を見て「かわいいね」などと抜かす、ようするに子育ての汚いところ、うんことかゲボとか、をまったく見ない男性であった。
そこに、なんじゃかんじゃ略で、マーロの兄がナイトシッター(夜だけ来るベビーシッター)を勧める。マーロは見知らぬ人間を家のなかにいれることを拒絶していたが、ある日の夜、タリーと名乗る若い女性が夜中にマーロを訪れる。で、このタリーはスーパーシッターで、マーロが説明せずとも、完璧な育児に加え、家事までこなしていく、という話。

この映画はけっこうギリギリ的な物語の上で成り立っているので、うかつに感想を話したりするとネタバレになりかねないので、ちょろっとした私の話だけ。上述のあらすじのところで私がめっちゃ力を込めて夫の育児のしなささを書いたことからもわかると思うんだけど、物語前半のワンオペ育児シーンはまじでちょっと悲惨である。世の中の母親が観たら「わかるわ〜」どころじゃなくてちょっとしたトラウマも思い起こしかねない。それでもマーロはなんとかこなしていくし、タリーが来てからはさらにその育児っぷりは順調に進んでいく。まあここからは以下略で、で、やっぱりここからはネタバレになりかねないのでまあ観る予定のない人だけ読んでほしいんだけど。

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