ピルを飲んでいるから絶対(いうて、99.9%)妊娠するわけはないのに生理が来ないんではなかろうかと毎月心配したりする。

ああでもこういう感覚って男性にはわからんのやろなと思ったりする。いや、飲んでるじゃん。人間の叡智を飲んでるじゃん。となるんだろうな。飲み忘れがなければほとんど100%避妊に成功するらしいピルの威力。いきなりあれな話なんですけど先月分は膣内射精というやつを一夜に八回(?!)することがあって「ああこれピル飲んでなかったら確実に妊娠するやつだわ」と行為中に確信した。(しかし妊娠率というのは意外に低く、排卵日と思われる日前後に性行・膣内射精をしても妊娠できるのは五割くらいであるらしいのだが。)しかし同時に先月は私にしてはめずらしく飲み忘れや飲み遅れが一度もなかった月で、万全の準備のなかで出迎えた八回の中出しだったわけであるが。まあ、「もしかしたら」の不安はいつまで経ってもぬぐえないやい。

こんなこと話す女が宣伝するからあれなんだと思いますけどピル、いいですよ。ヤリマンのための薬ではけしてあらず。避妊もあるけどきっかり28日周期で生理が来るのがいい。突然生理がきて下着がえらいことになるなんてこともないし、そろそろですかな?と思ってナプキンを設置しても生理が来ずただのナプキン損・お股蒸れ損(なにそれ)になることもない。何より自分の体を理性でコントロールできる「人間」感がいい。まあピルのせいで動物じみた性行に走っているわけなんですけれどもね。元も子もねえー。子はないよね。ピル飲んでるから!

で、ちゃんと生理きました。そらそうや、と、よかった、の間で揺れる女心なのであった。

ゲットアウトとシティベーカリーのチーズケーキ

私はいま修士課程の学生で修論を書いている真っ最中、締め切りまであと一か月ということになったのでずーっと頭は修論のことを考えっぱなし(マジで)。でも頭はいつまで経ってもクリアにならず、クリアじゃない頭で物事を考えることは本当によくないので、いろいろ試しはしたんだけどやっぱり物語と音楽に身を沈めることができる映画というものがいいんだろうなと思ってツイッターで評判の良かったゲットアウト(ジョーダンピールJordan Peele監督、カナダ、2017)を観に行った。場所は日比谷シャンテ。

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丸の内線銀座から日比谷へと向かう。丸の内銀座エリアといえば東急、またカカオマーケットのドライフルーツがいいかなと思ったけど100gからしか買えないのが億劫で(100gだと1600円するし)、そういえば前回諦めたマネケンのワッフル!とも思ったんだけどまたもや遅刻気味に銀座に着いてしまったのでお世話になります東急プラザ!そういえば東急プラザの地下二階にはシティーベーカリーが入っていて、私はシティベーカリーのピーナツバタークッキーが大好きだった~!と思って立ち寄ることに。

THE CITY BAKERY | 東急プラザ銀座 | 東急プラザ

夜八時近くの上映だったので店内の品物は少な目。三連休初日だったし買い物に来る人が多いんかも。クッキー等の焼き菓子コーナーはまだちらほら残っていてピーナツバタークッキーも発見。ピーナツバターをそのままかじっているような濃厚な味がやみつきなんですなあ。と思ったら隣にあったチーズケーキ(名前忘れた)に目を奪われてしょうがねえ。チーズとチョコレートの組み合わせとな。悩んだ末チーズケーキを購入。紅茶はあらかじめ作って水筒に入れておいたトワイニングのレディ・グレイ。

ほんで映画、ゲットアウト。最初の音楽がめちゃくちゃ不穏で、「人種差別ホラー」とは聞いていたけど「一番怖いのは人間でした!」のパターンではなくマジでマジモンのホラーなんか?!と思わされるほどでケーキを食べるのを忘れる。映画の構成はめちゃくちゃよく出来ていてドキドキしたりゲラゲラしながら映画は進むんだけど、「人種差別」の部分でやはりどうもムカムカしてしまって、そうそう、リベラルと呼ばれる人たちのこういう振る舞いが私も苦手なんだと思いながら(映画中のエピソードは黒人である監督の実体験に基づくものらしい)、話が落ち着いてきたのでチーズケーキをかじる。チーズの酸味がかなりしっかり出ていて、それがチョコレート部と混ざっていい感じ。と思ってたら映画はガンガン進むので次第にチーズケーキのことを忘れていく。キンキンにテンションを張った状態で映画はエンディングへ。監督がコメディアンらしく、こういう不快とも言える映画をコメディアンらしく笑いで中和させようとするんだけど主役のダニエル・カルーヤDaniel Kaluuyaの表情に圧倒されて笑えねえ。なんというか本当に映画の構成、ありがちだけどしっかりした映画音楽、色遣い、演技等、映画・ホラー映画としてはとっても良かったんだけど、なんかやっぱり「黒人」と呼ばれる人たちがとことん救われなくてゲッソリしてしまった。娯楽としてのホラーの恐怖心と、生きることにまつわる本当の恐怖心がないまぜになってとても厭な気持ちになったんだけどこれは私がポリコレ警察になっちゃってるだけかなあ。

私小説『ブラック・ボーイ』を読んだときにも思ったけど、黒人による作品って最後まで、自身を冷徹に見すぎるところがあって、自分たちを、なんというか、「落とす」んだよね。謙遜とかではなく、強烈な差別体験があったからこそ、その描写に手を抜かず、時に自分たち自身に原因を求めていく。

もちろんこの映画では、『ブラック・ボーイ』のときのような問いかけはないんだけど、けっきょく、黒人であることが、この事態を招いてしまったという救われなさの圧倒的な描写に、私はマジで凹んでしまった。

結局チーズケーキは半分残して翌日に持ち越し、ちなみに紅茶は熱すぎて飲めなかった。

プラネタリウムとカカオマーケットbyマリベルのチョコレートスコーン、フルーツディップ

CACAO MARKET by MarieBelle

東急プラザに入っているマリベルのお店 チョコレートのお店でボンボンショコラ、カフェ併設。持ち帰り用の焼き菓子やらドライフルーツにチョコレートをかけたものやら、その他もろもろのチョコレート製品。有楽町ヒューマントラストシネマで「プラネタリウム」を観るつもりで、マネケンのワッフルでもいいかなと思ってたけど四丁目交差点付近までいくのが億劫で、そういや東急プラザにマリベルが入っていて行ったことなかったなと思い出してそちらに。ナッツのチョコレートコーティングとかもあったけどボリボリするのもアレだし先述の通り焼き菓子(小麦粉)の気分だったのでチョコレートスコーンとフルーツディップを買う。コーヒーはスタバであらかじめラテを買って、水筒に入れてもらっておいた。

オープニングで食べたのがチョコレートスコーン、舌に触れる塩味がここちいいけど何より甘すぎ!これがアメリカ様の本気やで。これは食べきれんぞ。うーむ。と思いながら、探究心で買っておいたフルーツディップ、本日はオランジェットとフィグとダークチョコレート・ピスタチオ。フィグが大ぶりなのでとりあえずオランジェット。これがうまくて、オランジェットといえばレオニダスとかまあいろいろあるんだけど、マリベルのはまずオレンジの味がしっかりしていて、そこに邪魔にならない程度にチョコレートがかかっておりちょうどいい塩梅。ダークチョコレート・ピスタチオもこっそり割って食べる、ちょっとカカオの味が強く出すぎる。オランジェットをメインにつまみながら観たプラネタリウム、スピリチュアルと詐欺のぎりぎりの線上をキャッキャと駆け巡るナタリー・ポートマンとリリー=ローズ・デップが見られるのかと思いきや映画はもう少しシリアスで何も考えていないコピーに腹がたったり、へたに現代芸術的なカットを持ち込んで歴史も美もきめ細やかに描こうとしないディレクションに腹がたったり、まああんまりいい映画ではなかった(と思う)。

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パターソンとノワ・ドゥ・ブールの焼菓子

ちょっといい感じの焼き菓子とコーヒーを映画館に持ち込むのにはまっている。映画館への(フード販売で買ったもの以外の)食べ物の持ち込みってたぶんグレーゾーンなんだよなとは思うけど映画館に持ち込んで好きだった&好きじゃなかった焼き菓子について書く。

でも一応フード販売のジャンキーなチュロスとかポテトも好き

 

ノワ・ドゥ・ブールのパンプキンマドレーヌ(すごく好き)とフィナンシェ・カシスマロン(ふつう)

伊勢丹にあるノワ・ドゥ・ブール フィナンシェ等の焼き菓子やケーキ等の生菓子を売っている。

noix de beurre|ノワ・ドゥ・ブール

焼きたてのフィナンシェがとてもおいしく実家の帰省土産に買うと喜ばれる キャラメルパウンドケーキは洋酒が入っているので子育て授乳中の姉には怒られたが私の母はこの濃厚な味をとても気に入っている。一個から紙袋にざくんと入れてもらえるので(日持ちが違うものは別々の袋に入れられるっぽいので面倒)よく買う。

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(画像出典: noix de beurre|ノワ・ドゥ・ブール

で、たぶんそれぞれ十月限定だと思われるパンプキンマドレーヌとカシスマロン味の焼き菓子を買って新宿武蔵野館に「パターソン」を観に行った。コーヒー屋による時間がなかったので武蔵野館の自販機で水を購入。

パンプキンマドレーヌ、めっちゃうま。うま。かぼちゃとバター、糖質と脂質の組み合わせってこんなに人をめろめろにさせてくれるのねという感じ。ちょっと表面がべとべとしているので上映中うっちゃりシートなんかを汚したりしないか若干こころもとないが暗闇のなかでもはっきりとわかるかぼちゃの味、うま。

うまいなーと思ったついでに食べたフィナンシェ・カシスマロンは肝腎のカシスマロンの味がよくわからず普通。ふつうにフィナンシェで良かったかも。カシスマロンの味といえばジャンポールエヴァンでたまに売ってるテュランがめちゃくちゃうまいのでおすすめ しかも形状的に(舟形のアーモンドタルト)手でつかんで食べられる ただ箱に入れられちゃうから映画館じゃなくて家で食べるしかないんだけど。

パターソンはインテリアかわいいし日常も生活も味わい深かったけど日本人詩人の作為性がダサくて最後の最後に耐えられなかった。

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たかが世界の終わり

ある男が十二年も戻ってなかった実家に帰ってそこで過ごす話。なんで十二年も戻ってなかったかというのは冒頭に明かされるしトレーラーでも流されるからそこまで重要なネタバレでもないのかもしれないけど、もしかして全く前情報なしで観たほうがおもしろいのかもしれない。
とにかく、言葉、言葉の暴力よ言葉、字幕でも予告でも日本版ポスターでも「不器用」という語がつかわれるけれど不器用って日本語はなんとなしにださいよね、けれどもまあそうとしか言いようのない言葉の暴力にちょっと疲れる。なんどか目をつむってよーしらんフランス語の響きだけを聞いていた。けれども着実に緊迫していく雰囲気が張りつめて爆発し、収束し、映画は終わる。夕陽が収束を祝い、男は帽子を被る。言いたいことなんかどうせ一つも言えへんのや。たかが、世界の終わりに過ぎないのだし。

私はものすごくぐっときてしまったわけだが、でも感動を求めてみる感じでは全くないぞ、とにかく疲弊する映画だし、Varietyなんかは” a frequently excruciating dramatic experience”と言っていたくらいだし、演出も脚本も過剰だと思うことは多かったししかしその過剰さがリアリティなのであってすなわち根本的には苦しい映画だと思う。でもたぶん日常のなかに苦しさを見出したり取り入れたりすることは想像力のためにも必要なのであって。私は夕陽の中の男の帽子をずっとずっと思い出すだろう。どうでもいいけどギャスパーウリエルが昔に関係をこじらせた男に似すぎでつらかった!

下着の一生

二年間か三年間、使っていた下着がだめになってしまったので捨てた。鋏で切って(転用防止のためだ)、いつも使う香水をふりかけ、白い紙でつつみ、「いままでほんとうにありがとう いろいろあったな ほんまにありがとう」と言った。まじで口に出して言った。宗教かい。それから不透明のビニル袋に入れて、いまから捨てる。

 

そういえばこの下着ははじめてのバイトのお給料で買った下着。この下着を買ってから一年くらいはまじでなんもなかったんだけど、逆に言えば二年目以降はいろいろあった。男に会って、大事だと思って、けど事情により別れて、ほんでそれからこの下着もしらんくらいたくさんの男と寝た。きょう捨てる下着はその大事だと思った男との数少ない逢瀬のなか、二回も見せた下着なんだった。かといって別に格別のお気に入りというわけではなく、ベーシックやし二度見せるならこれかなあくらいで二回目を迎えただけやったんやけど(そのときには、もうほかの下着が二回以上その男に見られることはないだろうことはわかっていたのだ)。

そういうわけで一応は思い出深い下着だったから、捨てるかどうかはなんとなくだいぶ迷ったけど長いこと使っていたこともあって毛玉が目立ちはじめていて、なんとなくのよれもできていたし、その男とのはじめての逢瀬で使った下着はまた別のやつやったから、ええか、となった。下着一着捨てるのに昔の男の思い出にめためたにされる、わたしの精神の弱さよ。

 

男の逢瀬への準備はいつもやることてんこもりなのであって。化粧を落として、シャワーを浴びて、サボンのスクラブで肌を磨き、男が舐めても死なぬ程度にボディークリームを塗り、下着を選び、化粧をし、香水をかけ。

 

下着、男の人のなかではよう見る人と見やん人に分かれる。見る人はじろじろ見るし感想も言ってくれるしつけたまますることもある。見やん人はぺろっと剝がされて終わりなんだけど。ああその男は前者やったのう。はじめて見せた下着に、「お花がいっぱい」とかアホみたいな感想言ってましたねえ。はじめて見せたTバック、つけたままして、コンドーム、やぶけましたねえ。などと思い出すことで重ねてセンチメンタル。見る男も見ない男もおるけれども、しかしわたしにとって下着は常に100パーセント、逢う男を想って、選んで、それが積もった灰のように薄暗いけれども確実な過去。

 

さよなら下着、おまえのしらん私の人生がはじまるし、おまえも男もいまは私にはおらんけど元気、奇遇にもきょうは海外から頼んだ新しい下着が届く日やし。この新しい下着を、私は誰を想ってどんな人生を願って、履くんやろねえ。

えーんえんとくちから

私は去年の今頃くらいから男関係が急にだらしなくなって、だらしなくなったがゆえにいろいろ苦しむことがあって(具体的には性的悪縁特有の、好きだの好かれてないだの、そういうこと)時間を浪費することもあったんだけど、最後の一人だった悪縁に恋人ができそうだということでその最後の一本もようやくぷっつり切れた。バレンタイン三日前の出来事。

私は二年前の今頃くらいからデパート催事場のバレンタインチョコレート売り場のアルバイトをしていたのだけれどそれも今年は従事しておらず、チョコレートを売ることも、愛を捧ぐことも、二月十四日に向かって真剣なまなざしが飛び交うことも、私には人間どもの素振りの集合体のように見えてくる。

言いたいことはいろいろある。やっぱり私のことはアレだったんだねソレだったんだね。いや、そうじゃないよ。いや、そんなことは言わなくていい。ありがとうって言えばいいごめんねって言えばいい? ごめんねのほうが多分いい。でも、勘違いしないでよ。私も多分、あなたの性行為が好きだったから、あなたのことが好きだった。あなたの想像するようなロマンスはこちら側にもなく、それってつまりシャドーボクシング、最後まで意思は不疎通。

しかし、気分も沈むばかりかと言えばそうでもなく、変な高揚感も確かに私を引っ張り上げている。いままで彼らに甘えて考えてこなかったこと、やってこなかったことをやりたい気持ちに満ちている。沼から上がって私はシャワーを浴びている。

 

このだらしない関係は二つの意味で私を沼に巻き込んだ。

一。肉体関係を持つことによる、どうしようもない、恋愛、恋慕、詩情の変化。

私は、だらしない男関係はすべて自分で選択したものだと思っていた。友人に「大切にされてない人間関係にどうしてすがるの」となんども怒られたが、「大切にされていない人間関係」を望んだのは私自身だからその批判は的外れだし、「すがる」のは目的じゃなくて手段のうちに発生したちょっとした事故だった。ヒューマンエラーってやつ。もちろん、毎度事故を起こしていたので要するにそういう関係は私には向いていないということがよくわかったんだけれどね。

二。人間関係を持つことによる、無意識的な甘え。怠惰。看過。

けれど、自分で選択した、ただそれだけで、その選択が、自分にとって良いことであるかどうかというのは定かなものではないらしい。身軽になったからだで次の予定のことを考えると、私は“男性諸君に逢う”という物理的時間の拘束だけでなく、逢う以外の時間でもいろいろこの関係に抑圧されて行動が制限されていたっぽい。「今日、逢えるかな?」「ライン来てるかな?」とかそういう甘い思索のための時間だけのことを言っているんじゃない。「これはあの人に教えてもらおう」とか、「あの人にこう思われるためにこうしよう」とか、そういう空想、つまり、人間関係があるということに甘えて自分による自分のための自分の努力を怠っていた、という点で自分が自分に抑圧をかましていた、ということにはっきりと気づいたのだ。

悪縁たちの中には英語を話す人もいた。だからまあ、英会話教室は通わなくていっか。

悪縁たちの中には私のSNSを知っている人もいた。だから、その人にかわいく思われるような写真でも撮っておこうかな。

みたいなね。(アホか!)

 

こう書いていると本当に、ほんっっっっとうにくだらないけど、事実、本当にそういう思考に陥っていたのだ。恋愛的な意味でも人間の成長としての意味でも、ほんとうに私は泥沼のなかにいたなあというのがありありと思い起こされて私の目はようやく覚め、いままで怠ってきたことをいまばりばりと進めている。ありがちで本当に恥ずかしいんだけど、大切なもの、大切にしたいものがはっきりと目でわかるようになって、要するに…断捨離はじめちゃった///。 

 

でもきっと、ある人間関係があるから私は何もしなくてダイジョーブイ/これをしないとチョーヤバイ、って思ってる人、人間関係によって自分の選択、生活、人生が抑圧されている人、けっこういっぱいいるんだろうな、とも思う。その人間関係が良性であれ悪性であれ、自分の人生は自分の人生だもの。そういう無意識な抑圧、コントロールに意識的でありたいしそれらに対して中指を突き立てていきたいよね。

 

私がかかわってきた男性みんなについていろいろぐちりたいことはある。確実にあと三か月は私のことは恋人にしてくれなかった男性についてうじうじ悩んだり泣いたりもするわ。絶対する。するだろうけど、でも、大丈夫な部分もある。大丈夫な部分を大事にしていきたい気持ちもある。その大丈夫な部分が、きれいな砂浜にきれいな波がかかるように、さあっと広がっていけばいい。押しては戻り、引いては満ちる。そんなことを思った、二〇一七年もはじまったばかりの二月。バレンタイン二日前。

 

 

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

(笹井宏之『笹井宏之作品集 えーえんとくちから』)