プラネタリウムとカカオマーケットbyマリベルのチョコレートスコーン、フルーツディップ

CACAO MARKET by MarieBelle

東急プラザに入っているマリベルのお店 チョコレートのお店でボンボンショコラ、カフェ併設。持ち帰り用の焼き菓子やらドライフルーツにチョコレートをかけたものやら、その他もろもろのチョコレート製品。有楽町ヒューマントラストシネマで「プラネタリウム」を観るつもりで、マネケンのワッフルでもいいかなと思ってたけど四丁目交差点付近までいくのが億劫で、そういや東急プラザにマリベルが入っていて行ったことなかったなと思い出してそちらに。ナッツのチョコレートコーティングとかもあったけどボリボリするのもアレだし先述の通り焼き菓子(小麦粉)の気分だったのでチョコレートスコーンとフルーツディップを買う。コーヒーはスタバであらかじめラテを買って、水筒に入れてもらっておいた。

オープニングで食べたのがチョコレートスコーン、舌に触れる塩味がここちいいけど何より甘すぎ!これがアメリカ様の本気やで。これは食べきれんぞ。うーむ。と思いながら、探究心で買っておいたフルーツディップ、本日はオランジェットとフィグとダークチョコレート・ピスタチオ。フィグが大ぶりなのでとりあえずオランジェット。これがうまくて、オランジェットといえばレオニダスとかまあいろいろあるんだけど、マリベルのはまずオレンジの味がしっかりしていて、そこに邪魔にならない程度にチョコレートがかかっておりちょうどいい塩梅。ダークチョコレート・ピスタチオもこっそり割って食べる、ちょっとカカオの味が強く出すぎる。オランジェットをメインにつまみながら観たプラネタリウム、スピリチュアルと詐欺のぎりぎりの線上をキャッキャと駆け巡るナタリー・ポートマンとリリー=ローズ・デップが見られるのかと思いきや映画はもう少しシリアスで何も考えていないコピーに腹がたったり、へたに現代芸術的なカットを持ち込んで歴史も美もきめ細やかに描こうとしないディレクションに腹がたったり、まああんまりいい映画ではなかった(と思う)。

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パターソンとノワ・ドゥ・ブールの焼菓子

ちょっといい感じの焼き菓子とコーヒーを映画館に持ち込むのにはまっている。映画館への(フード販売で買ったもの以外の)食べ物の持ち込みってたぶんグレーゾーンなんだよなとは思うけど映画館に持ち込んで好きだった&好きじゃなかった焼き菓子について書く。

でも一応フード販売のジャンキーなチュロスとかポテトも好き

 

ノワ・ドゥ・ブールのパンプキンマドレーヌ(すごく好き)とフィナンシェ・カシスマロン(ふつう)

伊勢丹にあるノワ・ドゥ・ブール フィナンシェ等の焼き菓子やケーキ等の生菓子を売っている。

noix de beurre|ノワ・ドゥ・ブール

焼きたてのフィナンシェがとてもおいしく実家の帰省土産に買うと喜ばれる キャラメルパウンドケーキは洋酒が入っているので子育て授乳中の姉には怒られたが私の母はこの濃厚な味をとても気に入っている。一個から紙袋にざくんと入れてもらえるので(日持ちが違うものは別々の袋に入れられるっぽいので面倒)よく買う。

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(画像出典: noix de beurre|ノワ・ドゥ・ブール

で、たぶんそれぞれ十月限定だと思われるパンプキンマドレーヌとカシスマロン味の焼き菓子を買って新宿武蔵野館に「パターソン」を観に行った。コーヒー屋による時間がなかったので武蔵野館の自販機で水を購入。

パンプキンマドレーヌ、めっちゃうま。うま。かぼちゃとバター、糖質と脂質の組み合わせってこんなに人をめろめろにさせてくれるのねという感じ。ちょっと表面がべとべとしているので上映中うっちゃりシートなんかを汚したりしないか若干こころもとないが暗闇のなかでもはっきりとわかるかぼちゃの味、うま。

うまいなーと思ったついでに食べたフィナンシェ・カシスマロンは肝腎のカシスマロンの味がよくわからず普通。ふつうにフィナンシェで良かったかも。カシスマロンの味といえばジャンポールエヴァンでたまに売ってるテュランがめちゃくちゃうまいのでおすすめ しかも形状的に(舟形のアーモンドタルト)手でつかんで食べられる ただ箱に入れられちゃうから映画館じゃなくて家で食べるしかないんだけど。

パターソンはインテリアかわいいし日常も生活も味わい深かったけど日本人詩人の作為性がダサくて最後の最後に耐えられなかった。

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たかが世界の終わり

ある男が十二年も戻ってなかった実家に帰ってそこで過ごす話。なんで十二年も戻ってなかったかというのは冒頭に明かされるしトレーラーでも流されるからそこまで重要なネタバレでもないのかもしれないけど、もしかして全く前情報なしで観たほうがおもしろいのかもしれない。
とにかく、言葉、言葉の暴力よ言葉、字幕でも予告でも日本版ポスターでも「不器用」という語がつかわれるけれど不器用って日本語はなんとなしにださいよね、けれどもまあそうとしか言いようのない言葉の暴力にちょっと疲れる。なんどか目をつむってよーしらんフランス語の響きだけを聞いていた。けれども着実に緊迫していく雰囲気が張りつめて爆発し、収束し、映画は終わる。夕陽が収束を祝い、男は帽子を被る。言いたいことなんかどうせ一つも言えへんのや。たかが、世界の終わりに過ぎないのだし。

私はものすごくぐっときてしまったわけだが、でも感動を求めてみる感じでは全くないぞ、とにかく疲弊する映画だし、Varietyなんかは” a frequently excruciating dramatic experience”と言っていたくらいだし、演出も脚本も過剰だと思うことは多かったししかしその過剰さがリアリティなのであってすなわち根本的には苦しい映画だと思う。でもたぶん日常のなかに苦しさを見出したり取り入れたりすることは想像力のためにも必要なのであって。私は夕陽の中の男の帽子をずっとずっと思い出すだろう。どうでもいいけどギャスパーウリエルが昔に関係をこじらせた男に似すぎでつらかった!

下着の一生

二年間か三年間、使っていた下着がだめになってしまったので捨てた。鋏で切って(転用防止のためだ)、いつも使う香水をふりかけ、白い紙でつつみ、「いままでほんとうにありがとう いろいろあったな ほんまにありがとう」と言った。まじで口に出して言った。宗教かい。それから不透明のビニル袋に入れて、いまから捨てる。

 

そういえばこの下着ははじめてのバイトのお給料で買った下着。この下着を買ってから一年くらいはまじでなんもなかったんだけど、逆に言えば二年目以降はいろいろあった。男に会って、大事だと思って、けど事情により別れて、ほんでそれからこの下着もしらんくらいたくさんの男と寝た。きょう捨てる下着はその大事だと思った男との数少ない逢瀬のなか、二回も見せた下着なんだった。かといって別に格別のお気に入りというわけではなく、ベーシックやし二度見せるならこれかなあくらいで二回目を迎えただけやったんやけど(そのときには、もうほかの下着が二回以上その男に見られることはないだろうことはわかっていたのだ)。

そういうわけで一応は思い出深い下着だったから、捨てるかどうかはなんとなくだいぶ迷ったけど長いこと使っていたこともあって毛玉が目立ちはじめていて、なんとなくのよれもできていたし、その男とのはじめての逢瀬で使った下着はまた別のやつやったから、ええか、となった。下着一着捨てるのに昔の男の思い出にめためたにされる、わたしの精神の弱さよ。

 

男の逢瀬への準備はいつもやることてんこもりなのであって。化粧を落として、シャワーを浴びて、サボンのスクラブで肌を磨き、男が舐めても死なぬ程度にボディークリームを塗り、下着を選び、化粧をし、香水をかけ。

 

下着、男の人のなかではよう見る人と見やん人に分かれる。見る人はじろじろ見るし感想も言ってくれるしつけたまますることもある。見やん人はぺろっと剝がされて終わりなんだけど。ああその男は前者やったのう。はじめて見せた下着に、「お花がいっぱい」とかアホみたいな感想言ってましたねえ。はじめて見せたTバック、つけたままして、コンドーム、やぶけましたねえ。などと思い出すことで重ねてセンチメンタル。見る男も見ない男もおるけれども、しかしわたしにとって下着は常に100パーセント、逢う男を想って、選んで、それが積もった灰のように薄暗いけれども確実な過去。

 

さよなら下着、おまえのしらん私の人生がはじまるし、おまえも男もいまは私にはおらんけど元気、奇遇にもきょうは海外から頼んだ新しい下着が届く日やし。この新しい下着を、私は誰を想ってどんな人生を願って、履くんやろねえ。

えーんえんとくちから

私は去年の今頃くらいから男関係が急にだらしなくなって、だらしなくなったがゆえにいろいろ苦しむことがあって(具体的には性的悪縁特有の、好きだの好かれてないだの、そういうこと)時間を浪費することもあったんだけど、最後の一人だった悪縁に恋人ができそうだということでその最後の一本もようやくぷっつり切れた。バレンタイン三日前の出来事。

私は二年前の今頃くらいからデパート催事場のバレンタインチョコレート売り場のアルバイトをしていたのだけれどそれも今年は従事しておらず、チョコレートを売ることも、愛を捧ぐことも、二月十四日に向かって真剣なまなざしが飛び交うことも、私には人間どもの素振りの集合体のように見えてくる。

言いたいことはいろいろある。やっぱり私のことはアレだったんだねソレだったんだね。いや、そうじゃないよ。いや、そんなことは言わなくていい。ありがとうって言えばいいごめんねって言えばいい? ごめんねのほうが多分いい。でも、勘違いしないでよ。私も多分、あなたの性行為が好きだったから、あなたのことが好きだった。あなたの想像するようなロマンスはこちら側にもなく、それってつまりシャドーボクシング、最後まで意思は不疎通。

しかし、気分も沈むばかりかと言えばそうでもなく、変な高揚感も確かに私を引っ張り上げている。いままで彼らに甘えて考えてこなかったこと、やってこなかったことをやりたい気持ちに満ちている。沼から上がって私はシャワーを浴びている。

 

このだらしない関係は二つの意味で私を沼に巻き込んだ。

一。肉体関係を持つことによる、どうしようもない、恋愛、恋慕、詩情の変化。

私は、だらしない男関係はすべて自分で選択したものだと思っていた。友人に「大切にされてない人間関係にどうしてすがるの」となんども怒られたが、「大切にされていない人間関係」を望んだのは私自身だからその批判は的外れだし、「すがる」のは目的じゃなくて手段のうちに発生したちょっとした事故だった。ヒューマンエラーってやつ。もちろん、毎度事故を起こしていたので要するにそういう関係は私には向いていないということがよくわかったんだけれどね。

二。人間関係を持つことによる、無意識的な甘え。怠惰。看過。

けれど、自分で選択した、ただそれだけで、その選択が、自分にとって良いことであるかどうかというのは定かなものではないらしい。身軽になったからだで次の予定のことを考えると、私は“男性諸君に逢う”という物理的時間の拘束だけでなく、逢う以外の時間でもいろいろこの関係に抑圧されて行動が制限されていたっぽい。「今日、逢えるかな?」「ライン来てるかな?」とかそういう甘い思索のための時間だけのことを言っているんじゃない。「これはあの人に教えてもらおう」とか、「あの人にこう思われるためにこうしよう」とか、そういう空想、つまり、人間関係があるということに甘えて自分による自分のための自分の努力を怠っていた、という点で自分が自分に抑圧をかましていた、ということにはっきりと気づいたのだ。

悪縁たちの中には英語を話す人もいた。だからまあ、英会話教室は通わなくていっか。

悪縁たちの中には私のSNSを知っている人もいた。だから、その人にかわいく思われるような写真でも撮っておこうかな。

みたいなね。(アホか!)

 

こう書いていると本当に、ほんっっっっとうにくだらないけど、事実、本当にそういう思考に陥っていたのだ。恋愛的な意味でも人間の成長としての意味でも、ほんとうに私は泥沼のなかにいたなあというのがありありと思い起こされて私の目はようやく覚め、いままで怠ってきたことをいまばりばりと進めている。ありがちで本当に恥ずかしいんだけど、大切なもの、大切にしたいものがはっきりと目でわかるようになって、要するに…断捨離はじめちゃった///。 

 

でもきっと、ある人間関係があるから私は何もしなくてダイジョーブイ/これをしないとチョーヤバイ、って思ってる人、人間関係によって自分の選択、生活、人生が抑圧されている人、けっこういっぱいいるんだろうな、とも思う。その人間関係が良性であれ悪性であれ、自分の人生は自分の人生だもの。そういう無意識な抑圧、コントロールに意識的でありたいしそれらに対して中指を突き立てていきたいよね。

 

私がかかわってきた男性みんなについていろいろぐちりたいことはある。確実にあと三か月は私のことは恋人にしてくれなかった男性についてうじうじ悩んだり泣いたりもするわ。絶対する。するだろうけど、でも、大丈夫な部分もある。大丈夫な部分を大事にしていきたい気持ちもある。その大丈夫な部分が、きれいな砂浜にきれいな波がかかるように、さあっと広がっていけばいい。押しては戻り、引いては満ちる。そんなことを思った、二〇一七年もはじまったばかりの二月。バレンタイン二日前。

 

 

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

(笹井宏之『笹井宏之作品集 えーえんとくちから』)

まだ期待してんでしょ!

「女にとって、二十四歳とは残酷な季節だ。」というフレーズからはじまる小説を書こうとしている。そういうのをブログで先に書いちゃうのってどうなのんとでも思わんでもないけれども、まあ川上未映子の前例もあることだし何より私は平成ちゃん、自由な発信自由な応答を餌に生きている。

女にとって、二十四歳とは残酷な季節だ、と思った理由はほかにもいろいろあるんだけれども、そのうちの一つが恋愛だ。最近折よく私のところにも色恋が沙汰って、一通りの沙汰を終えると二十四歳っていろいろ恋愛的にも過渡期なんだなあと思い始めた。それが「まだ期待してんでしょ」ということである。これ、みんな気付いてるんだか気付いてないんだかわかんないんだけど、意外とみんな、学生ちっくな恋愛をまだ期待してんだなあということだ。

学生ちっくな恋愛、というのは、こちらの何の努力もなく異性とマッチングされて、しかも他の比較対象の異性も多くいて、それが自然に行われるなかでなんとなく話が合い、話が進んでいくなかで「好き」という感情を覚え、告白して、交際関係に至る、という一連の流れを踏む恋愛だ。

この学生ちっくな恋愛は、故意というのが存在しない。もしくは発生させずに済む。言わずとも、異性が多くいる環境に放り込まれるのだし、宣言しなくても席替えはなされるし、努力せずとも彼らとなんらかのかたちで腰を据えて話すことができるのである。こういう、学生ちっくな恋愛に馴染んできた人にとって、二十四歳という学生から社会人への過渡期の恋愛は非常にめんどうなものになってくる。

つまり、学生という身分を離れ恋愛をする場合は、なんかしらこちらから能動的に動かなくてはならない。異性が多くいる環境にいかなきゃいけないし、比較するためには席替えしよう!と言わなきゃいけないし、真剣な話をするまでの間柄にはなりにくいし、そもそも共通の話題も無さそうだし、あったとしてもこんなに真剣に話しちゃって引かれないか?とか思っちゃうのも無邪気ではいられない二十四歳というか。つまりいままで自然が(というか学校と先生が)やってくれてきたことを、ぜーんぶ自力でやらなきゃいけなくなってくる。(学校というシステムが恋愛市場においてめちゃくちゃ重要なファクターとしてはたらくっていうの、おもしろくないっすか?)無論、会社という場所はそれに近い空間なのかもしれないけれど、一歩先に社会人になった友人の話を聞くとどうも同僚には恋愛感情が芽生えにくいとか、別れたあとのことを考えると仕事が滞るとか、そもそも同期がいないとかで、なかなかまるっきり同じシステムというわけにはいかないっぽい。

こういう恋愛をまだ期待している二十代前半の若者にとって、合コンというのはなんとなく作為のはたらく場所でなんとなく好ましくない。昨今流行っているけれどマッチングサイトなんてもってのほか。相席居酒屋とか哀惜居酒屋でしょとか普通に思う。そうして、自然のなりゆきによって与えられる(というかほとんど与えられない)「出会い」を目の前に、「出会いが少ない」と嘆いたりする。

否!違う!二十過ぎれば出会いなんてあると思わないほうがいいというのが結論なのである。自然にたくさん異性と「出会える」場を期待するのは、大学四年で終わりにしといたほうがいい。大学を卒業し、社会に出る頃には、もし恋愛したいのならば(もし、の話だが)、自分から動かなくてはならないんである。あくまでもし、の話ではある。けれどなんというか周りを見ていると、もう学生ちっくな恋愛なんてできないのにそれを期待しすぎるあまり恋愛したいのにこじらせてそれを愚痴って人から嫌われるという最悪のサイクルに突入している人間が多いような気がする。

もうね、ないない、すてきな出会いとかない、あるかもしれないけど、いま無くていま欲しいんだったら出会い系なり哀惜居酒屋なりFBでメッセするなりしなきゃ愚痴ったってしゃーない。まだ期待してんでしょ、しちゃだめだめ、たぶん、自分にだって他人にだって期待はあんまりしないほうが幸せ、期待しないということは自分でがんばって努力する、ということだしね。

 

というわけで(どういうわけで?)私も某マッチングサイトを使っていろいろな経験をさせてもらったのですけれど。(これは、本当に、いろいろ、経験、した。)

 

私はもともと恋愛へのポテンシャルが酷く低い女で、恋愛するなら勉強したほうがいいって本気で思っていた人間、というか、人間の本性である真善美を高められないような恋愛なら恋愛とは呼ばないと思っていた最悪の恋愛観こじらせ女だったんですけれど、振り返ってから言えば、一、恋愛というのはどんな形にも変化し得る。人間の本性である真善美を高めるとは言えないまでも、自分の知見を拡げる関係に発展することは(たぶん)多々ある。二、それでもやっぱり恋愛はしょーないから勉強したほうがいい。くらいの二点くらいを思った。あと男性の行動心理の不思議!私はいまだに、男性というのは性欲100%で動いていると思っているんだけど、そうでもないの?とか、そうでもないんだなあ、とか感じることも多々あった。

 

とかなんなり。

期待するのをやめて自分から恋愛的アクションを起こすようにはなっていろいろ知ることも多く、またこの年になってまともに異性と向き合うということをして面白かったりしんどかったりはする。それが正しいことなのか、はたまた人生なのかはよくわかんないけどね。

映画『キャロル』

“How many times have you been in love?”

いい加減、芸術作品に都合のいい自己投影をするのをやめたい。

愛とは何か?私は、というより誰でも、各個人の愛の理想というものを作り上げている。出会い方、恋し方、過程に何がなければいけないか、何を共有しなければならないか。そういった、愛の製造方法。そうして自分のなかで形成したその理想のステップを着実に踏んでいなければ愛ではないような気さえする。この二人にとって愛とは何か?交わされるのは言葉ではなく視線であり、あるのは理屈ではなく事実である。これは私にとって愛ではないし愛の説明になってくれない。それでも二人の間に確実に芽生えていくものに心の奥底で震えた。私もこれがいい。天から落ちてきたようなその人を捉え離さずにいたこと。肌を重ね合わせることの必然。混濁する嫉妬。愛は生き物。醜い生き物ではないはずの私たち。”I love you”の力強さ。刹那など意味をなさずそれは孤独を感じさせるものでしかないこと。キャロル。


私もこれがいい

来ない連絡にいつまで縛られているつもりだろう。なぜ来ないのだろうと悔しく、正直に言えば悲しく、思うことはあれど。感情は時間の中に生起する。時間を共有する相手を厳密に選択するのがよい。この映画のどの部分に自分が憧れたのかわからないが、それは愛自体というよりも気高く生き正しい道を選ぶことにであるように思う。広げた鎖骨の、堂々とした尊さ。それをしってから、肌にふれて。