まだ期待してんでしょ!

「女にとって、二十四歳とは残酷な季節だ。」というフレーズからはじまる小説を書こうとしている。そういうのをブログで先に書いちゃうのってどうなのんとでも思わんでもないけれども、まあ川上未映子の前例もあることだし何より私は平成ちゃん、自由な発信自由な応答を餌に生きている。

女にとって、二十四歳とは残酷な季節だ、と思った理由はほかにもいろいろあるんだけれども、そのうちの一つが恋愛だ。最近折よく私のところにも色恋が沙汰って、一通りの沙汰を終えると二十四歳っていろいろ恋愛的にも過渡期なんだなあと思い始めた。それが「まだ期待してんでしょ」ということである。これ、みんな気付いてるんだか気付いてないんだかわかんないんだけど、意外とみんな、学生ちっくな恋愛をまだ期待してんだなあということだ。

学生ちっくな恋愛、というのは、こちらの何の努力もなく異性とマッチングされて、しかも他の比較対象の異性も多くいて、それが自然に行われるなかでなんとなく話が合い、話が進んでいくなかで「好き」という感情を覚え、告白して、交際関係に至る、という一連の流れを踏む恋愛だ。

この学生ちっくな恋愛は、故意というのが存在しない。もしくは発生させずに済む。言わずとも、異性が多くいる環境に放り込まれるのだし、宣言しなくても席替えはなされるし、努力せずとも彼らとなんらかのかたちで腰を据えて話すことができるのである。こういう、学生ちっくな恋愛に馴染んできた人にとって、二十四歳という学生から社会人への過渡期の恋愛は非常にめんどうなものになってくる。

つまり、学生という身分を離れ恋愛をする場合は、なんかしらこちらから能動的に動かなくてはならない。異性が多くいる環境にいかなきゃいけないし、比較するためには席替えしよう!と言わなきゃいけないし、真剣な話をするまでの間柄にはなりにくいし、そもそも共通の話題も無さそうだし、あったとしてもこんなに真剣に話しちゃって引かれないか?とか思っちゃうのも無邪気ではいられない二十四歳というか。つまりいままで自然が(というか学校と先生が)やってくれてきたことを、ぜーんぶ自力でやらなきゃいけなくなってくる。(学校というシステムが恋愛市場においてめちゃくちゃ重要なファクターとしてはたらくっていうの、おもしろくないっすか?)無論、会社という場所はそれに近い空間なのかもしれないけれど、一歩先に社会人になった友人の話を聞くとどうも同僚には恋愛感情が芽生えにくいとか、別れたあとのことを考えると仕事が滞るとか、そもそも同期がいないとかで、なかなかまるっきり同じシステムというわけにはいかないっぽい。

こういう恋愛をまだ期待している二十代前半の若者にとって、合コンというのはなんとなく作為のはたらく場所でなんとなく好ましくない。昨今流行っているけれどマッチングサイトなんてもってのほか。相席居酒屋とか哀惜居酒屋でしょとか普通に思う。そうして、自然のなりゆきによって与えられる(というかほとんど与えられない)「出会い」を目の前に、「出会いが少ない」と嘆いたりする。

否!違う!二十過ぎれば出会いなんてあると思わないほうがいいというのが結論なのである。自然にたくさん異性と「出会える」場を期待するのは、大学四年で終わりにしといたほうがいい。大学を卒業し、社会に出る頃には、もし恋愛したいのならば(もし、の話だが)、自分から動かなくてはならないんである。あくまでもし、の話ではある。けれどなんというか周りを見ていると、もう学生ちっくな恋愛なんてできないのにそれを期待しすぎるあまり恋愛したいのにこじらせてそれを愚痴って人から嫌われるという最悪のサイクルに突入している人間が多いような気がする。

もうね、ないない、すてきな出会いとかない、あるかもしれないけど、いま無くていま欲しいんだったら出会い系なり哀惜居酒屋なりFBでメッセするなりしなきゃ愚痴ったってしゃーない。まだ期待してんでしょ、しちゃだめだめ、たぶん、自分にだって他人にだって期待はあんまりしないほうが幸せ、期待しないということは自分でがんばって努力する、ということだしね。

 

というわけで(どういうわけで?)私も某マッチングサイトを使っていろいろな経験をさせてもらったのですけれど。(これは、本当に、いろいろ、経験、した。)

 

私はもともと恋愛へのポテンシャルが酷く低い女で、恋愛するなら勉強したほうがいいって本気で思っていた人間、というか、人間の本性である真善美を高められないような恋愛なら恋愛とは呼ばないと思っていた最悪の恋愛観こじらせ女だったんですけれど、振り返ってから言えば、一、恋愛というのはどんな形にも変化し得る。人間の本性である真善美を高めるとは言えないまでも、自分の知見を拡げる関係に発展することは(たぶん)多々ある。二、それでもやっぱり恋愛はしょーないから勉強したほうがいい。くらいの二点くらいを思った。あと男性の行動心理の不思議!私はいまだに、男性というのは性欲100%で動いていると思っているんだけど、そうでもないの?とか、そうでもないんだなあ、とか感じることも多々あった。

 

とかなんなり。

期待するのをやめて自分から恋愛的アクションを起こすようにはなっていろいろ知ることも多く、またこの年になってまともに異性と向き合うということをして面白かったりしんどかったりはする。それが正しいことなのか、はたまた人生なのかはよくわかんないけどね。

映画『キャロル』

“How many times have you been in love?”

いい加減、芸術作品に都合のいい自己投影をするのをやめたい。

愛とは何か?私は、というより誰でも、各個人の愛の理想というものを作り上げている。出会い方、恋し方、過程に何がなければいけないか、何を共有しなければならないか。そういった、愛の製造方法。そうして自分のなかで形成したその理想のステップを着実に踏んでいなければ愛ではないような気さえする。この二人にとって愛とは何か?交わされるのは言葉ではなく視線であり、あるのは理屈ではなく事実である。これは私にとって愛ではないし愛の説明になってくれない。それでも二人の間に確実に芽生えていくものに心の奥底で震えた。私もこれがいい。天から落ちてきたようなその人を捉え離さずにいたこと。肌を重ね合わせることの必然。混濁する嫉妬。愛は生き物。醜い生き物ではないはずの私たち。”I love you”の力強さ。刹那など意味をなさずそれは孤独を感じさせるものでしかないこと。キャロル。


私もこれがいい

来ない連絡にいつまで縛られているつもりだろう。なぜ来ないのだろうと悔しく、正直に言えば悲しく、思うことはあれど。感情は時間の中に生起する。時間を共有する相手を厳密に選択するのがよい。この映画のどの部分に自分が憧れたのかわからないが、それは愛自体というよりも気高く生き正しい道を選ぶことにであるように思う。広げた鎖骨の、堂々とした尊さ。それをしってから、肌にふれて。

映画『怒り』と小説『怒り』

 映画『怒り』が第四十回(2017年)日本アカデミー賞優秀賞の作品のうちの一つに選ばれたとのこと。あまり映画を見ない私だったけれどこの作品は吉田修一原作ということで、小説を読んだ上で映画を見に行っていた。感想も記していたので記録ついでに残す。映画の感想としては、ドラマチックに彩りすぎていた、というのが第一印象であった。

 

 舞台の幅広さ、一級の役者たち(特に中年男性の情けない腹を惜しげもなく見せる渡辺謙、ゲイだけではなく広告代理店勤めの独身男性というキャラクターもさりげなく演じられる妻夫木聡、横顔のきれいな松山ケンイチ(?)あたりは強く印象に残る)、坂本龍一の音楽、とも揃えばドラマチックにならないわけがない。ただ、本作においてはそのドラマチックを差し込む演出が過剰であるように感じた。とりわけ音楽の用い方には鑑賞者を非常に疲れさせるところがある。最初から最後まで切れ目なく流れ、クライマックスのシーンでは台詞の音声を消してまで大音量で鳴り響く。重いテーマであることとは別に、劇場を満たす音楽が頭まで窒息させようとする。

 私は映画に明るくないから、どこまで音楽を使うべきか、果ては、どこまでドラマチックにしていいか、という作法をよく知らない。ややもすると適切であったのかもしれないが、それでもわたしが本作の過剰なドラマチック性に違和感を覚えるのはやはり原作を先に読んでしまったからであろう。

 映画のコピーライトは、「愛した人は、殺人犯なのか?それでも、あなたを信じたい。」とある。ここらへんから、小説と代理店節が炸裂した映画がすこしずつ食い違っていて(まあもちろん小説と映画とプロモーションは別の話なんだけど。ともかく)、すくなくとも小説はこのコピーライトにあるような、愛と信じること、というわかりやすい劇的な話というよりも、もう少し人間の弱さについて書かれた滑稽な話であると評価したほうがいいと私としては考えるからだ。

 

『怒り』における「愛」

 小説の登場人物は、三人の容疑者に合わせて三グループ作られる。千葉の愛子と田代(と愛子の父)、東京の優馬と直人(と優馬の母)、沖縄の泉と田中(と泉の母)。それぞれのグループの二者の関係が進んでいくにつれて、愛することだとか信じることだとかといった話に絡んでいくと受け取られているようだが、それは誤解である。むしろ、この物語において愛することというのは、これらグループ内の主人公(愛子、優馬、泉)と上記カッコでくくった人びと(愛子の父、優馬の母、泉の母)の間に発生していたものである。歌舞伎町で働かせる愛子を迎えに行きながらも、何もしない父として自分を責める愛子の父、ホスピスにいる母にいやいやながらも看病に通う優馬。男にだらしがない母にそれでもついていく泉。親子関係というわかりやすい補助線によって、この愛は存在している。『怒り』という物語において「愛」を語るならば、それは家族愛において顕著に表現されているものである。

 

幻想としての「愛」

 では肝心の田代、直人、田中とそれぞれの主人公との関係はなんなのか?それは信と不信の往来関係である。偽名、空き巣事件、勤務態度という要素は、容疑者たちに疑いの目を向けさせる。しかし、偶発的ではあれ築いてしまった関係に人はすがりたがる。一方で、殺人事件という着火剤が、さらにその葛藤を激しいものにしていく。結果的に葛藤は一つ(真犯人)を除き、愛なるものに向かって着地するわけであるが、はじまったばかりのこのささやかな感情を愛と名付けるのは気が早い。けっきょく、この映画のメインとなるのは、信と不信を行き来することにより、そこに愛という幻想を見出していく過程なのである。

 

ショートコント・「愛」

 つまり、ぽっと出会った人たちのことを勝手に信じようとして、勝手に裏切られた気になって、それでも信じようとする主人公(とその周りの人間たち)のことを、読者はげらげらと笑うべきなのである。この作品のテーマは「愛」なのではなく、「ショートコント・「愛」」とも言うべきものである。もしくは、そうした人間感情の独りよがりの真実さを嗤うべきなのかもしれない。

 小説はこの感情の揺れ動きの滑稽さを、淡々と描く。激しい感情は似つかわしくない。その激しい感情を説明しようとすること、それに没頭しようとすることはなおさらだ。山神の「怒」がけっきょく説明されないところにも、この物語がいかに説明不能な感情に対して寛容であるかを示す。読者は淡々とした描写を外から冷徹に見、そして愛というものがいかに嘘っぱちであり、そして嘘っぱちであるからこそ、人をそれにすがりたくさせる力を持ち得ることを認識するのである。

 映画は、映画として華やかに見せられるところ(たとえばゲイの描写もそうだ。性描写がやたらと生々しいのは構わないが、小説の雰囲気とはまた違ったものを作り出してしまったように思う)を拡大しつくした結果、この小説が本来もっていた淡々としたやるせない感情を奪い取り、観る者を本当に「ショートコント・「愛」」の激しい幻想の中に閉じ込めてしまっただけだった。

A子さんの恋人

先日、『A子さんの恋人』という漫画を友人に借りた。

A子さんの恋人 1巻 (ビームコミックス)

A子さんの恋人 1巻 (ビームコミックス)

 

 漫画通のその人に、おすすめの漫画ある?と聞いたら返ってきた答えだった。読んだ。

 

A子さん、という女性が、三年間のアメリカ滞在から帰国する。どうやらA子さんはアメリカ滞在中に恋人を作っていたらしい。別れるつもりだったが、その恋人A君に流されて、「1年くらいでアメリカに戻ってくる」と言っちゃったらしい。しかしさらに、A子さんはアメリカ滞在前にも恋人がいたらしい。別れるつもりだったが、その恋人A太郎君に流されて、なかなか決定的な一言が言えぬままアメリカに行き、暮し、そしてのうのうと日本に帰ってきちゃったらしい。

という、三本の人間のか細い線がよろよろと、ついたり離れたりする話。2016年11月現在、三巻まで刊行。

これ、東京で、恋愛で、30代に入るか入らないかっていう女性はどう読むのかなあ。

 

私はA君に愛されるA子が、うらやましい。

私はめちゃくちゃえぐられた。なんかこういう漫画で「えぐられた~」っていうの、なんかアピールじみててあんまり好きじゃないんだけど(だいたい、現実というのは、フィクションによってえぐられるほど、奇にあらず)、私がえぐられたのには理由があった。まあ私もA子さんと似たような状況にあったのだ。

ある期間、海外にいて、恋人を作って、置いて帰ってきた。

まんまA子さんとA君である。A君のスキンシップを見るたびに、そやつのことが思い出された。まあそれは都合のよいオーバーラップで、私がえぐられたのには別の理由があった。私の場合、私が捨てられたのだ。「A君」にだ。

私はある期間、海外にいたことがあって、そこで恋人を作った。お互い学生で、私は交換留学という決められた身分だったので帰国しなければならなかった。ので帰国した。ある期間、連絡を取り合っていたが、なんとなく返信のタイミングが遅くなり、一日空き、一週間空き、空き空き空き、ついには「もうこういうのできない」と連絡がきた。

まあ、それはよくあることで、つうか第一私が彼のためにその国に戻る予定など微塵もなかったのだし、彼にとっては(そして私にとっても)当然の選択だった。私が傷付いたのは別れ自体にではなかった。私が本当にそやつにえぐられたのには別の話がある。その後、なんとなくつながったままのフェイスブックを見てみたらそやつの写真、しかも、そやつと、日本人の女の子とやたらと距離感近めな写真がばさばさ上がってくるのだ。そやつが直接写真をあげていたのではなく、女の子が、そやつをタグ付けするので、こちらのフィードに流れてきてしまう。二人の距離はだんだん(物理的に)縮まっていき、いきいき、まあ、要するに、付き合っていたのだ。私と「別れて」からそう長くもないときに。

私はこの作品を読みながら、そやつのことを思い出した。A子さんはA君にいう。「1年くらい(で帰る?)かな?」。私はそやつと、そんなに長いこと持てなかったのだ。しょうじき、ひと月も持たなかったのだ。

私はA子さんがうらやましいと思った。三巻まで読んだけど、半年も一応待っている(待ってくれてる!)A君。三巻の展開にはそわそわしたけど。

いいなあ、こんなん、なかったなあ。

 

いや、ゆうてフィクションですし。

…と思ったところではっとする。いや、これフィクションやん。フィクションフィクション。どぎついフィクション。

こんなんね、無理よ、むりむり。そのうち適当な女とヤるわ、A君。男はね、遠くの女より近くのまんこだよ。本当。A太郎もな、いまはA子にふらふらしとるけど、そのうちまた浮気するて。男はね、不幸な女性より幸福な女性器だよ。そんなもんよ。私の限られた経験のなかで男性全体を一般化するのは大変よろしくないけど、まあ、私の乏しく悲しく切ない経験からでいえば、そんなもんだった。

 

人間の関係性。

思うに、すご~~く少女漫画ちっくなことを言うけど、人間の関係というのは、それを保持するのに多大な努力を要するんだよね。定期的に会って、好きといい、好きを態度で示さないと、人間ってのはすぐにダメになっちゃうんだぜ。…って、いつだかの芥川賞、羽田圭介『スクラップアンドビルド』でもそんなことがちらりとささやかれておりました。フロムも『愛するということ』で「愛することは技術である」って言ってたのだ。愛、ひいては、人間の関係は、なんども試み、試みようとしなければ持続しないのである。そういう努力なしに成立する人間関係というのはまれで、ぼーーーーーーーーーーーーーーーっとしているだけで、A君からの、時間的にとどまることのしらない、彼の愛の表現を享受できるA子さんなんてものは、人間界に、存在しない。

 

A子さんは存在しない。そういうところで我々は夢みて、過去の恋愛を思い返し、すり減っていってはいけない。人間関係がほしいのなら、それを持続するための努力を怠ってはいけない。ぼーっとせず、夢みず、技術を磨かなくてはならない。

 

まあ、べき論で最後語りましたけど、そもそもそんな人間関係なんて必要?ていうラディカルな問いはここでは語らない。必要と思うのなら、という話であって。

 

そもそもついでにさらにそもそもいえば、A子さんはどちらかというと女性というより男性っぽい。ポリコレ時代もしくはポリコレ先鋭化時代のいま、ジェンダーで区分分けすることはいらんことに火をつけるかもしれないけど。まあそれはさておいてほしい。A子さんはまじでなんも考えていない。A君のことも、A太郎のことも。いわゆる乙女っぽい悩みに苦しんでるわけでもない。恋愛とか結婚、というものより、自分の人生や決断の威力について考えをめぐらせているから、A君もA太郎もほっとかれているのである。

(A子、いいなあ。)と思いながらも、A子は”私(女)がうらやむべき女”ではないのである。どっちかっていうと、私のことをこれまで捨ててきた、男たちのほうの感性に近いものを、持っている。

 

というのが、自分の経験から透かしてみたこの漫画の感想だった。実はこの私の失恋話は一年間に亘って私の頭を悩ますほどの重い問題だったので、自分の経験と重ね合わせるという行為が強烈に全面に出てしまった読書行為だった。漫画としての評価はよくわからない。こういう恋愛にあこがれたりするんだろうか?女性。ちなみに漫画として思ったのは、二巻くらいからちょっと“東京”物語っぽくなって「イナムラショウゾウのケーキが…」とか「カヤバ珈琲で…」とか出てくるのはちょっとだせえな!と思った。なんつうか日常系アルファツイッタラーって感じしますよね。同意するときに「それは本当にそう」って言うタイプのツイッタラーです。もしくはていねいな暮らしインスタグラマー。もしくはことりっぷ。独特のコマ割り、テンポ、線、ほかにないものが詰まった漫画なのだからそんなところでアッピルしなくたっていいのにね。ま、カヤバ珈琲はほんとにいい店だと思いますけど…。

 

スクラップ・アンド・ビルド

スクラップ・アンド・ビルド

 

 

愛するということ

愛するということ

 

 

3P、したことありますか

なんつうか、セックスって、全部終わりがすべてなんだよね、終わりをどこかにするかが問題なんだけど、まあ、男性が明確に射精したときと及び二人がわかれるとき(別離ではなく、普通に、家に帰るさよならのとき)。男性がいかに女子をていねいに取り扱うかで女子の満足度が変わるのだ

 

と、書き始めて思ったけれど、なんでこう女子目線なのだろうな。やってください主義なのか。まあもちろんそれは私が女子だからそうとしか語りえないところはあるんですけど。なので、この記事は完全に女子目線、いい年こいて「女子」と表現することに違和感もつかもしれないんですけど、なんつうか私はやっぱりまだ女性でも女でもないんだな。

 

ともかく。

ま、終わりよければすべてよし、たとえば男が私の顔を見てイってくれたとか、キスしながら終わったとか、そういうのよ、そういうのでセックス中の女の不満はすべて解消できるような気がする。ほんでうまい具合にピロートークでつないで帰り際に「今日はありがとう」とキスとハグをすれば女子ってのはホントーに「今日の男はサイコーだった!」と思うからね、たとえ手マンがへたであっても、演技の時間のが長かったとしても。

わかんない、私だけかな?統計とったわけじゃないし聞いたわけでもないから少数派だったらごめん、でもとりあえず私はそう思うんですけれどって話で、逆にいえば終わりが最悪なセックスはすべて最悪、男が私の中でイカなかったとかイったふりをしただとか(けっこう使用後のコンドームとかチェックされてるので、イけないときは素直に言って手コキとかに変えてもらったほうがいいと思う、諸君)、あとは帰り際にもう私の目も見ねえでとっとと去るもしくは私が向こうの家から帰るパターンだとするとドアをぴしゃんと閉めるだとか。とかいって、別にこれをいちいち伝えるわけじゃなく、一人でふつふつと悲しみと怒りと悲しみを沸きあがらせている。女ってほんとうにめんどうな生き物だ。

 

という、ありきたりな話をしてもつまんないので、今日は私が人生ではじめての3Pをした話を続きに記す。今回したのはFFM、いわゆる女と女と男というやつで、まあ男性にいうとめちゃくちゃうらやましがられるやつなんですけど、けれども、FFMの場合って男性の役割がめちゃくちゃ大事でそれができない男は死あるのみっつうか、まあ、私はそれが最悪だったんだよね。で、その男性の役割はやっぱり「終わり」で一番大事になってくる。

 

つっても、こんな3Pの話して読み手と感情を共有できるかって聞かれたらたぶんできないよねえ、3Pなかなかしないししたって人それぞれだし、まあ、セックスにおいて男性のケアがいかに大事かって文脈で私の3P話も聞いてほしい。

 

私の3Pは、私と男性に関係あり、男性と女性に関係ありで、私は3P初、男性と女性は二人を含んだかたちでの3Pが経験あるかたちで、まあはじめてで興味のあるだろう些末ちゃんに3Pを教えてあげようってことからはじまった。最初はよかった。女の子もキスうまいし、かわいいし、男はあきらか興奮しはじめるし、うわー、このAV感!と思って興奮し、挿入の順番もしいて気にせず、まあしいて言えば私の狭い部屋で、三人でセックスすることのこの濃度。生命力。にじゃっかん気持ち悪くなったくらいだった。まあこの気持ち悪さが、けっこう大きい問題だったかもしれないが。

で、まあまあ盛り上がってきて、まあそろそろ射精ですか、っつうところで、私がおもくそ出血したのだった。そういうこともある。なんか子宮が痛いなと思っていたし気持ち悪くもあるのでお風呂に逃げた。

水の勢いを体にばしばし感じてると、言うまでもなく賢者タイムが襲ってくる。3Pは、確かに楽しい。いんだけど、やはり自分に与えられる男性の労力は1/2にならざるを得ない。いや、これは正解なのだ。私が1いただいて彼女が0なのだとしたらそれこそ3Pの意味なし。そもそも私が1/2とか感じてる時点で間違い。男性の労力は1/2かもしれないが、そのぶん私は彼女から1/2もらってそれで1。これがFFMの3Pの基本的な仕組みだ。

まあでも圧倒的にストレートのわたくし、女の子の攻め方も攻められ方もわからず、1/2が1/2として感じきれず、男性からもらえてないほうばかりに着目してしまった。みたいなことを分析しているとシャワールームの向こうからあんあん聞こえてくる。

まあそれは私がいなくたって続けるだろうな。裸の女と男だもの。努めて平気なふりで体を拭いていた。なんというかよくわからんなあ、そしてもやもやするなあ。

 

と思っていたらどうやら二人とも達したみたいだった。

 

アハーーーーんこれめちゃくちゃさみしくないですか?完全に蚊帳の外。むしろシャワールームの内。書いてるだけでむなしさこみあげてくるのだけれど伝わるだろうか?私が、セックスで好きなのはもちろんオーガスムに達したときなんだど、オーガスムに達したあとの二人の距離感というのもけっこう好き、わかると思うんですけど、なんかちょっとこう、情けなさみたいなものでお互いに笑うんですよね、はは、って。そのキュートさがオーガスムおよびセックスのなかの一つの精神的な安堵なんだけれど。

 

そのやさしい、まろい声をシャワールームの内で聞く女の悲哀想像したことあるかっつう話よ。

 

私はまあとりあえずリビングルームにいって、「イった?」と聞いた。「たぶん」とかと返ってくる。たぶんじゃないよなあ、と思いつつ、そして彼女はシャワールームへ。

つうかここ、私の部屋じゃんよ?なんで私以外のだれかとだれかがセックスしてる?とか思いだした時点で自分が不満たらったらなことに気付く。わたくしは感情の隠し方のうまさが平均以下、私の不穏は残った男のほうにもびしりばしりと伝わったみたいで、やたらと気を遣われた。そういうのはうまいなあと思う、「今度ちゃんとしようね」と言われてうんと笑顔で返したが私は内心へこみまくりよ。帰り際にもきちんとキスおよびハグはあったが私はもはや心が重すぎるのであって。

そういうわけで私の3P処女は喪失したのであった。

 

いきおいで書いてしまったけれど、ようするに、私がシャワーを浴びてる間に男が女と二人で楽しんで勝手にイっちゃってた、ってのが私の心のなかにずっと引っかかっているということ。これが3Pなのだとしたら私はもう絶対したくない。

 

とはいえ、ここには問題が二つある。

一つは3Pという性行為でどこまで許容するかだ。

3Pは、みんなで仲良くいかなきゃだめだろうか?それとも二人になったら二人で勝手に楽しんでいいだろうか?もしかしたら今回男(そして女)がやってしまったことは一般的な3Pとしてはご法度なのかもしれない。でも、もしかしたらそういうのも許容した上で3Pというのは成り立っているのかもしれない。どちらが正しいかはわからない。(だって一応は、男性は一回しか「終わり」がないわけだから、しかもその「終わり」は明確なのだからそれを女子二人でわけっこするのは難しい。)(ちなみにやっぱり「終わり」が大事なので、最初の一回はこの子、次の一回は別の子、というのもなんか違うんだと思う。もちろん今回わたしが感じたようなアンフェアさはないのかもしれないけど。)つまり、「性行にまつわるすべての行為を結果的に平等にしましょう」とするのか、それとも、「結果としては不平等になりましょうがそれは致し方ないことを同意してから臨みましょう」という了解を均しく持つことで3Pを成り立たせるのか。ま、わかんないね。私はどっちにしろ前者がいいと思うよ。

二つ目の問題は私のいまのつぶやきにも出ている。けっきょく私はセックスで献身を求めてる節が大いにある。ここらへんの話はまた別の機会にしたいけど、一対一で、「わたしはこれだけのことをおまえにしてやれますよ」というのを見せてやるのが好きなのだ。攻めであれ受けであれ。そういうのが分散させられるのがほんとうにいやなんだよね。セックスじたいを楽しむ身体にわたしはできていない。わたしはセックスで、男の献身と、そしてわたしの献身を楽しんでいるのだ。3Pでより浮彫になった、セックスに献身を求める主義、というのは、セックス愛好家としてどうなんだろうかねえ。まあでも、セックス愛好家にだっていろいろあっていい。はず。

まあ、問題二つとか言ったけどもっとあると思うよ。そもそも女って身体的にはレズりやすいけど心のなかでどうにかやっぱ対抗心うまれるもんね。いやでもこれはMMF経験者の男性も言ってたからそうなんだろう。難しいね、同性。あとねえ問題がこれだけあるからといって、その問題の客観的是非を問うたって意味はないんだよね、自身の感情の問題なのだし。

 

でもね、難しいよね、3Pなのか女なのか、私が難しいのかは明瞭な輪郭がないけれど、私の今回の経験を振り返ってみれば、女性めっちゃ頑張ってくれたし、男性も頑張ってくれたし、挿入にかんしては私のほうが先だし(まあ正直、先とかはじめとかはそんな関係ないんだけど)、いいところはいくつかあったと思う。でも私は最後のただ一点、私の知らないところで二人が楽しんでて、イっちゃってたっていうのが本当に心に靄をかけたんだよね。(こんなこと言ってる女は3Pをする資格があるのかないのか?まあこれは上述の二つの問題の話に立ち返るだけだからもう自己批判をした扱いにする。)

 

人が増えれば増えるほど要求というのはぶつかりあうものだ。セックスという、服を脱いで行うことは二人の間でさえも要求はぶつかりあって、そのくせ口は重いからぶつかったときの衝撃は大きい。二人でも大変なのに三人って。(四人以上になるともうそれはお祭りだから大丈夫そうだけど。)そういう重たい、でも必死の要求というものをうまく察知してコントロールして適切なところに適切なパワーと精液を与える、そういうのがコンダクター、FFMの場合には男性、に一番必要なのだと思う。これって完璧に学級委員長だよね。クラスには、黙り通しているやつもいればすげえ要求通してくるやつもいる。そいつらをくだらねえとかこいつは友達だから/じゃないからと一蹴しちゃうんじゃなくて、それでもクラスだからという謎の使命感でうまく調停をはかってやること。それが3Pをする男性にとって必要なのだ。そういうケアが女のハートにとっては一番大事、そうじゃなきゃ感情を傷つけるからやっちゃだめなのだ。

感情を傷つけたい人間なんかいないからね。

 

と書いているとやはり、女性の感情の問題を男性の責任問題になすりつけてしまってる感じがして申し訳ない。でもFFMっておそらく男の夢、逆にいえば今回わたしが書いた点にさえ気を付ければたぶんきみのもとには優秀な学級委員のごとく人望、および女たちが集まってくるかもしれないし。

 

そういえば昔に読んだ小説で、三人での恋愛が当たり前の世界が描かれていたなあと思い出す。 

殺人出産 (講談社文庫)

殺人出産 (講談社文庫)

 

 もちろん、小説に出てくる三人の「変愛」は(新潮の変愛特集という号で掲載された短編小説だったのだ)三人でセックスすることとも、三人のポリアモラスの人間の集まりとも違うんだけど。それにしたって三人によるキスシーンはけっこう衝撃的だった。な。