わたくしたち女はいつまで経っても選ばれる側の人間なのだ

渋谷なんて物騒な街を歩いていた時のことなんだけど、友人とのディナーに遅れ気味でやや小走りで人混みをかきわけかきわけていたら明確に私のところに一人の男性がやってきて明確に私の顔というか目というかを見ながら「脚が太いね」と言って立ち去っていった。
いまなんつった?と思うためにはそれなりの脳味噌内での処理がいるってなもんで、そのときは「はあ」とか「まあ」みたいな感じでさっと流したんだけど次の信号待ちで明快に男性の言ったことを構成しているとやっぱりそれは「脚が太いね」なのであった。

そんなこともあるもんですねえ生きていると。と思ったら翌日友人と遊んでいたら友人が突然前日のデート相手の話をしだしてなんじゃらほいと聞いていたら「そいつに好きなタイプは?って聞かれてさ、マルマルさんはどうなんですかって先に言わせてみたら『脚が太い女の子』って言うんだよね、で、もうなんかいやになって帰っちゃった。」

その友人は働き始めてから知り合った人で、働き始めてからと言えば会社にもこういう人間が多くいる。「あの子がかわいい」だの「あいつはブス」だの。

私がこういう、あらゆる、外見に関する様々な批評を聞くたびに思うのはこういうタイプのことを言う人って「自分が選ぶ立場にいる」と信じてやまないのだよね。自分が選ぶ立場にいる。自分は批評できる立場にいる。しかもたいてい、その選好や批評基準というのがどーーーしようもない性的な事象をはじめとする外見の話であったりする。

こういう話、必ずしも男性とか女性の話ではない。ただ、会社で男性から女性の批評(「あの子はかわいい」「あいつはブス」)を聞くよりも女性から男性の批評(「あの人かっこいい」)を聞くほうが心がおだやかなのは、やっぱり女性みたいな存在が置かれてきた場所の歴史的地層が分厚すぎるからで。

だから必ずしも男性と女性の分断の話ではないんだろうけど、私はやっぱりこういう批評にかちあってしまうたびに、私はうるせえっおまえのちんぽも見せてみろやい!!!!!!!!と叫んでしまう。おまえのちんぽも見せてみろ!!!!!私がショートパンツから太い脚を晒すように、お前もそのジーパンの前チャックから細いちんぽを見せてみろ!!!!!と叫んでしまう、てか渋谷の野郎にも叫んでやればよかったんだけど。

女性のみなさん、よろしければ男性をおもっくそ選別してやりませんか?できれば、ちんぽの大きさで。私の場合はすでに男性はガンガンちんぽの大きさで選んでいる。なぜちんぽの大きさで男性を選ぶかといえば、ちんぽの大きさというのはまじで男性を傷つけることを知っているから。もう完全に死語だけれども男性の三高、高身長高収入高学歴をはじめとして、「高身長男性は巨乳の女性くらいめずらしい」言説も然り、男性が求められるあり方というのは、女が性的に(つまり純粋にまんことちんぽの関係において)欲情することを許しておらず(身長がどうセックスに影響するというの?)、同時に男性を性的に消費される対象になることから逃してやっている。誰が逃すかよ!私だって男性を選ぶ立場になりたいし、選ぶことで誰かを傷つけるその優位性を味わってみたい。まじで、私たちだって選ぶ立場でありたいよ、できれば選ぶ基準を、女にとってのおっぱいとか、スタイルとか、顔とか、それに準ずる、どうしようもないものでガンガン差別してやりてえ、背の高さなんてそんな甘っちょろいもんじゃなくてさ、「脚が太いね」と笑う人に対して「おまえのちんぽはほそっこいなあ」と言ってやる、そういう、人間の本質とは1mmも関係のないようなマジクソな基準を押し付ける、そういう立場になってみたい。男性の三高の一つの「高」は勃起した男性器の床からの高さを示すんです。で、あなたは高いんですか、どうなんですか。
というわけで、顔とかスタイルとかその前にどうぞ、男性器の大きさをどうぞ世の中にさらしてください。身長180センチoverの男性は女性で言えばFカップ!みたい甘っちょろいこと言う前にどうぞ、女性のFカップで言うところの男性器の大きさをぜひ教えてください。女性の脚も顔もおっぱいも厳密には「性器」でないのだから不平等だ、というのならわたしも自分のまんこのサイズを、この、親指と人差し指をくっつけるオッケーマークにて、指し示しますので!

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※このエントリはすべてジョークです

キレる世界とデコ武器

気づいたら4月も21日になっていて。まあいろいろあったけれども結果としてなんとか勤労がはじまり、なんとさっそく8時出社20時退勤の、働き方改革とやらに中指立てていく働き方で驚く&疲れるばかりよ。いや、わたくしまだ研修生なんですけれども。まあ、組織の思惑というのもありますけど。

「おまえは働くことに対して絶対向いていない、まあがんばれ、愚痴があったら聞いてやるからな」と優しいんだかけなしてるんだかわからないことを言われ続けていた私であるが、不思議と働くということに関して愚痴はない。その理由の一番シンプルなところにあるのは私はまだ研修生で言われたことをやってるだけで別に「働いてる」って感じは皆無だからなんだよな。研修はまじでだるいけれどもまあできるか&知ってるかと聞かれればやっぱりできない&知らないしそれがやんなきゃいけないことなんだと言われたらやるしかない。何より働くというのはお金をもらうということなんだしそれが滞りなくいただけるのならば捧げましょうこの時間。という気持ちになりますし。

でも働く、ということに関してではなくて人のあり方みたいなところに関しては激しい怒りを覚えることが多々ある。もちろん、朝6時半に職場行きの電車に乗るとまあまあ混んでることとか、みんなの顔が死んでいることとか、みんなまあまあストレスを抱えていることとか、人生とは?と思うことは多々あってそこらへんの話は今度書きたいと思うんだけど、私が怒りを通り超えて虚無ったのは会社による人の取扱い方についてだった。かんたんに言うと研修中に遅刻してきた人がいて、その日の退勤時刻を過ぎたあとに「緊急連絡」とやらがはじまり研修担当の人がその人を吊し上げ、名前をはっきりと声高らかに呼び、反省の言葉を述べさせたのであった。
なんというかさ、小学校かよ。と思うんだけど、それより先にこれが人を教えるあり方なんだろうか?とまじで気分が悪くなってしまったんだよね。確かに遅刻してくるほうが悪い。ヒャクパー悪い。だけどそれを見させられる私たちの気持ちは?遅刻した人の恥の気持ちは?人を吊し上げ、見る者を萎縮させ行動を抑制しようとする、その中世的やり方が、それなりに知性と愛を獲得してきた我々の、やっぱり詰まるところの合理的で最適な行動なんだろうか?

人間、どうせ人間同士で付き合っていかなければならないのなら、殺される人は少ないほうがいい。ラブがあったほうがいいしピースがあったほうがいい。気持ちよく生きていきたい。ラブアンドピースを達成するんだったら尊敬・リスペクトみたいなものが不可欠で、リスペクトを与えられ与えて生きていきたい。
でもこの、私がいま、退勤時刻を過ぎ、一日の疲労がドヴァっと全身を満たすなかで見させられるこの茶番は、果たしてリスペクトがある行為なんだろうか?

たぶんこれを読んでる人は、なんでこんなキレてんねんこいつと思っているんだろうけど自分でも不思議に思う。まあ私も私なりにストレス溜まってたんだろな。

 

唐突なんですけど、さいきんNetflixでDave ChappelleのStand-up comedyを見た。めっちゃおもしろいのでぜひ見てほしいんですけど…。
この回しか見ていないんですけどまあ見れば分かる通り、彼はBlackというやつで、この回についてはいまを生きる人々の「傷つきやすさ」であったり、それも含めた黒人の立場、ドナルド・トランプの政治のあり方について述べた回だった。彼はトランプ政権を嗤いながら、その政権の動力の本質が人種ではなく貧富にあることを見抜き、トランプを支援する「貧しい」「白人」の人々を紹介し「トランプは貧乏白人のためじゃなくて金持ちの俺(黒人)のために戦ってくれてるんだぜ」と叫ぶ(選挙期間中にこのネタをやったらトランプ支援者だと誤解されたらしいが)。ヒラリーはトランプの何百倍も良かったが、それが「ダース・ベイダーの”I have a dream”スピーチのようだった」と笑う。彼はLGBTの人たちに対してその傷つきやすさを指摘する。トランプの差別的発言に怒り心頭のアメリカ国民に対し、「いつからこの国はそんなメソメソする国になったのか?」と言う。Chappelleの世評はクリティカルなものでありながら同時に愛に溢れたものであり、そうして意見を世界に発信していく姿はなんというか、「おしゃれ」だと感じる。(一番笑ったのはアメリカと北朝鮮、というよりトランプと金正恩の関係について「北朝鮮をナメてるやつはコールオブデューティやったことないだろ!おれは昨日8歳の北朝鮮の子供に部隊全員殺されたんだ!」というところなんですけど まあともかく。)(ちなみに最後に出てくるEmmet Tillの話はとても衝撃的だったので日本人にもぜひ知ってほしい。)

上述の吊し上げ処刑が終わり、22時近くに家に着いて、ぼーっとNetflixでこの回を繰り返し見ていたら、まあなんつうか私も、傷つきすぎて、怒りすぎたかなと反省した。残念ながら、傷つくのは簡単なのだ。実は怒るのも簡単だ。だけどやっぱり、いちいち傷ついて、いちいちキレてるんじゃ感情がいくらあっても足りないのだ。傷つくこと、怒ることに対してなんとか知恵とユーモアとラブを持って対応し、表現し直し、仲間を集めていくのが、それこそ知性と愛を獲得してきた人間の一番オシャレな武器なのではないか?

あんまり、ニュースとか追えてないんですけど、世間では政治のあり方とか、とりわけ男性による女性の扱い方(セクハラとか相撲の一件とか!)で怒りがグッツグッツと煮え立っており、私もマジでひっでえなと思う。この国で女性として生きることにとても惨めな気持ちになるし。
でも私はそういう怒りをそのままぶつけることは選ばないと思う。ましてやそういうのを、しょーもない紙に創英角ポップ体で#Me tooとか書いてばっちり写真を撮られてみるあり方はやっぱ避けたいなと思う。私には言葉がある。人を救いたいという気持ちもある。できればそういうのを軽やかにこなしていきたいなという自尊心もある。そういうわけで私は、理不尽を感じることはやまほどあるけれど、手に取りかけただっせえごっついルイス軽機関銃をそのままぶちかましちゃうのではなく、かつて流行ったデコ電ばりにさ、愛と爆笑でデコって生きていこうと思うぜマダファカ。

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病棟ラウンジ本の金言と自分のどうしようもなさをぶつけ合いながら、それでも新年度の抱負

春休みの最中、身体が軽くエラーを起こしてしまい入院の運びと相成り候。駆け込んだ夜間外来では「ム…」という神妙な顔をされそのまま救急外来に回され(しかし救急外来のある病院まではなぜかタクシーで行かされ、タクシーで駆ける夜のソープ街の痛々しさよ)、救急外来でも「ム…」という深刻な顔をされそのまま数週間の入院が決まったのであった。

とにかく身体がしくしくと痛む。点滴をぶち込まれ、人らしい生活をさせてもらえず、しかし悲しきかな表層的デカルト的思考を求める私は、身体がそれほどに忙しくとも精神が怠慢しているという事実に耐えられないのだった。要するに、身体は痛かろうがしんどかろうが、精神が暇な以上、それは私という人間一個体の怠惰なのである。

とにかく暇暇暇。病棟のラウンジに置かれた本を読むしかない。しかしこの「病棟ラウンジ本」、どこの病院に行ってもラインナップが謎である。去年発行の女性誌やら、週刊誌、途中抜けの漫画、ハーレクイン、ワンピース感動傑作集、アイザック・アシモフ、大量の司馬遼太郎、……。最初に手を取ったのが井上雄彦の『リアル』で、これもなぜか六巻までしかなく、というかこんなまあまあ辛気臭い話(障害のある人が車いすバスケットをする話で、物語の途中で学校の人気者がダンプに轢かれて半身不随になるシーンも登場する)を病院に置くなよ。面白かったけど六巻までしかなかったので半日で読み切った。夏目漱石の『行人』も置いてあったがしみったれた漱石を読む気にもならず。しかしなんつうかこの病棟ラウンジ本というジャンル、なんだか私の読書遍歴に似ているなあ。体系化されておらず、興味も散漫で、良い本とか古典はたまにあるけれども、全体的な質はそんなによろしくない……。そんな病棟ラウンジ本から私が手に取ったのは『食べて、祈って、恋をして――女が直面するあらゆること探究の書』だった。

 

食べて、祈って、恋をして 女が直面するあらゆること探究の書 (RHブックス・プラス)

食べて、祈って、恋をして 女が直面するあらゆること探究の書 (RHブックス・プラス)

  • 作者: エリザベスギルバート,那波かおり
  • 出版社/メーカー: 武田ランダムハウスジャパン
  • 発売日: 2010/08/10
  • メディア: ペーパーバック
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厭!誤解しないでください!こんなアウトの本をなぜ私が手に取ったかって、まあそれしか読む本がなさそうなのと(黄ばんだ司馬遼太郎ももちろん嫌だった)、この作品を原作とした映画はけっこう高評価を得ているらしいことを風の噂で聞いていて、ネットフリックスのマイリストに登録していたためであった。病院での精神の暇な時間に押しつぶされそうになりながら、本を読む。離婚を経て、心身ともにずたぼろの生乾きの雑巾みたいになってしまった女性が旅をする。彼女はイタリアで食べ、インドで祈り、インドネシアで愛を知る。そういう本。ばーっと駆け足で読みながらも、ああ、イタリアの食べ物の描写の見事なこと。香りゆたかなピスタチオのジェラート、薄くてもっちりとしたピッツァ、それから、アスパラガスをゆで、そこに半熟の卵を落としパルメザンチーズを振りかけて……はああ、全部食べたい、目の前の点滴を引きちぎって全部食べたい。そもそも春休みにはヨーロッパ旅行をしようと決めていたのにそれに踏み切ることすらできなかった臆病者の私は、大胆に一年もの旅行期間を自分にあげられたエリザベス(筆者であり主人公である)にとてつもないコンプレックスを感じるぐらいで。

でも旅行はしていないけれども、いま病室でぼんやりとしていることは動かしがたい事実で。はあ、私は何をしているんだろう、確かに必要な治療ではあり、というかなんかストレスとかいろいろ溜まってたんやろな、そういう意味ではこういう時間を享受できることがうれしく思うけども、その嬉しさと同じ絶対値でマイナスのほうにも感情が振り切られる。

 

しかし、わたしが人生の愉悦を求めようとするときに必ず足を引っぱるのが、ピューリタン的な罪悪感だ。わたしはこんな喜びに値する人間かしら。まさにアメリカ人。わたしたちは自分が幸せに値するだけの働きをしたかどうかに自信がない。(本書105頁)

 

まあ、そんなことを言われたところで、四半世紀以上も鬱屈とした自分の思考回路をかためてきた私が、「ううん、いいの。これは人生の休暇。気にせず、しっかり休んで、それからまたリスタートすればいいんだから!」などとアメリカ人女性よろしく思えるわけがないのであって。

四月から働く予定だけど、ていうかいろいろ予習しておかなければならなかったことも多かったはずで、こんなんで大丈夫なのかとひたすらに胃が痛む。いまのところまともに課題もクリアできていないくせに要求だけは一人前で、これで「やりたいこと」とやらをやっていけるのか、あああ、そうするとまた三月に盛んに考えたこれからの人生やいままでの人生のことなど。

 

あんたは、なりゆきにまかせるってことを覚えたほうがいい。(本書257頁)

あんたは、自分の考えを選ぶってことを学んだほうがよさそうだな。なに、そんなのは毎日の服を選ぶようなものさ。これは自分で開発できる能力なんだ。自分の人生を自分でどうにかしたいのなら、心に働きかけろ。それ以外に方法はない。それ以外のことはどうでもいいんだ。自分の考えを自分で仕切れるようにならなきゃ、あんたはいつまでたっても、どつぼにはまったまんまだ。(本書303頁)

ネガティヴな思考の存在を認め、それらがどこから、なぜやってきたのかを理解し、それから――大いなる許しと不屈の精神を持って――それを追い払えということだった。(本書304頁)

 

 

はあー。そうですか。さいですか。まあね、そうよね、人生そんなもんよね、おいしいものを食べて、それで、自分の考えをコントロールすることが一番大事で。人生において(特に私みたいな、無駄に神経症に悩まされ、人生で自分が何をなすべきかユリイカが訪れず、またユリイカを引っ張り下ろそうともしない人間にとっては)やるべきことなんて自分の考えをコントロールすること、だけなんだよね。

この本、どうやら筆者の私小説みたいな話なんだけれども、次から次へとあふるる人生の金言に、すんなりと身をゆだねていける筆者が妬ましい。そんなんね、私はねえ、わかっちゃいるんだーーーい!ただそういう言葉にまだ説得力が感じられないんだよ。そして金言を受け入れどうにかその通りにしようという私の側の行動力もまた、ない。

はああ、私にとって必要なのはこうやってブログに金言もどきを書き留めていくことだけではなく(もちろんそれがどこかでこれを読んでいるかもしれない人間の心を満たすことがあればうれしいが)、イタリアに行きうまいものを食べ、インドで荒れたアシュラムに入って瞑想することなのかもしれない(”Love”のパートに関してはいま最高のセフレがいるので特に必要がない)。そうしてやわらかくなった身体や心に、「自分の考えをコントロールする」だったりその他大勢の「人生こうでなくっちゃ」というガッツが実感として、しみこんでいくのかも?

はああ、どうする?人生?自分は何になる?やれと言われたこともやっていないのに?みたいな悩み事をぶつけながらも・しかし悩み以上にならないものはうまく廃棄していくべきなんだ。とりあえず北海道にでも行こうかな?私が知る限りで日本で一番飯がうまいし、そういうところで働いてみよっかな…。

 

イタリアには人生の喜びがごまんと溢れている。その全部を試している時間はない。こういうときには専攻を決めてしまうのがいちばんだ。…わたしの専攻は話すことと食べること(ジェラートへの耽溺も含む)だと決まった。(本書107頁)

 

ま、なかなかこういう本の言葉たちは素直に受け止められないし、そもそも「(ジェラートへの耽溺も含む)」なんて書いてしまうセンスが許せないし、受け止められない自分の部分をいとしく思うけれども、うまく利用しながら自分の人生を打開していくっきゃない!ってことで、また私のなかの読書遍歴がより「病棟ラウンジ」化していくのだった。

ヨッシャー、やるで、やったるで、なんつうか、展開のある、どうかそういう一年に。

 

勉強とか研究とか会社づとめとか、人生のむだづかいとか、そういうの

先日、計八年もいた大学を卒業というか修了した。論文を書く身分になってからはどうしても家ではぼんやりしてしまうから研究室に通い詰めていたわけだけどそれは私のエモーショナルな部分をちょっとだけ麻痺させて、修了式のときでも「お礼を言うのはまた修了式のときでいいか」などと抜けたことを思っていたのだった。

 

二年前に院にあがって、卒論をゼミで報告したときに、教員に「これは研究ではないですよ」と言われたことがあった。ハラスメント問題が厳しい昨今だけども、その報告のあとその教員はきちんと面談を組んでくれて、研究とは何か、どういうことか、ということを懇切丁寧に教えてくれて、私はメモを取りながら、質問しながら、聞いたのだった。

私はいわゆるゆとり世代生まれの人間なんだけども、ゆとり世代というものに対する受け取り方は、ゆとり世代だと嗤う世間とも、またその嘲笑を真に受けて抵抗しようとするゆとり世代の人間ともちょっと違って、ゆとり世代は基本的にまじめな人が多い印象を受ける。限られた時間のなかで、言われたことを要領よくこなすのが得意な世代だと思う。まあ大学で学んだ人間がナイーブな世代論を振りかざしてどないやねんとも思うんですけども。ともかく。で、私もそういう意味でのゆとり世代の一員で、わりかし勉強は好きだった。新しいことを学んだり、学んでいることを整理して、整理したものを書き連ねたりが好きだった。そういうわけで一生懸命へたなりに(まじでむちゃくちゃ下手だったんですけど)論文を書いて大学院生になったわけだった。そういうのが「研究じゃない」というんだから面食らって、まあ私は厳しいことを言われると火がつくタイプの人間だったので、ありがたく火をちょうだいし、それがなんとか二年での修了につながったとも言えるんだけど。

ほじゃ結局研究ってなんやねん、ということなんですけど、まだうまく言語化はできないんですけど、けっきょく研究というのは、なんも特別な「いとなみ」みたいなこじゃれたもんではなくて、例えば車を作ったりするのと変わらんものだ。前の世代ではここまで技術ができてて、もっとここをこうしたいから、ここを変えよう。みたいなそういう話と変わらない。(いや、こういう単純な技術進歩観も、大学院生としては大アウトなんですけど…。)先行研究の整理をし、周辺分野もよく読み、何が言われてて何が言われてないのか、何が言われるとその分野が成長するのか、そういうことを意識しながら話すのが研究なのであって、まあ好き勝手読み散らかしたり書き散らしたりするのとはまた違うんですよね。歴史を引き継いで、自分が歴史に加わるというそういう大きな流れに身を投じるのが、研究…ということなのかなあ。その教員には、論理的に話すこととか、価値中立であるために議論の足場を用意することだとか、ほかにもいろいろ教わってそれをひっくるめて全部研究なんですけども、私が研究の根幹だと思うのはその部分だった。

で、まあその通りできたかっていえば全然できなくて、論文では全然できなくってああこんなんで修了させてもらえるとはほんまもんのゆとりだなあと苦しく思うことが多かったんですけどもそれでも就職も無事決まったわけだしこのまま逃げてしまえとも思うんだけども、修了式の日、しこたま酒を飲んだら夜寝られなくなって苦い胃酸を飲み込みながらこれからの人生のことなんて考えちゃったりした。

来年度からは会社で働く予定で、聞けば聞くほど、考えれば考えるほど、私が苦しんで戦ってきた「研究」みたいな態度と会社で勤める態度は全然違うなあと思う。あ、もちろん具体的にお仕事する内容が決まれば、その世界をなんとかよくしたろうと、調べ上げて、何ができてて何ができてなくて、みたいなところも考えられるんだろうけど。まだ具体的に像を結ばない「会社づとめ」は、目をつむってシャンプーしてるときのなんとなく背後に霊っぽいサムシングがいるかもしんないと思い込むときの恐怖感と似ているよ。

もし全然違っちゃったらどうしようねえ、と背後霊は話しかけてきて、もし全然違っちゃったら私のこの二年間、この七年間はどうなるんだろうねえと背中をなぞる。全然違っちゃったりなんかして、そのうえ、会社づとめのほうがうまくいっちゃったりして、なんかして。いや、もしそれが大切なんなら、全然違わないように、人生すればいいんですよ、と守護霊?は言ってくれるけどもやっぱり酔った日の夜は長くて長くて、なんつうか、やりきれねえ~~~と思っちゃう。ああそういえば『マスターキートン』でそんなセリフありましたよねえ。研究職を目指す平賀・タイチ・キートン(これで一人の名前ね)はなかなか研究ポストが空かなくて、つなぎでやってる保険調査員のほうでむしろ活躍できていたりなんかして。そのときのエピソードは、どっかの非常勤の応募に落ちて、がっかりしたキートンが、「お父さんは人生の無駄遣いをしているような気がする…」と家族に漏らす、そういう話が。悩むところは昔もいまも一緒で、逆にいえばそれでもなんとかやってきた人が大勢いるのだから気楽に構えとれっちゅうの。捨てるとこなく全部料理しようみたいなセコいこと考えるからしんどいのであって、おいしいところだけいただいてしまえば人生も気も楽になるんであろうのに私はどこまでもエコ思考のワンガリマータイよ。

 

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アナルセックス、したことありますか

 自分のブログをチェックしてたらさいきんの投稿がやけにエモーショナルで、なんかこんな元気じゃないのは私らしくないよね!ってことで自分の体験を切り売りしちゃう感じのエントリーでも書いちゃおうかな!というわけでアナルセックスの話をしようと思います。唐突すぎてエ?感あるけれどもアナルセックスってこれからトライしようとする人にもリアルな描写を求めてる腐女子のみなさんにとっても意外とレビューが届きにくいものだと思うんよ(そうなの?)。いつもみたいな考えや悩み事をこねくり回したものよりというよりもハウツーみたいな記事になるからね あたりまえなんだけどアナルセックスに思想なんてあるわけないし…。

 

実際のところ、どうなん?

 アナルセックスって言ったら最近だとフロイト先生が発達段階の一つとして「肛門愛期」なんていうものを設定したおかげで性欲真っ盛りの高校生を倫理の授業で爆発させ、もっと古くにさかのぼれば古代ギリシアの奔放な愛情表現として、もしくは日本歌舞伎のういういしくなまっちょろい男児たちの芸術・性表現として変わらず勉学に励む中高生の心を惑わせている。

 こんな感じでアナルセックスは意外とその存在自体は義務教育を通して私たちの頭の深いところにしみこんでいるわけだけれどもそれを実際にやるかっていったらそうじゃない。LGBTQを堂々と表明・議論できる時代になって加えてセクシュアリティなんかも生得的に白黒はっきりつけられるもんというよりも人生をかけた濃淡の問題であることなんかが知られております昨今ですけれどもやはり大多数は女性器と男性器のこすりあいを求めそれで成り立っているのであった。

 私はいまさらなんですけれども性別は女性で基本的にはヘテロセクシュアルなのでそういう意味で肛門性交は必要としない。よってすることになるんだったら完璧な趣味なわけである。そういう意味でこのエントリーを書くのでいままでいろいろ書いてきたけれどもシリアスなことは1mmもないので許してくれよな。

 

 さて本題に入っていくわけだけれども肛門性交、実際にどんなもんなんかっていうのを私個人の経験からだけでお伝えしていくのがこの記事の本題なわけなんだけれどもまず肛門性交のイメージから整理すると以下の三つの観点から語ることになりますな。

①痛いのか痛くないのか

②汚いのか汚くないのか

③実際のところ気持ちいいのか、気持ちよくないのか

という話でしょうかね コンサル的には0点のMECEな気がしますが私がトライしたときに気になったのはこの辺だったと思います さてさっそく実際に経験を織り交ぜながら書いてついでに対処法なんかも述べますのでみなさんの可能性の素敵な拡張(ダブルミーニングです)、もしくはみなさんのBL小説の糧にでもしてくれよな!

 

①痛いのか痛くないのか

答え:(やるべき過程をすっ飛ばすと)痛い、(男性器が大きいと)痛い、(痔持ちだと)痛い。

 よく出産の痛みは鼻からスイカだすとかたとえられるわけですけれども、同様に鼻のような大きさの肛門に男性器を突っ込むのはやっぱり痛いんじゃないか?と思うわけですよね しかしBLの世界なんかでは処女の受けであってもすんなり入る上に快楽なんかもあっさり得ているようで自分の想像力とBLの想像力とどっちが正しいのか揺れ動く乙女心。

 やった身からするとやっぱりね、やっぱり痛い!男性器をケツに突っ込むのは痛いよ!特に過程をすっ飛ばすと辛い。過程というのはいわゆる「慣らし」だとか「拡張」とかいうやつ。ローションしっかり使って、アナルプラグなんかでアナル及び身体の緊張をとらないでレッツゴーするとマジで痛いし痛いというか普通に出血する。出血とか言っても要するにただの切れ痔ですからね。逆方向だけど。私はアナルバージンをささげた相手が「肛門性交はローションを使わないのが究極にして至高」という倫理観とち狂いまくり人の道外れまくりの人間だったのでそういうことになっちゃった。だからローション使ってればはじめてでも痛くないのか?っていうところは断言できないけれどもそれ以降の痛みはローション使うとちょっとマシになった…ちなみにローションなんですけど膣性交用のだと粘りが足りなくて普通に痛むので、肛門性交用のがいいですよ。

 (アダルト商品のせいかはてな経由でアフィが貼れなかった。)

 というわけで私ははじめてが痛かっただけにかなりトラウマを植え付けられたわけですが、それから一切ほかの人とトライしなかったわけでもなくて、三種類くらいの男性器で試したわけなんですけれども二つ目の結論から言うと男性器が小さいと痛くない!これはまじです。前述の男はアナルセックス好きのフランス人だったんだけど、男性器がエッフェル塔くらいあったからね。しかし別の機会でスモールさんとおこなったときは上述のような慣らしも拡張もさほどしなかったんですが入る入る。動かれても痛くない。スモールさんと膣性交をしたときは相手がスモールすぎてなんつうか私のガバいマンちゃんで申し訳ないなと思いはしたいんだけれども肛門さんにバトンタッチすればこちらはそんなに痛くないしおそらくマンちゃんよりは締まっているだろうしでお互いハッピーだなと思えたのだった。まあ、スモールさんとは一回っきりでもう会ってませんけど。

 

 というわけでまあつまるところどんだけ男性器がスムーズに入るかが問題っちゅうわけなんですな。男性器が大きいんならそれなりに拡張をしっかりやるべきだしそうでもないならそれほど痛みはない。しかしまあ問題は受け手の問題よね!私はなんと痔持ちでなんと手術経験済の「マ痔(マジ)」だったのでどうしたってなんつうか内側が、痛むんだよね…。これはほんとどうしたってしょうがないしどうしたって痛いんだと思う…。痔持ちでアナルセックスに挑戦とかどんだけエクストリームよって思う人も多いんだろうけどやっぱり好奇心は猫もアナルも殺すんだよね。たぶんあんまやんないほうがいいよ。あとこれ読んでる人でちょっとでも痔のケがある人はね、痔は自然治癒しないから恥ずかしくても早めに医者行っといたほうがいいよ。

 

②汚いのか汚くないのか

答え:思うほど汚くはないが、汚れないわけではない。

 なんとここまでで2000字突破している!まあそれはさて置いちゃって、実際にトライしようとする人にとって一番気になるのはこの点だと思われる。痛みなんかは自分が我慢すればいいけどさ、汚さを相手に見られてなんかしらのなんかしらが崩れちゃったらどうしようかと、不安に思わないわけないもんね。肛門、何を隠そう、みなさんが毎朝そこから便を捻出しているあの肛門ですよ。に指を入れたり男性器を突っ込んだりするのは汚くないんだろうか…?という不安ね。

 私は前述の倫理観アウトマンの性癖が「汚いセックスが好き、むしろ付いてくるくらいでも構わない」という、マザーテレサもちょっと引くレベルの人間愛を兼ね備えていたのでそれほど気にして準備をしたわけではなかった。でも一応「アナルセックス 準備」とかで調べるとゲイ向けのサイトなんかでは「浣腸は必須!ちんぽにウンコついて出てくるほど萎えるものはない!」って力説されてるわけなんだよね。でもさあ浣腸だるいじゃないですか、調べれば調べるほど、「やればやるほど出てくる」みたいな話がさあ……。

 しかし実際に浣腸をしなかったらちんぽにウンコがつくかっていうと、これもまた私の個人の経験でしかないけれどもそんなにべっとりついてくるということはない。詳しくはググってほしいんだけれども、人間の肛門は基本的に出口付近に大便が詰まっているということはない。でもトイレではすっと出てくるやんけ!と思うと思うけれども、その便意こそが、「入口付近にうんちが降りてきてまっせ~」という合図なのだ。便意がなければそこにはない。逆にいえば便意がなんとなくでもあるときには要注意ということなんである。浣腸まではちょっと…という方もとりあえずしっかり生活習慣整えて当日はキッチリ排便をキメる、ということができれば大丈夫なんじゃないかな?

 といっても、汚れないわけではない。やっぱね、突っ込むからね。そりゃね、奥のほうにはあるわけだからね。べっとりついてくるわけじゃないが、ベッドに敷いていたタオルなんかに「…オッ」と思う色の汚れがついていたりなんかする。それは避けらんねえ!まあだからそういうのはイヤ!!!と思うんだったらやっぱり浣腸をなんとかして二人で頑張るしかないし、まあそういうのは許容できるけれども雰囲気がなあというんだったら使うタオルをすべてウンコ色とかに変えてみよう!

 で、すごく汚いわけじゃないって話をしてきたわけだけれどもやっぱりそれでもコンドームはつけようね!アナルの性病は特濃だから、妊娠しないから~って調子に乗らずに1mmでも10mmでもなんぼでも、しっかり避妊具はつけようね!

 

③気持ちいいのか気持ちよくないのか

答え:すごい気持ちいいというわけではないが、人類がそれを求めてきた気持ちはわかる。

 痛みや汚さも乗り越えた人類が(膣性交ではなく)肛門性交に求めるのは究極的な快楽である。快楽がなかったら痛みも汚さも意味ないもんな。

 で、風で聞いた噂なんやけれども男性には前立腺というものがなんというか肛門からちょっと入ったところにあるらしくてなんか風で聞いた噂なんやけれどもそれを男性器で刺激されることで激烈な気持ちよさをもたらす…みたいなそういう話がね、あるらしいんですけれどもね、正直私ら女にとってはなんもわからんわけでこの辺に関しては男性が書いているブログを参照にしてみてください。ついでに引き続き男性のいれる側からしたらどうなん?という点についてはこれは私の体験ではないけれども前述の倫理観アウトマンがあまりにもアナルセックスが好きなので理由を聞いてみたら、「膣性交は途中で男性器が子宮口に当たって止まってしまうけど、肛門はそういうこと無いから奥まで入って気持ちがよい」ということだった。やっぱり巨根は悩みも解決策もビッグサイズ、膣に入らなければアナルに入れればいいじゃないってどこまでおフランスつきぬけてますのん。余談だがフランス人はアナルセックス好きな人がとりわけ多かったような気がする…さておき、男性側はいろいろ両側面からメリットがあるようなんですけれども、そういうのが無い女からしたらアナルセックスってどうなんよ?という話。

 結論からいうとすごい気持ちいい…というわけではなかったんですよね私にとっては。肛門付近で男性器を出し入れされるのはどっちかっていうと違和感の出し入れで、それに前述した痛みであったりとか、「いまここで動いてるのは男性器ではなくウンコなんとちゃうか?」っていう不安であったりとかでなかなかリラックスできねえ。おまけに前立腺とやらもないので、まあどうしても、アナルセックスサイコー!という気持ちにはなれなかった。

 でもなんというか、かけらはわかった。つまり、人類がはるかはるかはるか昔から古今東西手を変え品を変えそれを求めてきた理由みたいなもんはうすぼんやりわかった。フロイトが肛門愛期なんちゅう衝撃的な区分を発表したことは冒頭に書いたけれども、やはり肛門付近というのは一種の快楽が生まれる場でもある。毎朝排便を出してなんとなくうれしいのは、排泄のすっきり感だけではなくそれと分かちがたく結びつきながらも独立した肛門の快楽があるからだと思う。男性器が肛門を出入りすることでそれを断続的にそこに感じ、ああ、なんというか、人間の身体だなあと私は思った。私はいま、ハドリアヌスが感じた快楽を、おそらく、感じているんだろうなあ…と私の身体は時代を超え宇宙を超えハドリアヌスとつながったのであった…ハドリアヌスがどっち側だったかはしらんけど……。

 たぶん訓練次第で女性でも快楽を得るようになれるという予感はあったけれども、私はまあ、痔持ちだからね、そこまでのチャレンジ精神はないけれども健康で健全な肛門を有する方々、ぜひ挑戦してみてくださいね。ちゃんちゃん。

セール品の購入と人生の消極的な選択の話

なんつうか脳内はやっぱり春。わりあい誰に会ってもこれからのことを思い悩んでいたりしてもちろん私もその一人。私はこの春から就職して企業に勤める予定なんだけど(予定は未定だし何が起こるかわかんないのでアレですけど)同業他社に勤める人と話す機会があった。その人の脳内もやっぱり春で、一年勤めたけれどもこれでいいのかなあという話なんかをした。

その人もやっぱりこれでいいとはまったく思っておらずというよりむしろ現在職場厭我一刻早退職欲感満載だったので早速転職の話になり、私が「具体的にはどうするんか」と聞いたところ「×××を知っておくとお得そうだからそれ系の会社に入りたい。そこでキャリアを積んで転職する。」とのこと。

ああこの既視感。「…しておくとのちのち楽なのではないか」を繰り返すその人に私は「でもそれって本当にきみがやりたいことなのか」と聞き返したのだ。えらそう感いなめないけど、私もそういう間違いを繰り返してきていたからその人にも確認したかったのだ。

××の学部に入っておくと就職楽かな。とか。

××の会社に入っておくと転職楽かな。とか。

××の学部に入らなかった私、××の会社に入らなかった私は反実仮想でしかないからわからないけど、実際のところ別に楽とか苦とかは関係なかった気がする。私は上述みたいな期待をしてそういう学部に入ったりそういう就活をしたりしたけれども、箱を開いたりほかの同期に聞いてみたりすれば、別に学部レベルだったらそうたいして就職に差はないし(どちらかというと学部というよりそこで何をしてきて、どれほど面接官に対して具体的に話せるかが重要だった)、会社の名前で選んだはいいけど自分として何が身についてるかっていうとよくわからなくなる人もいる。むしろ、私なんかはそういうお得根性で選んだ選択がその後の自分の選択を狭めてきたことに苦しんできた。せっかく××やったんだから××生かしたほうがいいのかな。とか、××やってきたけど○○やってきたことはないから○○の選択は取れないな。とか。でもほんとに××ってやりたいことだったっけ。○○やりたいんじゃないっけ。でも○○やるには知識も経験も足りてない。

こうして、消極的な選択がどんどん積極的な選択を打ち消していく。

脳内はけっきょく春で、私は自分が積極的にどんな選択をしたいのかずっと思い悩んでいる。二十六になってまで、さいきんのもっぱらの関心は「十三歳のハローワークもっかい読みてえな」だったりする。26と13、よく見たらダブルスコアじゃんかよ。でもさあその人と話してて、まるっきり、自分と同様の選択の取り方をしようとしている人を目の前にみて、アッと思って以下のことを伝えた。「けっきょくセールのときに『そんなに好きじゃないけど安いし買っておこうかな』って買った服なんて着たくないし着ないんですよね。」

セール品、お得だから買っちゃうことちょっと多い。さいきんは服飾費抑えてるからそんなことはないんだけどまあそれは閑話休題。

いまの気分じゃないけど、なんか、かわいいし、春になったら着るかもしんないし、なにより安いし。

そういう根性で買った服って、けっきょく春になっても着ないのだ。着たとしてもしっくりこないのだ。

なんというかさ。私はまだ全然人生がまともに機能してねえっつうかまともな生産をこなしていないのでなんとも言えないんですけれども、なんかこういう「これやっといたほうがいいのかも」という感情で動いた結果が自分にとっていいものだった記憶って全くない。消極的に、なんか未来の自分が救われるかもみたいな動機で選んだものってけっきょくどこにへもつながっていかない。たまに思い出したように顔を出して、子どものころにうっかり手のひらに突き刺してそのままの鉛筆の芯みたいに居座ってるだけ。

その場、その場、その場の自分。その場の自分の欲を満たさない限り、セール品も選択も意味ない。あああ、ここまで文章にできるくせにわかんない。積極的な、積極的な選択は私のどこに埋まっていて。掘り起こさなくちゃいけないのに。

あーあーあーあー、二十六になってもこんなこと言ってる私、私はけっきょく自分の積極的な選択なんてわからんくて、あーあーあーあ、目の前には毛玉だらけの、セールで買った、使えない春のカーディガンが山積みになっていて、あー私は今年こそはレザージャケットを買おうとしていたような気がするのに。だってこのカーディガンに合うようにほかの服も買っちゃったから。いまさらレザージャケット買っても合わせる服ないから。私はださい春色のカーディガンを着てそれが似合うような場所に行って、そういうのが好きな人にちやほやされて、それでも帰るときには「今日の合コンもつまんなかったなあ」って。あーあーあーあ。

アラサーだってのにハリポタの名言が年甲斐もなく心にしみこんじゃったりするってなわけ

三月、季節の変わり目。季節の変わり目は昔の恋を思い出しちゃったり昔に関係のあった人からあからさまに発情した連絡がきちゃったりするから厭なもんよね。そしてなにより季節の変わり目、私はついに二十うん年(ほんとは三十マイナスうん年としたほうが早い)もいた学窓から飛び出すことを決意した。そういうわけで、人生の来し方行く末なんかをあてもなく考えてしまって、ああ季節の変わり目だなあとまたひとしお。

つまり来し方行く末、ああしとけばよかっただとかこれでいいのかとかこれでうまくいくのだとか。具体的に言えばせっかく二十数年も学びの窓にいたのだからいまさら会社なんかに入る必要はないのではないかとか(いまさら)、ほんとに働いていけるんだろうかとか(やってみんとわからん)、そういえば内定者課題の一つがクリアできていないんだけどこれは会社に連絡すべきか否か(神経症!)であったりとか。そういうものがないまぜになった上で、私はどういう人生を歩みたいんだろうなあとかそういう、思春期みたいなとりとめもない話。

唐突だけれども最近ひっこしをして、インターネットがつながらない期間が数日あったので唯一DVDを持っていたハリーポッターをまとめて観た。ブリティッシュ・イングリッシュ練習のためにレンタル落ちのDVDを買ってただけだったんだけど。ハリポタのことはリアルタイムではもちろん大好きで、本を読み映画を見、その他もろもろグッズなんかも買っちゃったりしていたんだけど、語彙やら人生やらが積み重なってきたいまの年齢で見るといろいろぐっとくるものがあったりする。たとえば第二巻秘密の部屋のダンブルドアのセリフ。“It is our choices, Harry, that show what we truly are, far more than our abilities.”(私たちの選択なのだ、ハリー。我々の人となりを表すものは。私たちの能力ではなく。)すごい、こんな言葉を人間が思いつくものなんだろうか?最近の私は来し方行く末をうろうろと考え、私の選択の正しさ、私の能力との兼ね合い、そんなものを頭の両端にそれぞれ思い浮かべては苦い気持ちになっていることが多かった。できること、できないこと、やりたいことやれないこと、私の人生、みたいなことをうだうだ考えていたところにさくっと切り込んできたのがこのセリフだった。みんなハリポタの大筋は知っているだろうから詳しい説明もせずに語りに入ると、ほんとは自分はスリザリンに入るべきだったのではないか?と思うハリー。組み分け帽子にも「スリザリン向きだ」と言われ、おまけにパーセルタング(へびの言葉)まで操れる。人の評価も自分の能力も、自分が求めるものとはかけ離れているときほど自己評価がゆらぐことはない。だけれどもそんなハリーにダンブルドアが言ってやるのは「選択の重要性」という話なのだ。自分の根幹は、人の評価や自分の能力によって決まるものではない。いかなる選択をしたかによって、形作られていくのだ。そしてハリーは組み分け帽子に「グリフィンドールがいい!」と願ったわけで、その選択と懇願こそが、ハリーをハリーたらしめている。

みたいな、ことを書いていたら私の気持ちも落ち着いてきた。来し方、行く末、いろいろあって、いろいろあった私が望んで身に着けた能力、身につけざるを得なかった能力、だれかからの評判、そういうものに縛られてくるしくおもうことは多々あれど、最後に自分のろうそくの芯となるのは自分の選択だけなのであり、その選択を、ごうごうと燃やしていけばよい。のではないかなーみたいなことをうすぼんやりと。

 

で、実際に、選択、どうするよ?と腰を据えて考えることから逃げてはいけないんだけど、いまはこういうJKローリングの文章に救われているわけだから私も人生の偉大さを偉大な文章で切り取ることができるような人間になりたいなと考えている。まあ、これは妄想なだけであって、まだまだ選択ではないんだけれど。そういうことを考えながら、これを書いた。