4月

四月のきらめきに、年を重ねるごとに負けそうになる。しかし十分に成人であるくせに春が憂鬱だと白状することは自分の人生の情けなさを認めるかのようであってやるせない。

 

服藤恵三『警視庁科学捜査官』(2021年)

ツイッターで話題になっていたので手に取ることになったが予想外に面白い本だった。著者の服藤氏は科捜研の研究員。地下鉄サリン事件におけるサリン同定にはじまる、東電OL殺人事件、和歌山カレー事件、…などの犯罪を科学的根拠に基づき解明していく。無論、人が実際に死んでいることなのであけすけに面白がるのは恐縮なのだが、筆者が博士号まで取るに至ったその専門性に基づいて事件を紐解いていく流れはミステリー的な中毒性がある。それだけでも十分読むに値するのだが、筆者が科学捜査と同等以上に心血を注いだ「組織」という存在を考えるにあたっても興味深い本だった。筆者は科学捜査を日本の警察におけるスタンダードとして確立させんがために奔走するわけだが、日本の警察組織の、縦割り組織や従来慣行の壁は厚く、その筆者の思いと行動は彼自身のキャリアの足かせにさえなってしまう。こうした状況に対して筆者が実際にどう感じていたかはわからないのだがそれでも筆者は組織改革を諦めず、この本のラストでは人を育てていきたい(p273)という願いに結びついていく。道を究める人というのは自分の知識を深めるだけでなく、自らが所属する組織が、そしてひいては組織にいる人々がより良いものになるように働きかけていくものなのだろう。働いていると嫌なことが山程あり、その度に組織を改善しようとしない組織人に対して軽蔑の念を覚えるわけだが、私自身としてもいつそういう人間になるかはわからないものだし、この筆者の態度はできる限り胸に留めておきたいと思った次第。

警視庁科学捜査官 難事件に科学で挑んだ男の極秘ファイル (文春e-book)

 

カポーティ『冷血』(1965年=2006年)

上記の『警視庁科学捜査官』を読んで犯罪シリーズ…と思い手にとった。文庫の栞リボンが途中に挟まっていてどうやら前回のときは読了しないままこの本を本棚に突っ込んでいたらしい…が、なぜ前回は途中で読むのをやめられたのか?と思うほど刺激的に面白く読めた。切り取る情景が映画的で美しいのが良かったし、犯人二人がするりするりと警察の手を逃れる様も飽きを感じさせない。(もちろん、こちらも「人が実際に死んでいることなので…」モノだが…。)登場時は小物男にしか見えなかったペリー・スミスが頁が進むにつれて狂気と愛情を有した人間になっていく描写にカポーティの筆力を見た。あとがきにもあるように、実際にカポーティはかなりこの男に同情を寄せていたらしく、その心情をオーバーラップしていくかのように物語が進行していく構成力に惹きつけられる。『冷血』といえば高村薫の同名小説がありこちらも楽しく読んだはずなのだがあまり記憶にない…。昔は本を「読む」余裕も技量もなかったのだなと恥ずかしく思い返される。それらを持っていた学友たちに焦っていたころばかりを思い返す。いまもそう大して(余裕も技量も憧憬も)変わってないかもしれないが。

冷血 (新潮文庫)

 

四月歌舞伎「桜姫東文章」

なんだかな〜、私は21世紀の人間だから嫌な気持ちになっちゃったよ。強姦された姫が、強姦犯のことが忘れられず、偶然の再開を経て自らの身分も捨てて相手に身を捧げる。(ここからは四月歌舞伎では演じられていない後半の話だが)しかし実はその相手こそが親と兄弟の仇なのだと知り、最後には仇討ちとその男の首を掻っ切って大団円。強姦された姫が強姦魔に想いを寄せるという強めの妄想も気に食わないのだが、その思いも結局は家族への忠孝の前には憎しみにかき消されるという、忠孝(社会通念)>強姦魔への思い([男の]妄想)>姫の個人の尊厳、というこの順番にやるせなさを感じた。

玉三郎と仁左衛門は素晴らしいお芝居をしたと思う。二月歌舞伎の感想がまだ書けていないのだが、この二人は本当に年齢を超えた演技をする。(若さがすばらしいという立場に立つわけでは決してなく、お年を召した顔つきの人がみずみずしい演技をすることの衝撃について言っている。)ベッドシーン(ベッド無いけど)は、桜姫の浮かれた恋心と真性の悪人である権助の迫力がないまぜになり思わずなまつばを呑む。筋書きの後ろのインタビューで玉三郎も桜姫の人生について「理屈で考えると難しい」(p49)と触れているわけだが、理屈を超える演技であった。が……女という立場から見るとどうしても納得いかないよおん(涙)という気持ちでいっぱいだ。その筋も、またその筋を喜びオペラグラスでベッドシーンを見つめる観客にも。(注:歌舞伎座には若手俳優の2.5次元舞台ばりにオペラグラスで演技を追う観客がいます。)もちろん、いまの立場から古典を評価してしまえばほとんどが女性蔑視の要素を持ち合わせざるを得ないしそれに目くじらを立てるつもりはなかったのだが…。殊、文学とは異なり、歌舞伎/演劇という、いまを生きる生身の人間が目の前で古典を演じることは、演者・観客双方に相応の解釈力が必要なのだ。

理屈で考え続けると桜姫の恋はストックホルム症候群的なものとも言えるのかもしれないが、今回の四月歌舞伎はそういった理屈抜きで恋に落ちてしまった桜姫が演じられていた。そもそも鶴屋南北は爛熟した町人文化を反映していると言われるし(wiki情報)、玉三郎の芝居は姫が一時の「のぼせ」で社会的地位から転がり落ちるその様を目撃したく思わせるものだった。そもそも坊主である清玄も、冒頭いきなり少年愛に走っていたり妄執で姫に襲いかかったりとかなり狂っているしあんまり理屈ばかりで捉えてもいけない話なのだろうな。(もう少し南北とその時代について勉強する必要もあるだろう。)

と、文句ばかりつけたが、言っても後半を演じる六月歌舞伎は割合楽しみにしていて、理屈を超えた女を魅せる玉三郎が、はたして忠孝という理屈を前にどういった変わり身を見せるのかが気になるところである。また仁左衛門もやっぱり良い色男なのでそれも純粋に楽しみだ。

歌舞伎―女形 (新潮文庫)

(十六、七歳の器に入っているかのような玉三郎)

 

JUNK HEAD(2017年)

タカヒデ・ホリ監督。ストップモーションはまじですごいが物語は普通でエッ?と思った。一応三部作中の一つだから、ということではあるのでしょうがないのかもしれないが…。上映後の観客はかなり興奮している人が多いみたいだった。筋でしか物語を判断できないのは私の弱みだな。

 

グリーン・インフェルノ(2013年)

イーライ・ロス監督。人がちぎられる。

赤い顔をした民族の文化性についてはそりゃそうだよなという感じ。特にいまの時代では誰しもが持っているリテラシーのように思う。

グリーン・インフェルノ(字幕版)

 

記憶の夜(2017年)

チャン・ハンジャン監督、Netflixオリジナル。

韓国映画まとめて見てたことがあって〜、という話を友人にしたら勧められた。最初は正直、かなりNetflixオリジナル映画あるあるで退屈だった。つまり、大量の映画のプロットデータかなにかを集め、それらに共通する要素を抽出しただけの映画。この作品で言えば、信頼のできない語り手、過剰にむごい暴力、殺害シーンをあえてコミカルに描くこと、カーチェイス…等など。設定なぞっているだけだなとは思ったが最後の展開については私があまり見ていなかった展開だったので最後の最後で楽しめた。ネトフリオリジナルもなかなか進化してきている。

 

来る(2018年)

中島哲也監督。私は女なので(かつ子どもを持つ姉がいるので)、妻夫木(が演じている男)が全部悪いじゃんと思った。最後の展開に「霊能力者アベンジャーズwww」ってみんなが喜んでるのがよくわからない。原作読んだほうが良さそうだがあんまりホラー自体積極的に見ないからたぶん読まないままだと思う。

来る

 

ダンスダンスダンスール(2015年〜)

この本に勝る衝撃はない。序盤はバレエのセンスに長けた少年が、バレエスクールという居場所を与えられ次々にバレエの楽しみを吸収していく。そうするうちにバレエの「正しい美しさ」に目覚め、それを身につけることと自分のセンスと掛け合わせていく…。突然だが私は「天才物語」が大好きだ。とはいっても多くの物語がたいてい「天才物語」ではあるのだが、その中でもこれは『のだめカンタービレ』的天才物語で、抜群のセンスで周りを圧倒的な芸術性を見せつける主人公が、芸術の正しさにふれることによってより高みに登っていく…という部類のストーリーである。芸術、特にその中でもクラシックと冠のつく領域の、「何百年もの」の正しさに、たかだか数十年程度の鍛錬で向き合おうとすることはどれほど恐ろしいことなのだろうか、と考えるとぞくぞくと興奮してしまう。その一人ひとりの表現者のたゆみの無い継承こそが、クラシックを作っていくのだが…。

特に心ゆさぶられたのは、序盤の「Happy boy」であった主人公・潤平がまさに芸術やそれに身を捧げた者たちと比べたときの自分の空虚さに気づいてしまう15巻。序盤までは「まあ中学生男子だからね」で済ませてもらっていた潤平の思考の浅さが描かれていて(Amazonレビューを見るとそれが気に食わなかった人もいるらしい)、キャラクター造形としてそこで完結していると思っていたのだが、15巻に至ってそうした潤平の性格そのものが、彼が表現者として乗り越えるべきものとして描かれることになる。ここまで計算して構成している作者の力量に舌を巻く。作者のジョージ朝倉は『溺れるナイフ』を書いた人で、こちらはNetflixのウォッチリストの化石になっていたので早くちゃんと観ようと思う…。

少し恥ずかしい話ではあるが、自分の空虚さと向き合う潤平、目標に向かって努力し続ける夏姫、とそれぞれ青臭くも人生を生きていて、今年さんじゅっさいになる私も、なんとかせなな…と本気で思ってしまった。作中にも「本物の天才は観ている者に『踊りたい!』って思わせるもの」というセリフがあったし、本当にすばらしい作品というのは読んでいる者に『私も人生を生きたい』と思わせるものなのかもしれない。

ダンス・ダンス・ダンスール(15) (ビッグコミックス)

(中村先生がめちゃめちゃいい先生なのだ。いい先生すぎて「フィクションだ」とすら思う。ただ一流の人間には一流の指導者がつくものと思われるので、彼はそこまでフィクションな存在でもないのかもしれない。)

3月

ミン・ジン・リー『パチンコ』上・下(2020年)

パチンコ 上 (文春e-book)

パチンコ 上 (文春e-book)

 

  ツイッターでのレビューもアマゾンのレビューも良かったわりに私としては全然好きじゃなくて読書時間の9割で苦痛を感じていた。が、最後の最後で話の終わらせ方、収束の仕方は説得力があって、この1割のためにこの本は存在するのかな。となんとか持ち直した本。

 苦痛を生んだ理由のまずい点の一つは登場人物の造形がありきたりな韓国ドラマっぽく、かつそれだけなら構わないのだがそれがリアリティに全く結びついていないところ。ソンジャまでは良かったが、魅力的で裕福だがしかしアウトローなコ・ハンス、こちらもまた男前で、コ・ハンスの子どもを身籠るソンジャを無条件に救ってくれるパク・イサク、人生に苦労せず天真爛漫でしかし核心を突くような発言ができる晶子、黒田教授の描写が最も浅薄で、1960年代という時代に女性という立場ながら教授職を得ているにも関わらず「女の一生は経済的地位と結婚相手によって決まる」と強調する――など。と、まずい点一点につきこのペースで書き続けるほどの熱量も無いので残りについては具体例を提示することなしに話せば、文体、翻訳、人物の描写の乏しさ、ストーリーの陳腐さ、むやみな性描写、在日韓国朝鮮人の歴史の欠如、物語中に登場する日本人の異様な物分りの良さ、チャプターごとに区切って世代という時間の移り変わりを表現するという乱雑さ(『百年の孤独』の流れるような時間描写を読んでほしい)、どれもが気に触ってしまった。特に歴史が欠如している点については期待はずれだった。しかしもちろん私のこの期待も、文学・物語に対して我々が持つ苦闘の歴史をわかりやすく紐解きおもしろおかしくストーリーに仕立ててほしいと望むのは傲慢なような気がしないでもないので、おおっぴらには言わないが、しかしやはり関東大震災のデマ、戦時中の韓国朝鮮人の扱われ方、そこにおけるコミュニティの形成――などに触れないままに話を進めてしまうのは、「どうしてこのテーマを作者は選んだのか?」と疑問に思わざるを得ない。

 途中で何度も放り出そうと思ったがしかし読みきらないことには文句もつけられないかと思って最後まで読み進み、すなわちソロモンが結局はパチンコ業を目指すところに当たったところでようやくこの物語が持っていた物語の力が見えたとは思う。ソロモンは自分の曾祖母から四世代をかけた教育を施され、インターナショナルスクールに通い、アメリカの大学に学び、外資系の銀行に勤め、韓国も日本も「脱色」された存在になろうとしていたところで、結局はソロモンの信頼する人々もソロモンを「在日」というカテゴリで扱いたがり、そしてソロモンもまた自分自身をその期待から自らを切り離すことができず、そのカテゴリが究極的に所属してしまうことになるパチンコ業という運命を受け入れる。ヤンジンの世代からパチンコ玉のようにもがいてきたすべての命と人生が、パチンコ玉がパチンコ台の穴の中に静かに吸い込まれていくように収束していく様は、移民を経験するすべての人々が、そしてその中でもとりわけ日本という奇妙な国に住む韓国・朝鮮のアイデンティティを持つ人々が感じることになる一つの真理なのだろう。

 

3月は『パチンコ』を読み切った他にタレブ『身銭を切れ』を読んだがこちらは生活に根ざしたリスク感覚でかつリスクを取っていこうね、というなんということは無い本で、グレーバー『ブルシットジョブ』にも近いものが感じられたが、グレーバーがそれなりに理論を構築しようとしているのに対しこちらの本はどちらかというとエッセイじみていた。それが悪いことでは全くないのだが、私の期待とはずれてしまっていたので消化不良感が残った。

 

他、3月はあまり本も読めず美術館にも行けずだった。歌舞伎にも久々に行かなかったが玉三郎の隅田川は観に行けば良かったと後悔している。宮藤官九郎の『俺の家の話』がおもしろかったと母親から聞いて、うちにはテレビが無いのだが、「隅田川ってこれかー、ハーン。」という気持ちになりたかったところはある(クドカンのほうは能の一家の話と聞いているが)。宮藤官九郎は『あまちゃん』を観たのが最後だけど本当に話作りがうまいのでどこかの機会にまとめて観たいと思っている。

 

春はいつも、自分が頑張ろうと一念発起していた時期ーー具体的には大学入学時や、ゼミを決めたときなどーーを思い起こすので、そのとき思い描いていた人生と少しずれたところにいる現在の自分の有様を思い憂鬱だ。また新年度が始まる。

2月(幼少期の第六感と現在の日曜日の夜)

 いままでいろいろとこのブログでも労働についての文句を垂れてきたがそれでも労働は手を変え品を変え不愉快を私に与え続けてくるのだから凄まじい。そのあたりの話はまた別の機会に行うとして、そうして労働で血ののぼった頭を冷やすための読書、観劇の記録を先に。労働はあと。


ナボコフ文学講義 上(河出文庫)
 『ボヴァリー夫人』を読んだのでその理解を深めるためとして、序章の部分と該当の講義録の部分だけ読んだ。テキスト分析の文章を読むのは久しぶりだったわけだが、ボヴァリーが用いた対位法、構造的移行の説明は刺激的だった。これら二つは特に私が文章を書く際にも気にしていたことであり、すなわち物語内で発生する「視線の移り変わり」(視線というのは、物語という巨視的な意味でも、文字通り語り手の「めせん」という微視的な意味でもある)をいかに処理するか?また読者としていかに読むか?に対する答えの一つだった。このあとに読んだミン・ジン・リー『パチンコ』はかなりそれが下手なように思えたが(翻訳の問題かもしれないが)、いま読んでいるウルフ『灯台へ』は見事である。やはりフローベールの小説は文体から構造、物語までガチガチに作り込まれており私はその隙の無さが好きだ。ナボコフが連綿を指摘するプルースト、ジョイス、(+チェーホフ)も読もうと思うが(チェーホフは読んだことがある)、人生が足りないのが恐ろしい。


桜の園・三人姉妹(新潮文庫)
 恐ろしいことにこれは大学時代に文庫を買って、確か三人姉妹のほうだけを読んでそのまま積んでいたような。私の本棚にはこうした、大学時代(しかも上京したてて鼻息の荒かった大学一年生〜二年生時代)に買ってそのまま積んだままの本が多すぎて、「私は大学時代一体何を読んでいたのだ?」(なぜならこの本のように、ある程度の年代までに読んでいて当然、というような本も積まれた本の中に含まれているから)と目眩、頭痛がするのだが…。1月に読んでいた『ダブル』(小学館)で取り上げられていたので懐かしい気持ちになって半身浴中にちまちまと読んでいた。「桜の園」も「三人姉妹」も喜劇的な要素を含んだ悲劇、とは解説(池田健太郎)で指摘されているが、どちらもやはり根底には生きることに関する、可笑しいくらいの暗さがあり、その暗さが魅力的な物語だった。どちらかといえば「桜の園」が自分の好みで、桜の美しいイメージが最後に切り倒されていくさまなども巧みだった。
 またこれはいつもの私のしょうもない感想なのだが、「労働」は生活とは切り離せないものであるから生活の暗さについて書くチェーホフが労働についても徹底的に視線を投げかけていることが心にしみた。「ああ、不仕合せなあたし……。あたし働けないの、もう働くのは御免だわ。沢山だわ、もう沢山!電信係もしたし、今は市役所に勤めているけれど、回ってくる仕事が片っぱしから憎らしいの、ばかばかしいの。……あたしはもう二十四で、働きに出てからだいぶになるわ。おかげで、脳みそがカサカサになって、痩せるし、器量は落ちるし、老けてしまうし、それでいてなんにも、何ひとつ、心の満足というものがないの。時はどんどんたってゆく、そしてますます、ほんとうの美しい生活から、離れて行くような気がする。だんだん離れて行って、何か深い淵へでも沈んで行くような気がする。あたしはもう絶望だ。どうしてまだ生きてるのか、どうして自殺しなかったのか、われながらわからない……」(p230)。人間は何年経ってもこんなことばかり言っている。


眠り展/男性彫刻展(国立近代美術館)
 「眠り」にまつわる表現をあつめた展示。「眠り」というものに色々と仮託しすぎなのでは?と斜に構えないこともなかったが(「眠る人、目を閉じる人を描いた絵を前にすることは、私たちにこれまでの行動を振り返らせ、『新しい日常』をいかに構築し、その中でいかに生きることが可能かを考えるためのヒントをもたらすに違いない。」)。というわけで「眠り」という文脈自体に感心することはなかったが、出展作品はいくつか好きなものも見つけられ良いトレーニングになった。
・オディロン・ルドン「若き日のブッダ」(1905)
・海老原喜之助「姉妹ねむる」(1927)
・楢橋朝子「half awake and half asleep in the water」(2004)
 同時に開催していた男性彫刻もついでに見た。展示は、強い男/賢い男/弱い男とセクションが分かれており、それぞれの彫刻や絵画表現がまとめられていた。強い男という表象は労働が称賛された時代の理想形を知らしめるために作られた背景もあったようで、男性という肉体もまた、もちろん女性のそれほどではないにしろ、誰かにとっての抑圧として機能していた(いる)のだろう。またこれは私の告白だが、強い男セクションの肉体造形美は現代的基準に照らし合わせてもかなり美しく、あけすけに言ってしまえば性的に興奮するものであり、女性のヌード絵画が、古典的絵画と現代では位置づけられるものでさえもポルノ的機能を果たしていたのではないか、と指摘される昨今に思いを馳せると、やはり人間は自分の加害性については看過しがちなものだと反省しもした。
・和田三造
・白井雨山
・北村西望
・萩原守衛
・石井鶴三

 あとは、二月の歌舞伎座に行き、ミン・ジン・リーの『パチンコ』を読んだが、感想を書くほうが追いつかなかったので三月に書こうと思う。1日30分英語の勉強と文章を書く練習をしようと思っていたのだが仕事がめちゃめちゃであまり出来なかった。

 かつて『エースをねらえ』という漫画でお蝶夫人が「完璧な条件でプレイできることなど一度もないのに」というような趣旨のことを主人公・ひろみに諭していたことがあって、仕事もその通りだなと感じる。人が最悪、案件の内容が好きじゃない、労働時間が長すぎる、などなど。お蝶夫人がそれでもプレイするのは彼女が「テニスを愛する者」であるからで、一方私がそれでも仕事をするのは生活を愛する者であるからだ。生活への愛を実現できる労働量は常に吟味されるべきで、そのバランスがいびつになればどこかで精神が摩耗していくだろう。もしくは銀行口座の預金残高が。
 そんなことばかりを考えている日曜日の夜はいつもものかなしい。これは直接的には労働のせいではあるけど根本的には労働のせいではなく、つまり労働やら生活やら人生への感情が「不安」という感覚になって私を満たす。
 思えば、小さい頃はなんでもかんでも不安に感じていた。必ず自分に当たる雷、必ず家族を皆殺しにする地震、誰かも知らないのに私を殺そうとする幽霊、胸をベッドに押し付けたときだけに聴こえる恐竜の足音。そういう不安を感じるとき私は母がいる階下のリビングにまで降りておそろしい気持ちを吐露する。私の母はあまり母性的感情が無い人で(もちろん母性はあった)、そういう話はほとんど聞き流されていたものの、時折は自動車に私を乗せて、夜の田舎道をドライブしてくれた。夜の田舎道と言っても、私の田舎は工場で栄えた場所だったからそれなりの店があって、コンビニ、スーパー、チェーン店が光って立ち並ぶ中を車窓から眺めていると次第に疲労を感じ、それで寝られるようになるのだった。この幼少期の第六感と日曜日の夜の不安は感情として同じボックスに入っているようで、日曜日の不安を感じるととっさに、第六感をなだめてくれた母が会える距離にいないことを切なく思うなどもする。
 母はいないが、大人になるごとにわかったのは、不安という防衛本能はほとんど当たらない。雷は自分には当たらないし、地震は起こるときには起こるものだし、私には霊感は全く無いようだし、恐竜は何千年も前に死んだ。仕事もいつかは終わるし、別に失敗したって世界も社会も自分も終わらない。大人になるというのは不安に慣れることだし、まだその不安に慣れぬ幼い人たちをなだめられるようになることだ。それなのにこの日曜日の夜の不安に関してはいつまでも誰かに心臓を握られたかのように感情が暗くにじむばかりで、私はまだ十分大人であるわけでもないらしい。 

平凡な日曜日の終わりのなぐさみ

毎週末に「明日からの仕事がいやなんだ日記」(穂村弘のエッセイ集タイトルのぱくり)を書いていたらおもしろくは無くともそれなりの発見はある日記集になるかもしれないな。働き始めて数年になるけど毎年1ヶ月近い有給休暇を取っていたらすっかり労働との付き合い方が分からなくなり週に何度も通帳の預金残高を眺めるはめになっている。
土日の過ごし方もすっかり下手だ。ナボコフの『文学講義』を読み始めた。『ボヴァリー夫人』を今月読んだので、序章の部分(「良き読者と良き作家」)とその講義の分だけひとまず読もうと思っている。序章の部分の文章があまりにも美しいので興奮し、そして有り難い気持ちになる。肝心のボヴァリー夫人の講義の部分については、テクスト分析の読み方を思い出し懐かしい気持ちになりながら学生時代から時がかなり経ったせいか読んでいて精神的息切れがする。まあ一通り読むけれども。仕事ばかりしていると頭の使い方が偏ってくるので別の方向に拡張したいためにページを捲っている。といっても刺激を受け取る側のわたしの頭がなまけものなせいで講義本編についてはなかなか興奮作用がにじみ出ない。安いインターネットの動画・記事で興奮作用をちゅるっとすすりとる人生は自尊心(といっても怠惰なそれ)が許さないので本は常に机の上に積むなどはしているが。二月は読みたい本がたくさんある。ヴァージニア・ウルフ、須賀敦子、ユルスナール、…。
別の興奮作用候補としては観劇があって、二月の歌舞伎座についてはチケットが予約できたので一安心で心待ちにしている。歌舞伎の感想などもそろそろまとめて書かねばとこれも自尊心にせっつかれている。物を書くというのは興奮作用というより安心毛布のようなところがある。私はまがりなりにも文化の生産者側なのだから大丈夫だ、という、尊大でみじめったらしい、他者との距離の置き方の一つだ。もちろんこの文章も安いインターネットの記事の一つで、誰かの平凡な日曜日の終わりのなぐさみ程度にしかならないのだろうが。

一月

1月

仕事もなく暇だったのでこまめに本を読もうとした。働いているときに比べればよく読むことができたが想定より進まず。といっても私という人間のキャパシティはこれくらいなのかも、と思って許してはいる。以下、本、映画、観劇、美術展について観た順。

壇浦兜軍記 阿古屋

これ
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E%E5%90%8D%E4%BD%9C%E6%92%B0-%E5%A3%87%E6%B5%A6%E5%85%9C%E8%BB%8D%E8%A8%98-%E9%98%BF%E5%8F%A4%E5%B1%8B-DVD-%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E/dp/B000JVSVKG

今年は歌舞伎に詳しくなろうと思い、2020年からちまちま観劇をはじめていたのだが2020年12月歌舞伎座公演の日本振袖始大蛇退治の玉三郎が非常に良かったので、年も改まってめでてえことだし、新年明けて和楽器の演奏を聴くのもよかろうと思い年末にDVDで購入。むか〜しに若手が阿古屋をやったのをどこかで観たことがあったがどうも演奏がいまいちで、複数の楽器を披露しなければならないし大変だろうなあとは思っていたが、こちらの玉三郎はさすがだった。そもそもほんとうにお綺麗だし、演奏もすばらしく情感がにじみ出て、着物も素敵でうっとりと夢心地だった。秩父庄司重忠を中村梅玉、岩永左衛門を勘三郎がやっているのだが、教養と人情に裏打ちされた懐の深さを顔の表情一つで見せる梅玉、勘三郎の「人形振り」の徹底した人形らしさと滑稽み、と非の打ち所がなくいわゆる「神回」のDVDだった。二月も玉三郎が歌舞伎座に出るというので漏れなくチケットを買おうと思っている。

JR上野駅公園口

全米図書館賞受賞ということで新年一発目の読書だった。東京とその周辺、中央と地方、福祉と共同体、というような複数の対立軸が「ホームレス」という事象に集約される。原武史の解説含め面白く読んだし日本社会にまさに「切り込んで」いる話だった。一方で、小説として物語的愉悦さはいまいち感じられない。この間友人と、やはり小説を名乗る以上読み手をどきどきさせるものでなければならないのでは、という話をしたばかりだったので気になった。

ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論

ブルシットジョブの発生の根源的な理由は人間の集合の膨張にあるのではないか?つまり、ケアリング(に準ずる仕事)を提供する際に、それが同一人物によって遂行されるのではなく異なる複数人で提供されなければならない場合、フォーマットは(コンピュータが認識できる程度に)平準化されたものでならず、平準化するために、かつ元の姿形もなく平準化されたものを行うためにブルシットジョブは生成される。近頃、何もかも全てが人間にとっては早すぎたのではないかと思うことがある。SNSはもちろん、国民国家も、民主主義も、人が集って暮らすことも。それがアメリカ民主主義の状況で、パンデミックに対する日本政府の動きに顕れているようで。

蟹工船 一九二八・三・一五

『ブルシット・ジョブ』も読んだし『人新生の資本論』も読んだし、資本主義をどこまでも嘲笑ってやるケケケと思っていたのだが蟹工船は「ブラック企業」という事象を超えてただただ人権が無い使い捨ての存在として労働者が扱われており、(こういう表現が人類の進歩に全く寄与せずむしろ後退を誘発しかねないことは重々承知なのだが)「あっ、まだマシかも」と素直に思ってしまった。文学を自分の感情の出口として使い倒す読書――つまり自分の状況を文章内に見出し共感を求めるだけの読書はあまり健全ではないのだろう。自分の感情は自分の文章として、自分で整理すべきだった。

直接は関係無いが、労働に関する一連の書籍を読み、重ねてそれらへの書評やコメントなどに目を通していると「資本主義」「企業」「組織」「過労」というのは同じ事象かもしれないが概念としては違うような気がする。その区分けもなされないままの議論が多く、インターネット特有の言い争いにつながっていることが観測された。

ブックスマート(オリヴィア・ワイルド、2019年)

非常に楽しく青春群像劇として良い映画ということはさておき。映画の小道具的に思想が使われることに辟易とした。つまり、主人公の部屋に”A Room of One’s Own”と書いてあったり、自分の外見を卑下する主人公にその親友が平手打ちをかまし、「私のゴージャスな友人にそんな酷いこと言わないでよ!」と言ったり、…、いくらなんでもそんなんしなくない?「21世紀のPCに着いていけてますよ、私」というアピールが映画のストーリーから油のように浮いていて目についた。例えば2020年に大流行したらしい『愛の不時着』はおそらく30代の女性主人公が、「結婚もせず」「社長として企業・韓国社会をリードするほどに働いている」ことについてストーリー上、何の言及も(確か)なく、それらが映画の空気の一部として透明に描かれていたことが称賛の一つにあった。もしここでそれぞれに関する主張が小道具的に立ち現れるなら、それらの思想がひどく目立って逆にうさんくささを覚えてしまっただろう。女性、若者、そういった存在が今度当然に身を置く新しい時代について、それぞれの存在意義がいちいち小道具やセリフを用いて主張されるものではなく、自然に画面にあってしまう作品がもっと増えれば良いなと願っている。

最後の主人公のスピーチで、「私はあなたたちが怖かった…」と告げるところは映画中ずっと気が張っていた(そして上記の通り、存在自体がPCの小道具にされていた)主人公のはじめての本音でさわやかに心に残った。

ダンサー・イン・ザ・ダーク(ラース・フォン・トリアー、2000年)

ラース・フォン・トリアーは「ニンフォマニアック」を観ていた。これは1も2も観ており、2は単純なポルノだと思ったが、1はそれなりに好みだったかなと記憶している。「ニンフォマニアック」に続き、この作品も女性をまさしく痛めつける描写に長けているな…と憂鬱になった。ラース・フォン・トリアー自身、セクシャルハラスメント問題があるので彼自身の最悪の性癖とこの映画の描写に繋がりがあるのだと思うと気色悪いが。サディスティック的描写は置いておきつつも、たとえば主人公の空想のミュージカルシーンも一貫して幽霊的な薄気味悪さがありどこを切り取っても辛い映画だった。

記憶にございません!(三谷幸喜、2019年)

三谷幸喜ってこんなに痛々しい脚本書いてたっけ…。ギャグもずっと滑ってるし政治の描写について厚みはあまり無い。勧善懲悪的ではあるのでそれは観てて気持ち良いのかもしれないが。

独学大全

東大の書籍部で非常に売れているらしいと聞いたが本当だろうか?確かめようはないが。東大だけでなく優秀な学生はここに書かれていることを、息を吸うように吐くように幼少期からトレーニングされているものだが、優秀な学生でなく且つただ「もうちょっとなんとかやれたのではないか」と未練のある会社員にとっては、改めて「研究のためのツール」を提示してくれる書であるため魅力的なのではないかと思う。

ただ、「方法論」ではなくあくまでも「ツール」で一つ一つのツールをビュッフェ的に組み合わせるだけでは機能しないと(曲りなりの大学院生活を経て)直感的に思うところではある。ツールの有機的連合、という部分にもつながるのだが、「調べ物」にしろ「研究」にしろやはり「問い」を立てるところが肝要であり、その点については本書では触れられていないのだ。「問い」は「わからない」部分とは微妙に異なり、つまり、自分が知らず、かつ世界も知らず、しかし知れたら世界にとって有益でありかつおもしろいこと、を語るための踏み台のことであると私は思っているが、ここが欠如していると人は研究を進めることができないし、論文を書くこともできない。その「独学」が行き着く先は「調べ学習」というどん詰まりだ。もちろん、「問い」を立てる力とは読み、書き、のトレーニングの中で徐々に形成されていくもので、理由をつけて立ち止まってしまうことが一番の悪手なのだが。私は学究の世界に未練がありありと恥ずかしげもなく残っているが、この力を身につける鍛錬をさぼりつづけているので、いつまでたってもツイッターのリロードを繰り返しながら隣の世界を「いいなあいいなあ」と眺めている会社員のままである。

石岡瑛子「血が、汗が、涙がデザインできるか」(東京都現代美術館)

この表題は石岡の発言の引用なのだけど、そもそもこの言葉が格好良すぎるよね。特に前半のグラフィックデザインの特集が良かった。資生堂時代の仕事は才能が爛々と輝くようで最初から度肝を抜かれた気分。後半の舞台芸術のパートはあまり好みではなかったが…。グラフィックデザインについては私はあまり明るく無いはずなのだが、1970年代、グラフィックデザイン、と言われて平均的に思い浮かべるもののベースに石岡的な要素があるのかもしれないと彼女の作品を見ながら思った。デザインに疎い人間の頭にも刷り込まれるほどに普遍的な部分を作った人なのだなあ。

黒執事

全巻無料だったので、途中で挫折していた分から最新30巻まで読み進めた。私は例の展開を全然知らなかったので楽しんで読んだ。ちなみに黒執事は連載から10年以上経っているらしいのだが、ここからまた使用人一人ひとりのエピソードが始まっていくらしくこれもまた長引きそうだなとやや疲労感。もう使用人のエピソードってだいぶ前にやったことない?

琳派と印象派(アーティゾン美術館)

なぜ琳派と印象派の組み合わせなのだ…と奇妙に思った。展示のキャプションには「大都市における洗練された美意識」の検討のためと書かれていたがそれだけで繋ぎ止められるほど密接な要素なのか?もちろん印象派の多くの画家が日本文化に影響されたことは言うまでもないが、それは取り上げる話題としてはすでに平凡すぎるように思うし実際この展示でもそれほど強調されていたわけではなかったし。

作品はそれぞれ非常によく見応えがあった。特に俵屋宗達の蔦の細道図屏風は躍動感が、堺同一の松島図屏風は大胆な波の中に見える繊細な筆の運びが気に入った。

キュレーションについては上記のような疑問は残ったものの、それぞれの流派の説明や絵画的特異点の説明、比較検討など見せ方は工夫されていたので勉強になった。また、時間がなく駆け足になってしまったのだが、常設の作品も充実していたので東京駅周辺に行くときにはふらっと立ち寄りたい。

ボヴァリー夫人

エミリー・ラタコウスキーがVogueの73 Questionsの番組
https://www.youtube.com/watch?v=YAk_SNu1QNk&ab_channel=Vogueでボヴァリー夫人について触れていてボヴァリー夫人という女性の像がずっと心に残っていたので図書館で見かけたときに読むことにした。フランス小説については、高校のときの教師が「情景描写が徹底的なのがフランス小説の特徴で(読みづらい)」などと通り一遍のことを言っていて、その妥当性はともかく、その印象のまま大学に入って『赤と黒』『感情教育』…あたりは読んでいた。加えてサガン、…多分その他諸々記憶に残っていないもの。サガンは非常に好きだったがいわゆる19世紀の文学にどこまで没入できたかというとその時はぼちぼちかな、という程度だったのだが、今回の『ボヴァリー夫人』は物語としての面白さも含め、人間の感情の“転向”(特に恋心のそれ)、“転向”の際の描写の正直さ、物語と感情を反映した情景…とすべて感激的に読み進めた。どこを切り取っても興奮しすぎるほどに充実した文章が続いていき退屈せず、読みづらさからは程遠い読書体験だった。女性が不倫し、惑わされ、狂い、倦み、死を希う、というのは『アンナ・カレーニナ』に続く典型で、恋や愛にまつわる感情に関してこうした舞台装置が用意されているのは、特にその舞台装置が既婚女性という性・身体を通しているという点で、どこか因縁をつけたくなる気がしないわけではないが(その既婚女性の像はしばしば、滑稽で物分りの良すぎる夫によって補強される)。もちろん時代や、この舞台装置であるがゆえの小説的面白さは理解しているので、同一のテーマを別の設定で描くような物語小説が生まれるとよいな、というくらいの気持ち。

ダブル

友人に勧められ、最新3巻まで。鴨島・宝田双方の話が同じ質量で展開していく点がおもしろい。読書前の私の予想としては、鴨島のメンタルくそみそ話か、映画Whiplash(邦題「セッション」:作中に出てくる黒津監督の造形がフレッチャーのもろオマージュだったので笑ってしまった。「フェラチオ」とか言う言動も)のような宝田自立のスパルタ教育話になるのかと思っていたが、二人の人間関係が変化しながら、二人の俳優としての技量も一進一退しながら、線的ではなく曲線的に描写されていく話だった。

ただ鴨島の「女房」と言わんばかりの滅私奉公ぶりは表象としてやや不気味で、宝田の才能に惹かれた以上の説明があってもよいのではないかと思う。既刊3巻の続きはどこかの漫画アプリで読めたが、本作表題の「ダブル」と同じ名前の公演の準備のシーンなのであと1, 2巻で完結するのかな。

 

1月はあと1週間を残すが、来週から忙しくなると言われているし土日以外はあまりぷらぷら遊んだりは出来ないだろうな。なんとか適度に仕事をさぼりつつぷらぷらできるようにしたい。

もはや懐かしい舌触り

今年は映画をよく観た。本でも美術展でもなく映画だった。年のはじめは「パラサイト」('19)の公開もあって韓国映画のおもしろさを知ってあわせて15作品ほど韓国作品を観たと思う。パク・チャヌクの「オールドボーイ」('03)、同じくパク・チャヌクの「JSA」、ユン・ジョンビンの「ブラックビーナス」あたりは非常に印象に残って、エンタメと政治・社会風刺と芸術性のバランスのとれた作品を知ることができた。映画はほとんどNetflixで観て、映画館で観たものは少なかった。マシュー・ボーンの「ロミオとジュリエット」を恵比寿で観たのと、グザヴィエ・ドランの「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」をギンレイホールで観たくらい。

本はそれほど読まなかったが、ドストエフスキー『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』を再読した。年を追うごとに体の奥へ奥へと文章・物語が入り込んでいく。ただ『カラマーゾフの兄弟』も『地下室の手記』も”罪深い女”的な存在に救いの先を求めているようで気分が悪かったがこのあたりはもう少し慎重に読み込む必要があるのかもしれない。

漫画はよく読んだ。漫画と小説を対峙させることはもう古臭いしぐさなのかもしれないが…『チェンソーマン』は流行りに便乗して読んだが映画的なコマ割りが印象的だった。モノローグが極端に少ないことも読みやすさを生んでいた。『鬼滅の刃』『呪術廻戦』なども便乗したがこちらは主人公のひねくれ度合いがゼロに近くあまり共感出来なかった。私は『ワンピース』より『NARUTO』が好きなタイプの人間らしい。『NARUTO』も思い出して漫画喫茶で途中まで読んだがとりわけ後半は存外話が難しくこれは当時の少年少女はついていけたんだろうか?

美術展がそれほど行けなかったのが悔やまれる。来年1月で閉館する原美術館の展示ももたもたしていたら予約枠が埋まってしまっている。一方で今年は国内旅行をよくしたので(広島、青森、長野)、その土地の美術館の常設などを見ることが出来て幅が広がった(ような気がする。実際は頭に入っていないので駄目)。

ツイッターなどでこうやって1年を振り返っている人を見かけるとつい「年末がなんぼのもんじゃい」と斜に構えてしまう向きもなくはないが、我々は素手で山を登れるほど才覚に恵まれている側の人間でもないから、登山のときハーケンを打ち込むように区切り区切りでしっかり自分の記憶に自分のなしたことを刻んでいかなければ生きた心地がしないのだ。

 

終末・2020年

年内の仕事を終わらせたり、今年の頭に会ったきり会えずにいた人に会ったり、あとは部屋の片付けと冷蔵庫の掃除を終わらせてしまえばまた1年が終わりだ。

今年の年末年始の帰省は感染症の流行もあって取りやめた。母がお節を作って送ってくれるらしい。年末年始の混み合う配送網をくぐりぬけて無事届いてくれるように願う。ここ数年は実家に帰っても私が正月の準備をほとんど行っていたので一人暮らしでも再現できると思っている。インターネットのおかげで「おせちがそれほどおいしいとは思わない」という声を見ることができるようになったが、私はそれでもおせちが比較的おいしい食べ物だと思うタイプの人間で、母が送ってくれたおせちをきっと律儀にきれいに並べて食べるのだろう。雑煮だけは自分で作ったことがなかったが難しいこともなかろう。母がいつも作る味噌仕立てのものではなく今年は東京風の醤油味のものにしてみたいと思う。雑煮で自分の自立を知る。

明日から東京は寒波襲来とのことで、冷えた透き通った冬の空気に出汁と石油ストーブの匂いが馴染む正月の日が待ち遠しい。

一年の反省なり抱負なりはまたの機会に書くこととして。