読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

たかが世界の終わり

ある男が十二年も戻ってなかった実家に帰ってそこで過ごす話。なんで十二年も戻ってなかったかというのは冒頭に明かされるしトレーラーでも流されるからそこまで重要なネタバレでもないのかもしれないけど、もしかして全く前情報なしで観たほうがおもしろいのかもしれない。
とにかく、言葉、言葉の暴力よ言葉、字幕でも予告でも日本版ポスターでも「不器用」という語がつかわれるけれど不器用って日本語はなんとなしにださいよね、けれどもまあそうとしか言いようのない言葉の暴力にちょっと疲れる。なんどか目をつむってよーしらんフランス語の響きだけを聞いていた。けれども着実に緊迫していく雰囲気が張りつめて爆発し、収束し、映画は終わる。夕陽が収束を祝い、男は帽子を被る。言いたいことなんかどうせ一つも言えへんのや。たかが、世界の終わりに過ぎないのだし。

私はものすごくぐっときてしまったわけだが、でも感動を求めてみる感じでは全くないぞ、とにかく疲弊する映画だし、Varietyなんかは” a frequently excruciating dramatic experience”と言っていたくらいだし、演出も脚本も過剰だと思うことは多かったししかしその過剰さがリアリティなのであってすなわち根本的には苦しい映画だと思う。でもたぶん日常のなかに苦しさを見出したり取り入れたりすることは想像力のためにも必要なのであって。私は夕陽の中の男の帽子をずっとずっと思い出すだろう。どうでもいいけどギャスパーウリエルが昔に関係をこじらせた男に似すぎでつらかった!

下着の一生

二年間か三年間、使っていた下着がだめになってしまったので捨てた。鋏で切って(転用防止のためだ)、いつも使う香水をふりかけ、白い紙でつつみ、「いままでほんとうにありがとう いろいろあったな ほんまにありがとう」と言った。まじで口に出して言った。宗教かい。それから不透明のビニル袋に入れて、いまから捨てる。

 

そういえばこの下着ははじめてのバイトのお給料で買った下着。この下着を買ってから一年くらいはまじでなんもなかったんだけど、逆に言えば二年目以降はいろいろあった。男に会って、大事だと思って、けど事情により別れて、ほんでそれからこの下着もしらんくらいたくさんの男と寝た。きょう捨てる下着はその大事だと思った男との数少ない逢瀬のなか、二回も見せた下着なんだった。かといって別に格別のお気に入りというわけではなく、ベーシックやし二度見せるならこれかなあくらいで二回目を迎えただけやったんやけど(そのときには、もうほかの下着が二回以上その男に見られることはないだろうことはわかっていたのだ)。

そういうわけで一応は思い出深い下着だったから、捨てるかどうかはなんとなくだいぶ迷ったけど長いこと使っていたこともあって毛玉が目立ちはじめていて、なんとなくのよれもできていたし、その男とのはじめての逢瀬で使った下着はまた別のやつやったから、ええか、となった。下着一着捨てるのに昔の男の思い出にめためたにされる、わたしの精神の弱さよ。

 

男の逢瀬への準備はいつもやることてんこもりなのであって。化粧を落として、シャワーを浴びて、サボンのスクラブで肌を磨き、男が舐めても死なぬ程度にボディークリームを塗り、下着を選び、化粧をし、香水をかけ。

 

下着、男の人のなかではよう見る人と見やん人に分かれる。見る人はじろじろ見るし感想も言ってくれるしつけたまますることもある。見やん人はぺろっと剝がされて終わりなんだけど。ああその男は前者やったのう。はじめて見せた下着に、「お花がいっぱい」とかアホみたいな感想言ってましたねえ。はじめて見せたTバック、つけたままして、コンドーム、やぶけましたねえ。などと思い出すことで重ねてセンチメンタル。見る男も見ない男もおるけれども、しかしわたしにとって下着は常に100パーセント、逢う男を想って、選んで、それが積もった灰のように薄暗いけれども確実な過去。

 

さよなら下着、おまえのしらん私の人生がはじまるし、おまえも男もいまは私にはおらんけど元気、奇遇にもきょうは海外から頼んだ新しい下着が届く日やし。この新しい下着を、私は誰を想ってどんな人生を願って、履くんやろねえ。

えーんえんとくちから

私は去年の今頃くらいから男関係が急にだらしなくなって、だらしなくなったがゆえにいろいろ苦しむことがあって(具体的には性的悪縁特有の、好きだの好かれてないだの、そういうこと)時間を浪費することもあったんだけど、最後の一人だった悪縁に恋人ができそうだということでその最後の一本もようやくぷっつり切れた。バレンタイン三日前の出来事。

私は二年前の今頃くらいからデパート催事場のバレンタインチョコレート売り場のアルバイトをしていたのだけれどそれも今年は従事しておらず、チョコレートを売ることも、愛を捧ぐことも、二月十四日に向かって真剣なまなざしが飛び交うことも、私には人間どもの素振りの集合体のように見えてくる。

言いたいことはいろいろある。やっぱり私のことはアレだったんだねソレだったんだね。いや、そうじゃないよ。いや、そんなことは言わなくていい。ありがとうって言えばいいごめんねって言えばいい? ごめんねのほうが多分いい。でも、勘違いしないでよ。私も多分、あなたの性行為が好きだったから、あなたのことが好きだった。あなたの想像するようなロマンスはこちら側にもなく、それってつまりシャドーボクシング、最後まで意思は不疎通。

しかし、気分も沈むばかりかと言えばそうでもなく、変な高揚感も確かに私を引っ張り上げている。いままで彼らに甘えて考えてこなかったこと、やってこなかったことをやりたい気持ちに満ちている。沼から上がって私はシャワーを浴びている。

 

このだらしない関係は二つの意味で私を沼に巻き込んだ。

一。肉体関係を持つことによる、どうしようもない、恋愛、恋慕、詩情の変化。

私は、だらしない男関係はすべて自分で選択したものだと思っていた。友人に「大切にされてない人間関係にどうしてすがるの」となんども怒られたが、「大切にされていない人間関係」を望んだのは私自身だからその批判は的外れだし、「すがる」のは目的じゃなくて手段のうちに発生したちょっとした事故だった。ヒューマンエラーってやつ。もちろん、毎度事故を起こしていたので要するにそういう関係は私には向いていないということがよくわかったんだけれどね。

二。人間関係を持つことによる、無意識的な甘え。怠惰。看過。

けれど、自分で選択した、ただそれだけで、その選択が、自分にとって良いことであるかどうかというのは定かなものではないらしい。身軽になったからだで次の予定のことを考えると、私は“男性諸君に逢う”という物理的時間の拘束だけでなく、逢う以外の時間でもいろいろこの関係に抑圧されて行動が制限されていたっぽい。「今日、逢えるかな?」「ライン来てるかな?」とかそういう甘い思索のための時間だけのことを言っているんじゃない。「これはあの人に教えてもらおう」とか、「あの人にこう思われるためにこうしよう」とか、そういう空想、つまり、人間関係があるということに甘えて自分による自分のための自分の努力を怠っていた、という点で自分が自分に抑圧をかましていた、ということにはっきりと気づいたのだ。

悪縁たちの中には英語を話す人もいた。だからまあ、英会話教室は通わなくていっか。

悪縁たちの中には私のSNSを知っている人もいた。だから、その人にかわいく思われるような写真でも撮っておこうかな。

みたいなね。(アホか!)

 

こう書いていると本当に、ほんっっっっとうにくだらないけど、事実、本当にそういう思考に陥っていたのだ。恋愛的な意味でも人間の成長としての意味でも、ほんとうに私は泥沼のなかにいたなあというのがありありと思い起こされて私の目はようやく覚め、いままで怠ってきたことをいまばりばりと進めている。ありがちで本当に恥ずかしいんだけど、大切なもの、大切にしたいものがはっきりと目でわかるようになって、要するに…断捨離はじめちゃった///。 

 

でもきっと、ある人間関係があるから私は何もしなくてダイジョーブイ/これをしないとチョーヤバイ、って思ってる人、人間関係によって自分の選択、生活、人生が抑圧されている人、けっこういっぱいいるんだろうな、とも思う。その人間関係が良性であれ悪性であれ、自分の人生は自分の人生だもの。そういう無意識な抑圧、コントロールに意識的でありたいしそれらに対して中指を突き立てていきたいよね。

 

私がかかわってきた男性みんなについていろいろぐちりたいことはある。確実にあと三か月は私のことは恋人にしてくれなかった男性についてうじうじ悩んだり泣いたりもするわ。絶対する。するだろうけど、でも、大丈夫な部分もある。大丈夫な部分を大事にしていきたい気持ちもある。その大丈夫な部分が、きれいな砂浜にきれいな波がかかるように、さあっと広がっていけばいい。押しては戻り、引いては満ちる。そんなことを思った、二〇一七年もはじまったばかりの二月。バレンタイン二日前。

 

 

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

(笹井宏之『笹井宏之作品集 えーえんとくちから』)

まだ期待してんでしょ!

「女にとって、二十四歳とは残酷な季節だ。」というフレーズからはじまる小説を書こうとしている。そういうのをブログで先に書いちゃうのってどうなのんとでも思わんでもないけれども、まあ川上未映子の前例もあることだし何より私は平成ちゃん、自由な発信自由な応答を餌に生きている。

女にとって、二十四歳とは残酷な季節だ、と思った理由はほかにもいろいろあるんだけれども、そのうちの一つが恋愛だ。最近折よく私のところにも色恋が沙汰って、一通りの沙汰を終えると二十四歳っていろいろ恋愛的にも過渡期なんだなあと思い始めた。それが「まだ期待してんでしょ」ということである。これ、みんな気付いてるんだか気付いてないんだかわかんないんだけど、意外とみんな、学生ちっくな恋愛をまだ期待してんだなあということだ。

学生ちっくな恋愛、というのは、こちらの何の努力もなく異性とマッチングされて、しかも他の比較対象の異性も多くいて、それが自然に行われるなかでなんとなく話が合い、話が進んでいくなかで「好き」という感情を覚え、告白して、交際関係に至る、という一連の流れを踏む恋愛だ。

この学生ちっくな恋愛は、故意というのが存在しない。もしくは発生させずに済む。言わずとも、異性が多くいる環境に放り込まれるのだし、宣言しなくても席替えはなされるし、努力せずとも彼らとなんらかのかたちで腰を据えて話すことができるのである。こういう、学生ちっくな恋愛に馴染んできた人にとって、二十四歳という学生から社会人への過渡期の恋愛は非常にめんどうなものになってくる。

つまり、学生という身分を離れ恋愛をする場合は、なんかしらこちらから能動的に動かなくてはならない。異性が多くいる環境にいかなきゃいけないし、比較するためには席替えしよう!と言わなきゃいけないし、真剣な話をするまでの間柄にはなりにくいし、そもそも共通の話題も無さそうだし、あったとしてもこんなに真剣に話しちゃって引かれないか?とか思っちゃうのも無邪気ではいられない二十四歳というか。つまりいままで自然が(というか学校と先生が)やってくれてきたことを、ぜーんぶ自力でやらなきゃいけなくなってくる。(学校というシステムが恋愛市場においてめちゃくちゃ重要なファクターとしてはたらくっていうの、おもしろくないっすか?)無論、会社という場所はそれに近い空間なのかもしれないけれど、一歩先に社会人になった友人の話を聞くとどうも同僚には恋愛感情が芽生えにくいとか、別れたあとのことを考えると仕事が滞るとか、そもそも同期がいないとかで、なかなかまるっきり同じシステムというわけにはいかないっぽい。

こういう恋愛をまだ期待している二十代前半の若者にとって、合コンというのはなんとなく作為のはたらく場所でなんとなく好ましくない。昨今流行っているけれどマッチングサイトなんてもってのほか。相席居酒屋とか哀惜居酒屋でしょとか普通に思う。そうして、自然のなりゆきによって与えられる(というかほとんど与えられない)「出会い」を目の前に、「出会いが少ない」と嘆いたりする。

否!違う!二十過ぎれば出会いなんてあると思わないほうがいいというのが結論なのである。自然にたくさん異性と「出会える」場を期待するのは、大学四年で終わりにしといたほうがいい。大学を卒業し、社会に出る頃には、もし恋愛したいのならば(もし、の話だが)、自分から動かなくてはならないんである。あくまでもし、の話ではある。けれどなんというか周りを見ていると、もう学生ちっくな恋愛なんてできないのにそれを期待しすぎるあまり恋愛したいのにこじらせてそれを愚痴って人から嫌われるという最悪のサイクルに突入している人間が多いような気がする。

もうね、ないない、すてきな出会いとかない、あるかもしれないけど、いま無くていま欲しいんだったら出会い系なり哀惜居酒屋なりFBでメッセするなりしなきゃ愚痴ったってしゃーない。まだ期待してんでしょ、しちゃだめだめ、たぶん、自分にだって他人にだって期待はあんまりしないほうが幸せ、期待しないということは自分でがんばって努力する、ということだしね。

 

というわけで(どういうわけで?)私も某マッチングサイトを使っていろいろな経験をさせてもらったのですけれど。(これは、本当に、いろいろ、経験、した。)

 

私はもともと恋愛へのポテンシャルが酷く低い女で、恋愛するなら勉強したほうがいいって本気で思っていた人間、というか、人間の本性である真善美を高められないような恋愛なら恋愛とは呼ばないと思っていた最悪の恋愛観こじらせ女だったんですけれど、振り返ってから言えば、一、恋愛というのはどんな形にも変化し得る。人間の本性である真善美を高めるとは言えないまでも、自分の知見を拡げる関係に発展することは(たぶん)多々ある。二、それでもやっぱり恋愛はしょーないから勉強したほうがいい。くらいの二点くらいを思った。あと男性の行動心理の不思議!私はいまだに、男性というのは性欲100%で動いていると思っているんだけど、そうでもないの?とか、そうでもないんだなあ、とか感じることも多々あった。

 

とかなんなり。

期待するのをやめて自分から恋愛的アクションを起こすようにはなっていろいろ知ることも多く、またこの年になってまともに異性と向き合うということをして面白かったりしんどかったりはする。それが正しいことなのか、はたまた人生なのかはよくわかんないけどね。

映画『キャロル』

“How many times have you been in love?”

いい加減、芸術作品に都合のいい自己投影をするのをやめたい。

愛とは何か?私は、というより誰でも、各個人の愛の理想というものを作り上げている。出会い方、恋し方、過程に何がなければいけないか、何を共有しなければならないか。そういった、愛の製造方法。そうして自分のなかで形成したその理想のステップを着実に踏んでいなければ愛ではないような気さえする。この二人にとって愛とは何か?交わされるのは言葉ではなく視線であり、あるのは理屈ではなく事実である。これは私にとって愛ではないし愛の説明になってくれない。それでも二人の間に確実に芽生えていくものに心の奥底で震えた。私もこれがいい。天から落ちてきたようなその人を捉え離さずにいたこと。肌を重ね合わせることの必然。混濁する嫉妬。愛は生き物。醜い生き物ではないはずの私たち。”I love you”の力強さ。刹那など意味をなさずそれは孤独を感じさせるものでしかないこと。キャロル。


私もこれがいい

来ない連絡にいつまで縛られているつもりだろう。なぜ来ないのだろうと悔しく、正直に言えば悲しく、思うことはあれど。感情は時間の中に生起する。時間を共有する相手を厳密に選択するのがよい。この映画のどの部分に自分が憧れたのかわからないが、それは愛自体というよりも気高く生き正しい道を選ぶことにであるように思う。広げた鎖骨の、堂々とした尊さ。それをしってから、肌にふれて。

映画『怒り』と小説『怒り』

 映画『怒り』が第四十回(2017年)日本アカデミー賞優秀賞の作品のうちの一つに選ばれたとのこと。あまり映画を見ない私だったけれどこの作品は吉田修一原作ということで、小説を読んだ上で映画を見に行っていた。感想も記していたので記録ついでに残す。映画の感想としては、ドラマチックに彩りすぎていた、というのが第一印象であった。

 

 舞台の幅広さ、一級の役者たち(特に中年男性の情けない腹を惜しげもなく見せる渡辺謙、ゲイだけではなく広告代理店勤めの独身男性というキャラクターもさりげなく演じられる妻夫木聡、横顔のきれいな松山ケンイチ(?)あたりは強く印象に残る)、坂本龍一の音楽、とも揃えばドラマチックにならないわけがない。ただ、本作においてはそのドラマチックを差し込む演出が過剰であるように感じた。とりわけ音楽の用い方には鑑賞者を非常に疲れさせるところがある。最初から最後まで切れ目なく流れ、クライマックスのシーンでは台詞の音声を消してまで大音量で鳴り響く。重いテーマであることとは別に、劇場を満たす音楽が頭まで窒息させようとする。

 私は映画に明るくないから、どこまで音楽を使うべきか、果ては、どこまでドラマチックにしていいか、という作法をよく知らない。ややもすると適切であったのかもしれないが、それでもわたしが本作の過剰なドラマチック性に違和感を覚えるのはやはり原作を先に読んでしまったからであろう。

 映画のコピーライトは、「愛した人は、殺人犯なのか?それでも、あなたを信じたい。」とある。ここらへんから、小説と代理店節が炸裂した映画がすこしずつ食い違っていて(まあもちろん小説と映画とプロモーションは別の話なんだけど。ともかく)、すくなくとも小説はこのコピーライトにあるような、愛と信じること、というわかりやすい劇的な話というよりも、もう少し人間の弱さについて書かれた滑稽な話であると評価したほうがいいと私としては考えるからだ。

 

『怒り』における「愛」

 小説の登場人物は、三人の容疑者に合わせて三グループ作られる。千葉の愛子と田代(と愛子の父)、東京の優馬と直人(と優馬の母)、沖縄の泉と田中(と泉の母)。それぞれのグループの二者の関係が進んでいくにつれて、愛することだとか信じることだとかといった話に絡んでいくと受け取られているようだが、それは誤解である。むしろ、この物語において愛することというのは、これらグループ内の主人公(愛子、優馬、泉)と上記カッコでくくった人びと(愛子の父、優馬の母、泉の母)の間に発生していたものである。歌舞伎町で働かせる愛子を迎えに行きながらも、何もしない父として自分を責める愛子の父、ホスピスにいる母にいやいやながらも看病に通う優馬。男にだらしがない母にそれでもついていく泉。親子関係というわかりやすい補助線によって、この愛は存在している。『怒り』という物語において「愛」を語るならば、それは家族愛において顕著に表現されているものである。

 

幻想としての「愛」

 では肝心の田代、直人、田中とそれぞれの主人公との関係はなんなのか?それは信と不信の往来関係である。偽名、空き巣事件、勤務態度という要素は、容疑者たちに疑いの目を向けさせる。しかし、偶発的ではあれ築いてしまった関係に人はすがりたがる。一方で、殺人事件という着火剤が、さらにその葛藤を激しいものにしていく。結果的に葛藤は一つ(真犯人)を除き、愛なるものに向かって着地するわけであるが、はじまったばかりのこのささやかな感情を愛と名付けるのは気が早い。けっきょく、この映画のメインとなるのは、信と不信を行き来することにより、そこに愛という幻想を見出していく過程なのである。

 

ショートコント・「愛」

 つまり、ぽっと出会った人たちのことを勝手に信じようとして、勝手に裏切られた気になって、それでも信じようとする主人公(とその周りの人間たち)のことを、読者はげらげらと笑うべきなのである。この作品のテーマは「愛」なのではなく、「ショートコント・「愛」」とも言うべきものである。もしくは、そうした人間感情の独りよがりの真実さを嗤うべきなのかもしれない。

 小説はこの感情の揺れ動きの滑稽さを、淡々と描く。激しい感情は似つかわしくない。その激しい感情を説明しようとすること、それに没頭しようとすることはなおさらだ。山神の「怒」がけっきょく説明されないところにも、この物語がいかに説明不能な感情に対して寛容であるかを示す。読者は淡々とした描写を外から冷徹に見、そして愛というものがいかに嘘っぱちであり、そして嘘っぱちであるからこそ、人をそれにすがりたくさせる力を持ち得ることを認識するのである。

 映画は、映画として華やかに見せられるところ(たとえばゲイの描写もそうだ。性描写がやたらと生々しいのは構わないが、小説の雰囲気とはまた違ったものを作り出してしまったように思う)を拡大しつくした結果、この小説が本来もっていた淡々としたやるせない感情を奪い取り、観る者を本当に「ショートコント・「愛」」の激しい幻想の中に閉じ込めてしまっただけだった。

A子さんの恋人

先日、『A子さんの恋人』という漫画を友人に借りた。

A子さんの恋人 1巻 (ビームコミックス)

A子さんの恋人 1巻 (ビームコミックス)

 

 漫画通のその人に、おすすめの漫画ある?と聞いたら返ってきた答えだった。読んだ。

 

A子さん、という女性が、三年間のアメリカ滞在から帰国する。どうやらA子さんはアメリカ滞在中に恋人を作っていたらしい。別れるつもりだったが、その恋人A君に流されて、「1年くらいでアメリカに戻ってくる」と言っちゃったらしい。しかしさらに、A子さんはアメリカ滞在前にも恋人がいたらしい。別れるつもりだったが、その恋人A太郎君に流されて、なかなか決定的な一言が言えぬままアメリカに行き、暮し、そしてのうのうと日本に帰ってきちゃったらしい。

という、三本の人間のか細い線がよろよろと、ついたり離れたりする話。2016年11月現在、三巻まで刊行。

これ、東京で、恋愛で、30代に入るか入らないかっていう女性はどう読むのかなあ。

 

私はA君に愛されるA子が、うらやましい。

私はめちゃくちゃえぐられた。なんかこういう漫画で「えぐられた~」っていうの、なんかアピールじみててあんまり好きじゃないんだけど(だいたい、現実というのは、フィクションによってえぐられるほど、奇にあらず)、私がえぐられたのには理由があった。まあ私もA子さんと似たような状況にあったのだ。

ある期間、海外にいて、恋人を作って、置いて帰ってきた。

まんまA子さんとA君である。A君のスキンシップを見るたびに、そやつのことが思い出された。まあそれは都合のよいオーバーラップで、私がえぐられたのには別の理由があった。私の場合、私が捨てられたのだ。「A君」にだ。

私はある期間、海外にいたことがあって、そこで恋人を作った。お互い学生で、私は交換留学という決められた身分だったので帰国しなければならなかった。ので帰国した。ある期間、連絡を取り合っていたが、なんとなく返信のタイミングが遅くなり、一日空き、一週間空き、空き空き空き、ついには「もうこういうのできない」と連絡がきた。

まあ、それはよくあることで、つうか第一私が彼のためにその国に戻る予定など微塵もなかったのだし、彼にとっては(そして私にとっても)当然の選択だった。私が傷付いたのは別れ自体にではなかった。私が本当にそやつにえぐられたのには別の話がある。その後、なんとなくつながったままのフェイスブックを見てみたらそやつの写真、しかも、そやつと、日本人の女の子とやたらと距離感近めな写真がばさばさ上がってくるのだ。そやつが直接写真をあげていたのではなく、女の子が、そやつをタグ付けするので、こちらのフィードに流れてきてしまう。二人の距離はだんだん(物理的に)縮まっていき、いきいき、まあ、要するに、付き合っていたのだ。私と「別れて」からそう長くもないときに。

私はこの作品を読みながら、そやつのことを思い出した。A子さんはA君にいう。「1年くらい(で帰る?)かな?」。私はそやつと、そんなに長いこと持てなかったのだ。しょうじき、ひと月も持たなかったのだ。

私はA子さんがうらやましいと思った。三巻まで読んだけど、半年も一応待っている(待ってくれてる!)A君。三巻の展開にはそわそわしたけど。

いいなあ、こんなん、なかったなあ。

 

いや、ゆうてフィクションですし。

…と思ったところではっとする。いや、これフィクションやん。フィクションフィクション。どぎついフィクション。

こんなんね、無理よ、むりむり。そのうち適当な女とヤるわ、A君。男はね、遠くの女より近くのまんこだよ。本当。A太郎もな、いまはA子にふらふらしとるけど、そのうちまた浮気するて。男はね、不幸な女性より幸福な女性器だよ。そんなもんよ。私の限られた経験のなかで男性全体を一般化するのは大変よろしくないけど、まあ、私の乏しく悲しく切ない経験からでいえば、そんなもんだった。

 

人間の関係性。

思うに、すご~~く少女漫画ちっくなことを言うけど、人間の関係というのは、それを保持するのに多大な努力を要するんだよね。定期的に会って、好きといい、好きを態度で示さないと、人間ってのはすぐにダメになっちゃうんだぜ。…って、いつだかの芥川賞、羽田圭介『スクラップアンドビルド』でもそんなことがちらりとささやかれておりました。フロムも『愛するということ』で「愛することは技術である」って言ってたのだ。愛、ひいては、人間の関係は、なんども試み、試みようとしなければ持続しないのである。そういう努力なしに成立する人間関係というのはまれで、ぼーーーーーーーーーーーーーーーっとしているだけで、A君からの、時間的にとどまることのしらない、彼の愛の表現を享受できるA子さんなんてものは、人間界に、存在しない。

 

A子さんは存在しない。そういうところで我々は夢みて、過去の恋愛を思い返し、すり減っていってはいけない。人間関係がほしいのなら、それを持続するための努力を怠ってはいけない。ぼーっとせず、夢みず、技術を磨かなくてはならない。

 

まあ、べき論で最後語りましたけど、そもそもそんな人間関係なんて必要?ていうラディカルな問いはここでは語らない。必要と思うのなら、という話であって。

 

そもそもついでにさらにそもそもいえば、A子さんはどちらかというと女性というより男性っぽい。ポリコレ時代もしくはポリコレ先鋭化時代のいま、ジェンダーで区分分けすることはいらんことに火をつけるかもしれないけど。まあそれはさておいてほしい。A子さんはまじでなんも考えていない。A君のことも、A太郎のことも。いわゆる乙女っぽい悩みに苦しんでるわけでもない。恋愛とか結婚、というものより、自分の人生や決断の威力について考えをめぐらせているから、A君もA太郎もほっとかれているのである。

(A子、いいなあ。)と思いながらも、A子は”私(女)がうらやむべき女”ではないのである。どっちかっていうと、私のことをこれまで捨ててきた、男たちのほうの感性に近いものを、持っている。

 

というのが、自分の経験から透かしてみたこの漫画の感想だった。実はこの私の失恋話は一年間に亘って私の頭を悩ますほどの重い問題だったので、自分の経験と重ね合わせるという行為が強烈に全面に出てしまった読書行為だった。漫画としての評価はよくわからない。こういう恋愛にあこがれたりするんだろうか?女性。ちなみに漫画として思ったのは、二巻くらいからちょっと“東京”物語っぽくなって「イナムラショウゾウのケーキが…」とか「カヤバ珈琲で…」とか出てくるのはちょっとだせえな!と思った。なんつうか日常系アルファツイッタラーって感じしますよね。同意するときに「それは本当にそう」って言うタイプのツイッタラーです。もしくはていねいな暮らしインスタグラマー。もしくはことりっぷ。独特のコマ割り、テンポ、線、ほかにないものが詰まった漫画なのだからそんなところでアッピルしなくたっていいのにね。ま、カヤバ珈琲はほんとにいい店だと思いますけど…。

 

スクラップ・アンド・ビルド

スクラップ・アンド・ビルド

 

 

愛するということ

愛するということ