よしなしごと

むかし、好きだった男がいた。

私も人並みに恋愛のようなものをしていた時期があって、例えば上の一文みたいに思い返すときは特定のだれかというよりもそういう、理由はどうであれ、想いを寄せていた人たちの、遠い影みたいなものを思い返すんだけど、とりわけ最近は、生きるためにはたぶん不要な、雑多な感情をやり過ごすために目をつぶるときに「好きだった人たち」の目線が、集合体となってまぶたの裏にくきりとタトゥーみたいに思い返される。

何年か前から音信不通になって、私が勝手に死んだと思い込んだ人は、全然死んでもおらず、なんかどっかの公務員になり、最近、恋人の家に結婚の挨拶に行ったらしい。

憧れと恋慕がまざり結局憧れが寄り切りで勝った人はかつて私の人生をあるものだと予言し、しかし私のいまの現況はけしてそうはならず、しかし「彼が予言した通りであったらよかったのに」と思うこともしきりで、その人はまた、私の人生は彼が予言した通りのもののほうが、私にとってよいだろうと言った。

一瞬だけ、刹那的に遣り取りをした人のこと。昔の恋人の思い出の品は捨てること、理由は言わずもがな。しかし私はその人がくれたものを、部屋の一番いい場所に、もう三年か四年近く、飾り続けている。

うら恋しさやかに恋とならぬまに別れて遠きさまざまの人(若山牧水)

先に太字にしたことと、矛盾するかもしれないけど、別に恋ではなかったのだ。彼らに対する感情は。きっと、世間一般でいう、恋みたいな感情にめちゃくちゃ似ていて私がもう1ミリ、素直でさえあれば、恋と宣言することもできたんだろうけど、やっぱり恋ではなかったのだ。彼らは恋ではなく、私の人生の里標となり、里標にたどりつくたびに、白い文字で私に問いかけるものであり続けている。休日にそういう薄暗い感情になるのはたいていダメで、私は少しでも前向きになるよう、彼らがかつて私に向けてくれたやさしいまなざしを(それはすべて、具体的な言葉ではなく、目線だった。まあ私が都合よく解釈しただけだけど)、ハンカチで包むみたいに心にとめて、ああ、次の一つを、ここから脱する次の一つを、すぐにやらなくてはと、あたたかい、もののように思うのだった。

 

少子化ローション

労働が長時間すぎる!!!!!!
自分でも信じられないけど、まあそういう業界だとは思ってはいたものの、自分の興味でもなくまた同時に世界のためでもない仕事を毎日終電まで繰り返していたらあっというまに精神がバグってしまった。しかしボスなんかは別に興味でも自分の世界のためでもなかろうのに私以上に働いており、まあ彼ら彼女らには自分の家族という世界があるのかもしれないが、単純にすごすぎると、ボスたちからは遠い安全地帯で感銘を受けている。
日々の長時間労働で何が変わったかって、性欲が減った。おいまたそういう話かい?!と思われるかもしれないがそういう話なのだ。このブログにもちょいちょい登場していたスーパーちんぽと、かれこれ二年近く付き合って(≠交際して)いるわけだが、まず12月クリスマスに会う予定だったのは私がとにかく「一人の時間」が必要になりキャンセルになった。キャンセルになったところで私に雌特有の「男が離れてしまうかも」というような焦りはあまり生じず(セフレに毛が生えたようなものだからそんなものか)、とにかく長時間労働に盗られ続ける自我を必死で組み上げその中を好きなもので満たした。
ムラムラするからセフレがいるってよりも、セフレがいるからムラムラする、になったのはいつからでせうね?まあはじめからそうだったのかもしれないけど1月の中旬にはそういうことでようやく会いましょうかと相成り会ったのだった。が、セフレのちんぽが入らない。夫のちんぽが入らないのも大変だがセフレのちんぽが入らないのも一大事だ。ムラムラはします、正確にいえばちんぽも入りますが動くと痛い。正確に言えば痛いというよりもなんか無理なのだ。たぶんそれなりに濡れてはいたんでしょうが、なんか、中の弾力が死滅しており肌年齢だったらかなり実年齢と乖離しているだろうと思われる感じがするのだ。動くと痛い。なにもかも合致していないような感覚で残るのはただ摩擦のひりつきだけだった。 しかもクソ笑えることに、セックス中に号泣した。痛いわけでも虚しいわけでもなくおそらくこういうのはホルモン系のエラーと相場は決まっているがとにかく涙が止まらず頭の中身が歪むのである。電気は消していたので向こうには気づかれなかった…とは思うが心の中で、私は日下部まろんかよ、、と嗤うことでひたすら自分の安寧を保とうとしていた。
そりゃね、国よ、経団連よ、これじゃ少子化は進みますわ。恋する時間も愛する時間もなければまんこが潤う時間もなく、働く女に残されるのはまんこの痛みと自分がセックスできないことの敗北感よ。ローションを使い潤えども満たされず、性交というのはまったく濡れ非濡れの問題ではなく心の余裕の問題なのだなあ。とはいうものの濡れれば救われるのではないかという愚かな人間たちの浅はかな必死さを捨て切ることもまたできず、しかし市販のローションは部屋に置いておくにはダサすぎるし、テンガさん、イロハもいいけど部屋に置いとけるローション、どうっすか。このうら悲しき、人がついに労働に疎外を超えて殺される二十一世紀という時代に。この記事としては少子化対策ローションみたいなものを売ったらどうですかってオチにしようと思ってたんだけど通勤途中のテンションではそんな冗談を飛ばす余裕すらなく、とりあえず私にセックスに余裕を持てるだけの余裕もください。

幽霊の話の話

David Lowery監督のA Ghost Storyを観てきたんですよ。「a ghost story」の画像検索結果

か〜〜〜語る言葉をもたない映画というのを久々に観て、いったいこれはなんの話なんだろうな、まあ、タイトルの通り幽霊の話であってたぶんパンフレットを読むと幽霊にまつわる、人間が想いを寄せがちな思考実験が描かれているわけだが、この映画は言葉を付そうとすればするほど映画を観た瞬間に私が獲得した感情から絶妙にずれていく立ち位置にある映画で、やはり私はこの映画について、「幽霊の映画である」以外に語る言葉をもたない。映画中からおいおいと泣けてきて涙をふきふきしょうがなかったんだが映画が終わってぱっと明かりがつけばそんな涙目小僧なのは私だけで気恥ずかしかったのだがこれはけして「泣ける私、感受性」アピールではなくただ単に涙腺の弱いかもしれないだけの私がしょーもなく思えて恥ずかしかった。
サウンドトラックもすばらしく、すばらしいと思ったらSpotifyを開けばすぐにサウンドトラックが聴けるこの時代のありがたさ。
I Get Overwhelmedを聴いていると私も誰かが死んだようなもしくは私が死んだような気持ちになって、これまた恥ずかしいけど帰り道は後ろを少し振り返るなどもした。人は死ぬ、なにを遺しても人は死ぬし愛する人はいずれ去る、人はパーティーアニマルで人は恋人が死んだ人にチョコレートパイを贈る、幽霊はいるかもしれないしポルターガイストは起こるかもしれないが詰まるところはよくわからず幽霊自身にもわからず、人類も地球も宇宙もいずれ無くなるのだろう、私は何にしたってわからんが、わからないので、こういうきっとありきたりなものの一つに過ぎない(”A”)Ghost Storyとそれと交差する人間の感情に独りよがりにも思いを馳せた。いい映画だった。2018年12月23日現在ヒューマントラストシネマ有楽町にて。

真夜中の発光

夜、スマートフォンをぴかぴか光らせながら見るものといったらAV。AV、エロ目的で見ることもそらそうなんだけど、なんというかボディメイクのモチベーション的に見ることもある。詳しい解説はまたこんどに譲ることにして、こう、「やっぱアングロサクソンのお腹まわりはちゃいまんな」「腸腰筋めっちゃ発達してるやん」「骨盤の角度が違いすぎ」と洋モノを見ながら、「ちょっとだらしない体だけど尻はいいですよ」「やっぱり女は太さ細さじゃなくてくびれやなあ」と和モノを見たりする。

どうでもいいんだけど、「好みとしてはデカパイでも貧乳でもない!お、これくらいの感じがやっぱちょうど素敵だなあ」と正常位の女性の胸を見ながらあとでその女優さんについてググったりするとFカップだったりして、時折「男性は女性のカップ数全然わかってない!!!」みたいな女性の声があったり私も「男性まじで女性のカップ数わかってないわー」と思ったりすることあったんですけど多くの男性が正常位のときに女性の胸を判断しているのなら(胸は横に流れ小さく見えるので)そりゃ感覚わからなくなるよなあ…と思った。「Fカップはこれくらいの大きさなんだしFカップあって当然」と男性が感じてしまうのはここからで、私はこれを「男性の目検のブレはAV由来仮説」と名付けることにした。

どうでもいいんだけど②、このブログのアクセスランキングの二大巨塔はやはりアナルセックスの話と3Pの話で、最近アナルセックスの話が怒涛に追い上げてきてて「何?」と思ってアクセス先たどってみるんだけど「アナル 女性」といった検索語の検索結果ページが大概でそこからエロ系画像のまとめサイトとかにもつながっていて、ど直球のエロ目当てでここにたどり着いちゃった男性には申し訳ないと思うと同時に「もしかするとセフレにアナルでやりたいと言われ決死の覚悟で調べている女がいるのかな…」と読者が真夜中にベッドの中で発光させるスマートフォンに想いを寄せたりする。エロ目的にしろハウツー目的にしろあんまり記事はなくてごめんね…と思うので、そういう目的の人はまずアム読んだほうがいいですよ。

精神が絶不調

精神が絶不調のときは浅田真央2014年ソチオリンピックのラフマニノフを見ると決めていて、曲と彼女の人生と動きのカタルシス、音の重なりが私が見逃していた世界の重厚さについて思い出させてくれる。
あーあーあー全然つまんない、毎日疲弊ばかりが積み重なって指先だけではした金を引き止める自分が全然つまんない、昔きっと大事にしたかったこと、和音の重なりみたいな、そういうものがここ数年まったく積み重ならないまま生きてく自分が虚しい。なんでこんな生活にすがりついているのかもよくわからないまま。体重はどんどん増えていって、(それは私が食事をコントロールできないからなんだけど)、残業すると鼻の脂とか足の臭さとかそういうものが酷くって何もかも醜くすべてがだめみたいな気持ちになる。おさだあんなさんも言うみたいに美容が自尊心の筋トレなのだとしたら私の自尊心は夜、ゴムみたいに伸び切ってしまってなにもかもがしんどい。正直なところこういう「エモーショナル」にまつわる語彙も表現も全然変わらないままでひたすら「しんどい」を繰り返している自分の文章を目の当たりにしなければならないのもしんどく、しかし吐き出す先はいつまでも必要としている。先日おすすめの本を聞かれて答えたけれどそれが六年も七年も前に読んだ本だと気づいて愕然とした 私は精神的な向上心なんて全くどっかに捨ててしまっていたのだった。もーどうしていいかも全然わからずわかるのだけど踏み切る勇気も知恵も金も体力もやる気もなく人生が30年くらいで終わればいいのにとゆるやかな自殺願望を密かに胸に抱える。頭のなかの濡れた和音はいまにもぱりぱりと乾いていって、ほんのささやかな刺激で風に吹かれる砂みたいにどっかにいっちゃいそうだ。私はきっと明日になれば元気でまた指先だけで仕事をこなし、指先だけの仕事でもきっとしっかり傷ついて、また絶不調になって、夜また自分の人生の歯がゆさを人のせいにしたりするんだろな。

女の決意の左向き顔

この前誕生日で、私もいやおうなくアラサーになりました。四捨五入で〜とかそんな小細工しなくてもアラサーになる年齢にめでたくなりました。
しかし誕生日前日付近からな〜〜〜んとなく体調ならぬ心情が悪く、わかりやすく言えばずっと生理前!みたいなあのつーんと虚しく悲しく切ない感情が秋の低気圧と相まってぎゅ〜と私を締め付けるので前日はケーキを買って帰ったのにケーキの入ったビニル袋がしゃりしゃりと鳴るのがなんとなくうら寂しく東京のど真ん中で泣いちゃうかと思ったよ。
家に帰ってから、あっと思ってNetflixで「この世界の片隅に」を見た。

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いわずとしれた戦争映画なんだけど、そこも好きなんだけど私がその日にこの映画を見ようと思ったのはすずが広島から呉へと旅立つシーンを思い出したからだ。すずが、広島の街を、「原爆ドーム」といまは呼ばれる建物を描きながら、「さようなら、広島」と心で言う。すずはそこで泣くわけじゃなかったが、(表向きは)最後になる広島の街を淡々と描き、描くためにまっすぐ見つめる。主体もなにもなく、好きな人のことを心に抱えたままお嫁にゆくすずのその言葉は決意の言葉でもあったのだ。

決意みたいな諦めみたいな、でもがんばるでーみたいな複雑な女の心情を同様に思い出すのは魔女の宅急便のラストシーンで、キキは最後に「落ち込むこともあるけれど私は元気です」と母に手紙を出す。ご存知のように、キキの独り立ちはうまいことばかりではなくどちらかといえばまずいことばかりであったのだ。それでもキキはなんとかたち直って一人で暮らして行く心を決める。落ち込むこともあるけれど落ち込んでなんからんなくってそういう意味では諦めだけどやっぱり決意なんだよな。

二人の決意の裏側には、故郷を捨てるイニシエーションがある。私が切ない気持ちのときにこれらの女たちを思い出すのは、決意の裏っかわにある、失ってしまった故郷、もう二度と前と同じ関係性を持つことはできない故郷、その周辺の人々を懐かしく感じるからなんだろうな。

前回の記事といい、昔をやたらに思い出していないのは現状に満足していないためのような、よくない傾向よなあ。

まあしかしもっとあけっぴろげに言ってしまえばこれは私なりのオナニーなんだろうなと思う。だって昔を手に入れたいわけじゃ全然ない。私は少なからず前進しているし、昔にいまを前進させる力はない。もう手に入らないものを、あー手に入んねえっすねえって悲しむふりをしながら心のどっかをこすりあげて「エモーショナル」を感じたいだけの自分に、十分自覚的だ。

隙あらば入り込むエモーショナルに、わたくしも、さようなら故郷、落ち込むこともあるけれど私は元気で、故郷は二度と手には戻らずそれでもなんとか前進してゆきてえよ、と浸り込んでみるけれどあまりにすずやキキの顔を思い出すことが多いので、もしかすると世間一般ではこれはオナニーではなく孤独って呼ばれるのかもしれない。

 

ピエールボナールのもったりと色彩豊かな世界に浸ってもろもろの創造力を回復する

国立新美術館の喫茶店は北欧ぽいの椅子(誰の作品だっけ?)が置いてあってかわいいね。黒革のチェアシートもモダンに調和的でいい感じ。つまらん人生なんて送っている暇はないのだよなあと痛感する。
ピエールボナールは1867年生まれ、だいたいは「ナビ派」と呼ばれる流派にぞくしていたらしく(しかし「ナビ派」というのは堅苦しい流儀というよりも人の出入りがけっこうあった、サークルみたいなものだったらしい)、昨年に三菱一号館美術館でもナビ派の展示がありましたわな。三菱一号館美術館の展示でも言われていたようにナビ派に属するピエールボナールもまた、はちゃめちゃに色彩を操り見えるものを切り取る。展示でも言われるが、彼の描写のスタイルは見たものを記憶してアトリエに戻り、記憶の中の現実と記憶の中の理想を行き来しながら描くものであったらしい。そうして生まれるピエールボナールの絵画は常に現実でありながら同時に理想であり、理想でありながら同時に現実である。ピエールボナールは誰もが経験しているが故に想起するノスタルジアを刺激しながら、誰もが経験し得なかったが故に想起するノスタルジアを提示する。日本画から学んだ、立体の都合の良い平面化・余白の活用といった描き方、そして自由に色彩を組み合わせ整えることから生まれる画面全体の快さは、相反する二種のノスタルジアをまとめて、見るものに染み付かせる。最後の「花咲くアーモンドの木」なんてエモすぎて、ちょっと泣きそうになったわな…。

全然ピエールボナールにもナビ派にも関係なくって今回の展示でなんとなく考えただけだったんだけど、「世界にはこんなにもいろいろなものがいろいろあるのにお前がただただ気づいてへんかっただけ!」ということを気づかせてくれたものに宮崎夏次系の漫画があるんだよな。彼女の漫画はストーリーの目線が向けられていない部分に対しても等しい熱量の筆致で描かれる。あー私の知らないところでこんなんなってたんですね、という。ピエールボナールの描く、昼食の様子、人の集まり、窓からの風景は、知っていたようで知らなかった/知らなかったようで知っていた景色が、けして退屈で惓んだものではなくもったりと居心地の良いところであったことを口を酸っぱくして告げているのだよ。

くーしかし美術の評ってのは難しいものですなあ、私の使う言葉の薄っぺらいことよ、、、私に美術の素養がないっつうか、「素養」などという言葉で逃げられないほど勉強してないからなんでしょうけど。美術館を回るたびに、「学ばねば」みたいな、教養に対するコンプレックスが炸裂することは炸裂自体が恥ずかしいわけですが、しかしよい絵を伸び伸びと見ることは心身ともに凝り固まったいらだちや屈折感をほぐす行いだと思いますので、週末はオシャレして美術館に行こっ。